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雑想日記

内容の信頼性はこれを保証しない

芸術が人を救うわけないじゃん、という話のはずだった

 これまで、僕は、生活のありとあらゆる領域で、感情というものの価値を認めていなかった。たとえば、映画を見てに”泣けた”という人や、小説を読んで”共感できた”という人たちが、どちらかと言えば気に入らなかった。

 僕は、むしろ思考を重視していた。映画を見て、小説を読んで、何を考えることができたか、あるいはこれから考えることができそうか、それが僕にとっての評価基準だった。それは今でも、もちろん、変わらない。だが、以前よりは、感情的なものを過小評価する偏りは正されてきた。

 それには、乏しいながらも色々な経験が必要だったし、今でも、過度に感情的な人や集団を見ると、ぞっとしてしまうのは抑えがたい。ある集まりが、段々と感情を共有し、そして熱狂へと昇華していくとき、僕はやはり、いつまでも地上にへばりついて、高みへ昇っていくかつての仲間たちを見上げていることしかできない。

 

 よく、”芸術は人を救う”というようなことを言うアーティストがいる。僕はそういう連中を好まない。そういうアーティストは、紛い物か、控えめに言っても、あまりにも傲慢だ。なぜなら、”芸術は人を救う”という発言は、より正確に言うのであれば、”(私の)芸術は人を救う”という発言に他ならないからだ。それは、自分を神にも等しい存在だとする、甚だしい思い上がりだ。

 芸術家は、けっして神などでないし、また、芸術は人を救ったりしない。

 こう言うと、たぶん、”いや、自分は辛いとき芸術に救われた”とおっしゃる向きもいらっしゃるかと思う。それはそれで、結構なことだと思う。しかし、僕に言わせれば、それは”救われた”のではない。ただ、”気分を晴らしてもらった”だけだ。辛いことがあって落ち込んでいるとき、芸術を見て少しだけ心が癒される。そういうことは、当然ある。そしてすばらしいことだ。だが、それは”救い”ではない。

 僕自身、長いあいだ、自分は”芸術に救われた”人間だと思ってきた。(個人的には)いちばん辛かった時期に、クラシック音楽を聴いて、癒やされたり、慰められたり、鼓舞されたり、叱咤されたり、そういうことは、よくあった。そして、それがあったからこそ、生き永らえてこられたと、そう思ってきた。しかしよくよく考えてみれば分かることだが、音楽を聴いて癒される程度の傷は、ほんとうは、大したことはないのだ。芸術という”第三類医薬品”に頼らなくても、じゅうぶん自然治癒していく傷だ。そんな傷で、死んでしまうほど人間は弱くもないし、また強くもない。

 では、芸術が”第三類医薬品”だとすれば、”第一類医薬品”はなんだろうか。僕が思うに、それは”愛”だ!……

 と、言いたいところだが、違う。

 それは、あくまでも、やっぱり、またしても、どう考えても、残念ながら、”金”だ。

 芸術がなくても、愛がなくても、友がなくても、生きていける人間はいるだろう(もちろん、それらがないことを苦にして死ぬ者もいる)。しかし、金がなくて(つまり、まったく無一文。すかんぴん。すっからかん)、それでも生きている人間は、ほんとうにごくごく少数だ。少なくとも、今の先進国社会では、そういうことになっている。もちろん、物々交換による社会システムを維持している(遅れているのではない)社会が世界にあるとすれば、そこでならば金なしでも生きていけるだろうが、幸か不幸か、先進国の一員とされてしまっているこの日本では、苦しんでいる人を救えるのは、金を置いて他にはないのだ。

 しかし、それは絶対に、悪いことでも、汚いことでもない。

 金は、多くの人が思っているのと違って、実は、かなり無色透明なのものだ。

「買うとは、選択の自由のひとつのかたち、無限定の可能性の一形態だ。買うのを見あわせるという自由をも含めた可能性である。/だから、金は現実よりも清潔で、まぶしく美しい。それなのに私たちは、金は不潔だ、金はきたならしい、と感じることがある。もっとも、それはべつだん驚くべきことではなかろう、金もまた、私たちが手を触れるすべての記号――とりわけ言語――と同様に、美しかったり、みにくかったりする。」―佐藤信夫『レトリックの記号論』(p.142)

 貨幣経済を基盤としている社会では、金とは、その社会に存在するほとんどありとあらゆるものを意味している記号である、ということだ。そこには、「買うのを見あわせるという自由」も含まれている。ある意味では、金とは、持ち主の”ほしいもの”を意味する記号だとも、言えるかもしれない。もちろん、何かを買うためには、提示されているだけの代金を用意する必要があるし、結局は金で買えないものも、やはりあるだろう。(……いや、ないかもしれない。金で買った愛を、金で買った友達を、それでも愛や友達だと、心から信じることができる人間が仮にいたとすれば、それはきちんと、愛や友達を金で買ったことになるのではないか?)

 金は、万人にとって”救い”となることができるということだ。その意味内容には、”救い”の可能性もしっかりと、含有されているから。

 反対に、芸術とは、人びとから金を奪う。金を払わない客に演奏するミュージシャンや、物語を楽しませる小説家/映画製作者/マンガ家などは、なかなか想像もつかない。チャリティー・コンサートだって、一旦は、客から金を取り上げて、ちょっとした罪滅ぼしのつもりで、寄付するだけにすぎない。チャリティ・コンサートの寄付の対象になるような、ほんとうに”救い”を求めている人びとは、絶対に、チャリティー・コンサートに足を運んだりしない。というか、できないのだ。

 だからこそ、僕は、”芸術は人を救う”などというようなことを、軽々しく言ってのけるアーティストを好まない。というより、憎んですらいる。

 特に、天変地異が起こって災害が発生すると、欣喜雀躍として飛びついてきて(そう僕の狂った眼には見える)、”今度の作品は、災害をテーマにしました”とか、”被災者の救いとなるような作品を目指しました”とか、”災害をきっかけに自分の創作を見つめ直しました”とか言う奴ら、あいつらは、ほんとうに、許せない。腹が立つ。憤りを抑えきれない。そんなもの、食い物にしてるだけじゃないか。芸術なんて、ほんとうは下らないってこと、分かってるのか。災害の現場で、文字通り命をかけて戦っている方々に比べて、家でのんきにテレビを見て、創作なんかをのうのうとやっている人間は、絶対に、アーティストではない。アーティストで、僕と同じようなことを言ってくれるのは、せいぜい甲本ヒロトくらいしかいない。嘆かわしいことだ。

 (ちなみに、言わないほうがいいのかもしれないが、僕はここで、明確に『君の名は。』という作品と、新海誠について述べている。あれは、ひどい作品だと思う。作品だけなら、まだエンターテイメントとして上出来なものだったかもしれないが、新海は、震災の影響を明言してしまった。非常に罪深いと思う。その発言も、”入れ替わり”を駆使して、なかったことにできればいいですね、監督。)

 

 さて、感情の話から、ずいぶん脱線してしまったものだ。だが、そろそろ伏線を回収しなければいけないだろう。物語に登場した拳銃は発砲されなければならないと、ソクラテスだったかトマス・アクィナスだったかトルストイだったかチェーホフだったかが言っていたのだし。

 僕は、このブログを書いているとき、これっぽっちも、”救い”などということを考えていない。(もちろん、このブログは誰が見ても芸術ではない。僕だって、芸術作品のつもりで書いているわけではない。だが、形態は小説と変わらない。文字媒体だから。)僕のブログを読んで、お金儲けの作戦を立案できる人など、間違いなく存在しないからだ。(そもそも、書いている人間にも、一銭も入ってこない。)

 では、僕はどんなことを考えて、こう言ってもよいならば、目的にして、このブログを書いているのか。自分のため、というのは当然あるとして、数少ない読者に対してはどういう姿勢をもって臨んでいるのか。

 それは、僕の記事を読むためにかけた数分を、無駄ではなかったと思ってもらうこと、ただそれだけだ。

 僕はその程度の、カスみたいな目的が、アーティストのもつことができる、ただひとつの目的だと、そう信じている。少なくないお金を払って、少なくない時間を割いて(どちらも、人生においてあまりにも貴重なものだ)、自分の芸術作品を鑑賞しようと思ってくれた人に、少なくとも、少なくとも、少なくとも……、”無駄ではなかった”と、そう思ってほしい。”あーあ、時間と金が、もったいなかったなあ”、なんて思わせたくない。ほんとうに、それだけだ。

 それから、できれば、あくまでも、できれば、わずかでも、僕のブログから、読者が何かを得られたら、それは、比喩ではなく、飛び上がって喜ぶ。涙も流すかもしれない。どんなことでもいい。癒やしでも、慰めでも、励みでも、元気でも、勇気でも、やる気でも。たった一行でも、共感できる文を見つけてもらって、その文に出会えてよかった、と一瞬思えて、たとえ明日には忘れてしまっていても、一向に構わない。でも、僕は”あなた”のことを、いつまでも覚えている。

 そして、もし仮に、僕のブログが、誰かを”救う”ことができたのなら、そんなことは絶対にできないと、口を酸っぱくして言ってきたけれど、間違いと間違いの乗算が起こって正しいことになって、僕のブログで、誰かが”まだ1日くらいは生きていよう”と思えたのなら、”明日も頑張ろう”とだけでも思えたなら、僕は、”あなた”のために、あなたがそう思うためだけに、膨大な時間と、僅かな経験と、乏しい才能を削って、必死になって言葉を紡いできたのだと、そう断言してもいい。

梅の名所、京都の「城南宮」に行ってきた(写真2枚だけ)

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 梅が好きだ、桜よりも。

 梅の、地味さが好き。桜ほどにはたくさん花をつけないし、木も比較的こぶりだ。それから、木の形も好き。桜はどちらかと言うと、木の王道って感じの形をしている。根と幹が太くて、真っ直ぐに伸び、ほぼ円形に枝を広げる。けれど、梅は梅で、松の木みたいに、枝が細くて、くねくね曲がって伸びていて、実に雅だと思う。

 それにしては、今まで、いわゆる「梅の名所」とされている場所に赴いたことがない。ちょうど見頃だったから、今年は行ってみることにした。そういうわけで、京都で梅がきれいな場所をインターネットで探した。すると、城南宮という場所が一番有名で、写真で見ても一番きれいなようだった(城南宮についての説明は面倒くさいからwikipediaに譲ることにする)。

 ずっと行くつもりだったが、天候が芳しくない日々が続いて行きあぐねていた。花は、やはり青々と晴れ渡った空のもとで見るに限るのだ。しかし、花見というものは往々にして、今か今かと機会を窺っているあいだに時期を逃すもの。だから今日こそはと思っていた。午前中は晴天だったが、昼飯を済まして、さあ出かけようという段になって、先週とまったく同じように雲が垂れ込めて薄暗くなってきた。窓を開けて外に出てみると、かすかに雨が降ってすらいる。

 まただめだったか、と思い、諦めて、前日に借りてきていた『インターステラー』を見始めた。見るのは二回目だが、以前はTVのへぼいスピーカーだったのに対して、今回はそれよりは遥かにマシなスピーカーを用意した。宇宙船のエンジン音が腹に響く。しかしなかなか物語に入り込めなかった。出かけたいという気持ちを何日も持て余して、かなり煮詰まってきていた。それに、ちょっとした理由もあって、何としても今日、梅を見ておきたかった。無駄な1日が過ぎていく、と思って憂鬱になった。

 もう見るのをやめようかと思って、ふと窓外に目をやると、雲の切れ間に青い空が見え、春の日差しが差し込んできていた。考えるよりも先に身体が動いて、出かける準備を始めていた。

 

 地下鉄に乗って、たぶん20分くらい。竹田駅で電車を降りると、嫌な予感が的中して、家を出たときに温かく照っていた太陽は、どんよりとした雲に覆い隠されてしまっていた。それにしても、伏見はいつ行ってもどことなく陰鬱な雰囲気が漂っている暗い街だから、あまり好かない。晴れていても曇っているような気がする。

 駅からさらに歩いて、公式的には15分、しかし、たまにはスマートフォンに頼らずに行こうなどという気まぐれを起こしたせいで、恐らくはもっとかかった。途中で、明らかに道を間違ったという感覚があり、GPSで確かめると案の定、角を真反対の方向に曲がってしまっていた。軌道修正してからは、割りと早く着いた。

 灰色の鳥居をくぐって、境内に入る。さっそく、小振りな桃色の梅が一本、苔むした地面に植えられている。その周りには、当然のように、スマートフォンやら一眼レフカメラやらを構えた人びとが群がっている。一眼レフの青年などは、次から次と、ファインダーすら覗かずに撮りまくっている。これでは構図も何もあったもんじゃない。ご自慢の一眼レフも泣いているだろう。もはや何のために見に来ているのか、何のために撮影しているのか、何が楽しいのか、さっぱり分からない。

 しばらくそこにいて、それから有料の庭のほうに移る。受付の巫女さんに挨拶して、お金を払おうとすると、「ただいま100円玉が不足しております」という注意書きが眼に入った。ぜひとも協力したかったが、記憶が正しければ、今は100円玉はない。申し訳なく思いながら、500円玉を二枚出して机に置くと、「ちょうど頂きます……あっすみません。1000円お預かりいたします。……400円のお返しです」と言われ、(恐らく)なけなしの100円玉を4枚ももらってしまった。どうせ1000円なら札を出せば分かりやすかったのに、100円玉を探した勢いで小銭で払ってしまったのだ。罪悪感がさらに増した。だが、100円玉不足を補うどころか、むしろ不足を助長したのだから、反省して然るべしというものだ。

 チケットを受け取り、少し行ったところに設置してある机の上のパンフレットを取る。ただぼんやりと眺めて流れていくだけでは味気ないから、こういうものを手にとって読むのは大切なことだ。……結局、大して読まなかったけれど。

 

 先へ進むと、予想をはるかに凌駕する本数の、華やかな梅の出迎えを受けた。「春の山」と呼ばれている一角らしい。一面に桃色が充溢していて、ところどころに白色も滲んでいる。まるで桃色の絵の具を大きなバケツで空間に撒き散らしたかのようだった。そのとき、時機を見計らったかのように、再び太陽が顔を見せて、「春の山」を陽気に照らし始めた。何という恩寵。

 梅というともっと質素な印象を勝手に抱いていたが、なかなかどうして、ここの梅は、どちらかと言えば派手だ。桜並木にも匹敵する、と言ってそれが賞賛になっているかは分からないが。質素さのなかに落ち着きがある梅は素晴らしい、しかし、この梅も悪くない。

 狭い通路を聴衆たちが埋め尽くしている。皆、手にはスマートフォンかカメラを持っている。聞こえてくるのは、鳥のさえずりと、木々がそよぐ音……と言いたいところだが、ひとまずは、カメラのシャッター音と、直ぐ側の道路を通る車の音が聴覚を支配する。一旦落ち着いて、耳を澄まさなければ、心が洗われるような自然の音の数々を聴くことはできない。残念だが、それは仕方ないことだ。

 「春の山」というだけあって、大きく湾曲した通路のあいだが、少し高く盛り上がっている。そこに無数の梅が植わっていて、景色が桃色に霞んで見えるほどだ。向こう側の通路を行く人びとの姿が、盛り上がった土に遮られて、まるで顔だけが横滑りするように流れていくのが、何だかおもしろかった。

 突然、ひとつの梅の木の周囲だけを桃色の花びらが、まるでスノードームをひっくり返したみたいに、ひらひらと舞い落ちた。頭上を鳩と思わしき鳥が飛んで行ったのが、落ちてくる影で分かった。どうやらあの鳥が、枝から飛び立つときに花びらを雪と降らせたものらしい。そうか、花びらを散らすものは風だけではなかったのか。しかし、あの散り方は、風による散り方とはまた一味違って、ちょっと幻想的だった。

 何となく、全体の景色に見覚えがあった。はて何だろうと考えて、それがスキーに行ったときに見た雪景色であることに気がついた。高い山のてっぺんまでゴンドラで昇って、怯えながら、のろのろと滑り降りていったとき、急に周りに人がいなくなって、あたりに霧のような静寂が立ち込めた。見回すと、冬枯れの木々に、雪の花が満開に咲き乱れていた。それまで、スキーがつまらなくてすごく不機嫌だったのも忘れて、その景色のあまりの静謐さを恍惚として眺めた。あの満開の雪の花の木々に、似ていたのだ。

 

 それにしても、本当に、現代人のカメラ狂いというのは、どうにかならないものだろうか。彼らは、梅を見に来ているのか、カメラのファインダーや画面を見に来ているのか、まるで分からないほど、とにかくずっとシャッターを切り続けている。カメラを構えていないときでも、とにかく写真に撮って美しいかどうかというメガネでしか、景色を見ていないのではないかと思う。自分がいったいその場で何を見たのかというのは、ひょっとすると家に帰って、カメラをPCに接続して、撮影した写真を確認したときかもしれない。

 彼らにとって、美しい写真として還元できないものは、その場には存在しないも同然のだろう。そもそも、現代人は写真を評価しすぎている。結局、写真というのは、よほど上手に撮らない限り、文字通り「静止画」なのだ。しかし現実というのは、様々な要因によって刻一刻と表情を変える。たとえば、にわかに雲間から差し込んでくる日差し、可憐にさえずりながら喜ばしく飛び交う小鳥たちの群れの素早い動き、飛び交う小鳥たちが降らせる花びらの雪、小川を流れてくる泡沫と花びら、それからもちろん、小鳥のさえずりや木々のそよぐ音、梅の花の芳しい香り、などは、どれほど巧みな撮影技術を持っていたって、写真に収められるはずがない。追憶の引き金として、一二枚の写真を持っておきたいという気持ちは分かる。しかし、あれほどの写真の撮りまくりようでは、梅を見た思い出ではなくて、写真を獲った思い出しか残らないだろう。

 念のために行っておくが、写真愛好家の方々を侮辱する意図は、もちろんない。と言っても、たぶん説得力はないだろう。どう考えても、写真愛好家を攻撃しているとしかとれない文章だから。でも、ブログだし、好き勝手に愚痴らせてもらう。

 

 さて、梅を見に行ったのであるが、いちばん印象に残ったのは、実は、梅の景色ではない。――それは、椿だった。

 梅はもう十分見て満足したので、順路を先に進むことにした。でも名残惜しいので振り向き振り向きしながら歩いていくと、ふと、木漏れ日が差し込む苔むした地面に、数個の椿の花がぽつりぽつりと落ちているのが眼に停まった。「わざと落としたみたい」と他の客が言っていたが、まさにその通りだった。もちろん、それが自然に出来上がったものか、施設関係者がわざと作ったものかは定かではない。でも、たぶん自然に出来上がったものだったろうと思う。見上げれば、確かに木の枝から生えている椿があったから。

 苔に覆われた地面の緑色と、葉っぱが覆う空の緑色とに、椿がそっと艶やかな赤色を添えている。椿の花にとっては、枝につながっているか、枝から離れているかはこだわらないのだろう。彼女たちは、ただ緑色を背景にした自分たちの赤色の美しさのみを知り尽くしている。だからこそ、枝から切り離された、死んでいるはず花であっても、あれほどの生命感が漲っているのだ。それこそが椿にとっての生なのだ。むしろ、苔むした地面で赤く映えている椿の花のほうが、枝とつながっている花よりも、いっそう生き生きとしているように感じられた。

 

 椿の花と苔による、偶然できあがった芸術の鮮やかな印象を忘れられないまま、「平安の庭」と題された庭園へと移動した。こちらは、「春の山」の派手やかさと比べて、実に枯淡だった。目にうつるのは、灰色の砂利、松の木の黒い幹と深緑の葉、大きな池と散りばめられた岩、池へと控えめに流れ込んでいる小さな小さな滝、などなど。しかし、美しさという点では、少しも「春の山」に劣らない。

 庭というのは、まったくもって立体的で、なおかつ流動的だ。

 それはどの方向から眺めても、一幅の絵画を凌ぎ、けっして一定の構図に収めてしまうことはできない。もしそうしたら、庭から無限の広がりを奪ってしまうだろう。見るものが実際に入り込んで、自らが景色を造形することのできる、未分化の芸術空間、それこそが庭なのだ。そして、庭は常に、偶然にして必然の、自然の動きによって千変万化の表情を我々に見せてくれる。そこでは、天高く照る日も、垂れ込める雲も、突然降り出す小雨も、水の流れも、落ちた椿の花も、飛び交う小鳥も、鳥のさえずりも、木々の揺らぎも、すべてが芸術のひとつの要素として存在し、庭は、永遠に完成することはない。いわば、絶えざる創造が、そこにはある。

 

 見るべきものをすべて見終え、城南宮を後にした。太陽はもうすぐ山の向こうへ沈もうというころで、空気は段々と肌寒くなってきていた。しかし、心は温かい。

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存在することの習慣

 人は、生きているだけで他人を傷つけるものだと、よく言われる。

 ほんとうにそうだと思う。

 僕は、これまでの人生で、いじめをしたことはないとずっと思ってきたし、たぶんそのことを誇らしげに公言もしてきた。だけど、傲岸な僕は気づいていなかったのだ。いじめというのは、したことがあるとかしたことがないとか、そんなに単純な二分法で片付けられない問題だということは。

 いや、いじめは当人がいじめと感じたら……、とか、そういう一般論をなぞりたいわけではない。もっと何か、人が人を傷つけるということの本質を、僕は語りたい。でも、それを語るために適切な言葉を、今の僕は持ち合わせていない。あるいは探り当てられない。きっと若すぎるからだろう。

 自分を軸にして考えてみよう。

 僕は、基本的に、ものすごくナイーブだから、ほんとうに些細なことでいちいち傷つく。身近な人の、おそらく何の考えもなしに発されたのであろう一言が、僕の心に決して洗い落とせないシミを落とすことがよくある。ふとしたときにその一言が頭に浮かんできて、独りで勝手に憂鬱に引き摺り込まれていくこともある。まるで、汚れひとつないと思っていたお気に入りのシャツに、茶色いシミを見つけたときのように。

 なかでも、果たされなかった約束がこたえる。

 親とか、友達とか、恋人とか、先輩とか、まあ、なんでもいいけど、そういう人たちが、軽い気持ちで約束をしてくるというのは、誰にでもあることだと思う(「今度あそこ行こう」とか、まあ今はそんなことしか思いつかないけど)。

 そういう軽い気持ちの一言を、僕は割りと真に受けてしまう。で、そういう約束は、僕の心のスケジュール帳に、黒くハッキリした筆跡で記入される(心のスケジュール帳は曖昧模糊としていて、具体的にいつの予定なのか判明していなくても記入できるのだ)。

 もちろん、それらの多くは、果たされなかった約束となる。

 でも、心のスケジュール帳は、折に触れて僕に教えてくれる。あの人との約束、果たされなかったね、と。まるで、どこが引っかかったのか分からないところに、いちいち赤線を引いて教えてくれるマイクロソフト・ワードのように。そんなことは分かっている。僕が一番分かっている。だけど、そんなことをいちいち気にしているのはあまりにもナイーブだ。未熟さの証拠だ。泣きたい気持ちになる。これがいわゆる若気の至りというやつだ。

 そのことで、本人を責めることなど、どうしてできようか。人間は、軽はずみな発言をせずには行きていけない、罪が深い生き物だ。言ったそのとき、そのときは、ほんとうに果たすつもりで言った約束かもしれなかった。発言とは実際そういうものだ。それにしても、傷ついてしまったらもうしょうがない。

 だが、そのときの僕は忘れている。自分もまた、果たさなかった約束が山ほどあるだろう、ということを。そして、気付かないうちに傷つけた無数の”あなた”のことを。

 気付かないうちに傷つけた無数の”あなた”について考えることは、一種のナルシシズムに過ぎない。そんな後悔は、犬も食わない。本気で申し訳ないと思っているのなら、具体的にどこの誰だったかを、必死で思い出して、謝罪しに行くべきなのだ(まるで、蟹のフォルムについて延々と論じた”あの映画”のように)。それをしない時点で、ほんとうの反省ではない。百歩譲っても内省、ずばり言えば自慰だ。そういう行為には、自己憐憫が潜んでいる。傷つけなければ生きられないワタシ、無数の”あなた”を傷つけてしまったワタシ……、ケータイ小説風の、虫酸が走る、アタシの自我。

 でも、眠れない夜には、気付かないうちに傷つけた無数の”あなた”の、顔のない顔が次々と闇の中から浮かんでくる。それらは僕を責めるために来ているわけではない。ただ黙ってこちらを見つめているだけだ。それが僕にはたまらない。顔があって、こちらを厳しい眼で刺すように見つめてくれればどんなに良いだろうか。ああ、業が深い。

 深夜に起きてしまって、どうにもしばらく眠れそうにない、その勢いのなさに任せて、こんなくだらない、論理の錯綜した記事を書いてしまった。

 しかし、傷つけたり、傷つけられたり、そういう営みについて語るときは、どうしてもこういうふうにならざるを得ないのではないか、とも思う。それはあまりに抽象的な営みだからだ。これが動物だったら、肉体の傷つけ合いに終止して、もっと具体的だ。それは容易に治療できる(いや、動物は治療しない。治癒するだけだ)。抽象的に傷つけ合うのは、たぶん人間だけだ。だから、傷つけることについて語るときも、何だかはっきりしない議論になってしまうのだろう。

 もしかしたら、この記事を、僕が気付かないうちに傷つけた無数の”あなた”が見ているかもしれない。僕は”あなた”に謝ろうとは思わない。どうせ、文字で謝罪したって、届かないからだ。だけど、ひとつ言わせてほしい。僕は、”あなた”につけた傷を背負って、生きていくつもりだ、と。

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The Tempo of Living(あるいは:ピアノ上達法)

 ピアノを上達するために重要なことが二つあると思う。

 一つは、毎日、欠かさず同じ練習を繰り返すこと。

 もう一つは、毎日、違う練習をすること。

 一見すると背反しているように思えるが、実はこれ以上の真実は(僕にとっては)ない。実際に、僕はこの方法を確立してから、ピアノの腕を格段に上げた。単なる技術だけでなく、音色までも。

 少し解説しよう。

毎日、欠かさず同じ練習を繰り返すこと。

 これは、ピアノに限らず、ありとあらゆる物事の上達法として、ありとあらゆる場所で口うるさく言われていることだから、改めて解説するまでもない。毎日、決まった練習を決まった量する。これ以上の上達法はない。それは真実だ。積み重ねることで技術が身体化され、以前は必死でやっていた行いが、いつしか自然とできるようになる

 僕の場合(というかピアノの場合)は、これはたとえば音階練習にあたる。ハ短調だの変ホ長調だのの音階を、ひたすら上ったり下ったりするだけ。指使いも一切変えない。ピアニストというのは、必ずと言っていいほど、幼いころにこの音階練習を嫌になるほどやるものだ。

 それから、バイエルやハノンといった練習曲。僕はハノンをやっているが、これは実につまらない。どれくらいつまらないかと言うと、これくらいだ。

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 お分かりいただけただろうか。ドミファソラソファミ、レファソラシラソファ、ミソラシドシラソ…………、これを延々繰り返すだけだ。もちろん、ハノンにはこの曲以外にもたくさんあるが、どれも似たようなものだ。

 それらの曲をとにかくやる。飽きてもやる。嫌になってもやる。死んでもやる。毎日やる。

 もちろん、これだけが上達法ではないが、かつてハノンが嫌いで嫌いで仕方なくて、そんなものすっ飛ばしてクラシックの曲をやっていたが、限界を感じて、結局ハノンを熱心にやるようになった僕が言うのだから、間違いない、やっぱりハノンはスゴイのだ。

 狂ったようにハノンをやりまくるようになってから、技術も音色も格段に上昇した。ハノンさまさまだ。ありがとーーー、シャルル=ルイ・アノン!(スマイルセラピー風に)

毎日、違う練習をすること。

 ハノンのメニューを一通り終えたら、ちょっとだけ休憩する。そのとき重要なことは、腕の疲労感を味わうこと。あぁ~練習した! これだけやれば上達間違いなしやん!(別に関西弁じゃなくてもよい)という風に、自画自賛する。できればソファーに深々と腰掛けるとよい。全身から力を抜ききって、大きくため息。それで気合を入れ直して、ふたたび黒い塊のもとへ。

 次は、いよいよメインの曲の練習に移る。

 まずは、本番と同じテンポで、舞台の上にいるように弾く。舞台袖から出てきて、観客に向かって立つ。君が好きなあの子の可愛いお顔が薄暗い客席からこっちを見ていることを確認して、そっちにお辞儀。――優雅にね。それでゆったり鷹揚に、できるだけ余裕をかまして座る。で、玄人ぶって座り方にこだわる。スツールの両サイドを掴んで、何回も座り直す。よし、これでいい、みたいなしたり顔をしてから、ふっと息を調える。おもむろに手を鍵盤の上にかざして、弾き始めよう。

 さて、弾き終わったら、その演奏でよくなかったところを内省する。で、その部分がよくなかった原因を探る。まるで医者みたいに。問診したり触診したり内視鏡検査したりレントゲン見たりして。技術が足りないのか、解釈が甘いのか、音色がぴたりとはまっていないのか……。特定できたら、それでOK、すぐに直せないことのほうが多いから、ひとまず棚上げしよう。

 さて、いよいよ、違う練習をするときが来た。

 僕が今までにやってきた、(たぶん)奇妙な練習法を紹介しよう(たぶん、とつけたのは、ひょっとしたらピアニスト界隈では当たり前の練習法かもしれないからだ)。

  • 弾き終わるのに丸一日かかるんじゃない? ってくらい遅く演奏する。
  • ぐっちゃぐちゃに崩壊してもいいから、限界を突破した速さで弾く。
  • 全部の音符をフォルティッシモで弾く。
  • 全部の音符をピアニッシモで弾く。
  • 全部の音符をスタカートで弾く。
  • ペダルを一切使わない。
  • 右手だけで弾く。
  • 左手だけで弾く。
  • 指をべったりと伸ばして弾く。
  • 指を突っ立てて弾く。
  • 地べたに座って弾く。
  • 目をつぶって弾く。
  • 部屋を真暗にして弾く。
  • 楽譜を凝視しながら弾く。
  • 内声だけを弾く。
  • メロディーだけを弾く。
  • バスだけを弾く。
  • エッチなことを考えながら弾く。
  • 晩御飯のことを考えながら弾く。
  • 眠りにつこうとしながら弾く。
  • 感情を思いっきり顔に出して弾く。
  • 満面の笑みを浮かべながら弾く。
  • 苦悶の表情を浮かべながら弾く。
  • ピアニストになってチヤホヤされる妄想をしながら弾く。
  • 演奏の批評をしながら弾く。
  • プロの演奏を流しながら弾く(シャドウイング)。
  • 弾かない。

 ざっとこんなところだ。

 これらを、毎日、思い付いてしまったらとりあえずやってみる。無駄だと思っても。ばかばかしいと思っても。居間から見ている家族に笑われても

 意外なことに、上に例示した練習法は、だいたい効果をあげた。ほんの少しの場合もあれば、劇的に変わる場合もあった(まことに意外なことだが、「弾かない」という練習法ほど効果を上げたものはない。ただし、「弾かない」という練習をしすぎると、取り返しのつかないくらい下手くそになるから注意してほしい)。劇的に変化した練習法は、正規のメニューに採り入れて、何日かに一回やったりもしている(特に効果的だった練習方法は太字で書いた)。

 重要なことは、その日、その場で思い付いたことをやるということだ。だから、僕が提示した練習法を真に受けて真似してはいけない(たぶんそんな人いないだろうが)。自分の心が自然に思いつかせてしまった練習法をしなくてはいけない。逆に言えば、自分の心が自然に思いつかせた練習法は、傍から見てどれほど奇妙であっても、君にとってはこの上なく自然な練習法だということだ。

 どうしてそれらの奇妙な練習法が、上達のために効果的なのかは、言うまでもないことだが、わからない。

 ただし、かなり抽象的な言い方になってしまうが、おそらく、自分の身体にビルトインされた演奏に重層性が増すのだと思う。図示してみればこんな感じ。

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 水色とオレンジの線が、本番の演奏だ。

 ふつうの演奏だけだと、水色の線の演奏になる。どこか窮屈でしょ? これじゃ面白みのない、何の変哲もない、つまんねー演奏になってしまう。

 オレンジの線が、奇妙な練習法をたくさんした人の演奏だ。彼の演奏には、幅がある。本番だから仕方なくふつうの演奏をしていても、変なテンポの演奏とか、変な姿勢の演奏とか、変な顔の演奏とか、演奏せずにテレビばっか見ている演奏とか、それらのいろいろな演奏が聞こえてくるかのよう。そういう、あらゆる演奏の可能性が織り込まれた重層的な演奏こそが、聴衆を魅惑できるのだ。

 と、いちおう、そういう風に言っておこうか。

The Tempo of Living

 訳すと、”生活のテンポ”となる(たぶん。だって僕は英語が苦手だから。ちなみに英検は四級すら持っていない)。

 僕がこれまでいけしゃあしゃあと語ってきたことは、おそらくはピアノに限らずすべての楽器にあてはまると思う。

 そして、楽器に限らず、すべての芸術に、すべての行為に、あてはまるだろう。

 生活のテンポを、決して一定に硬直させてしまうことなく、意図的にずらし、遊んでみる。これこそが、あらゆる人生の可能性が織り込まれた重層的な人生を生きる術だ。

読書感想文:遠藤周作『沈黙』

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

  映画化をきっかけに読んだ。僕は文学が映画化された場合は必ず原作を読んでから観に行く。大体はそのほうがより作品を楽しめる。でも、今回は原作を読むだけで結局劇場には足を運ばなかった。僕としては原作だけで充分得るものがあったと感じたからだ。それを乱文で書き留めておいたので、例によって例のごとく、滞っている更新の誤魔化しとして、ここにアップしておく。ネタバレは考慮していない。よって注意してほしい。

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 神の沈黙というテーマは、サマセット・モームの『人間の絆』にも少し見ることができる。ただしあちらは本書に比べればはるかに軽妙なエピソードではある。もちろん、跛が治ってほしいという願いは切実ではあったろう。だけれど、フィリップは結局、信仰という絆を断ってしまい、それもモーム流のシニシズムで彩られているから深刻さはない。むしろ、絆から解き放たれた自由感が漂っている。


 それに対して本書での神の沈黙というテーマは深刻だ。布教のために訪れたはずの日本で、その願いとは反対に自らのせいで信徒たちが次々と責め苦に遭って死んでいく。そんな現実にもかかわらず神は救いの手を差し伸べるどころか沈黙したままである。そんななかで次第に、信仰の揺らぎ、神に対する懐疑、背教の観念が育ち始める。ついにロドリゴは踏み絵を踏むことになるが、それは果たして神に背く行為だったのか。

「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)」

 「『私はそうは言わなかった。今、お前に踏み絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから』」

 これらのキリスト教解釈が正しいものであるかは私にはわからない。しかし、聖書もまた言葉で織られたテクストであることを考えれば、万人が共有できる絶対的に正しいキリスト教などというものが存在するのかも私にはわからない。聖書を読んで解釈をするも千差万別。牧師の説く聖書解釈も千差万別。牧師の説教を聞いた信徒の解釈も千差万別。一体どこに確固たる教義などというものがあり得るだろうか。

 同じことが宗教それ自体について言える。もし世界を同一の神が創造したのであれば、それぞれの民族、文化に別個の神や神話や宗教があることは辻褄が合わない。世界を創造しておきながら、その世界の一部しか面倒を見ない神など全能ではない。だがこうも考えられるのではないか。同じ神が為した業であっても、異なる文化に属する人びとはそれぞれ別様に解釈し、それが世界に多数存在するてんでばらばらの宗教となったのだと。


 重要なのは、”痛み”そのもの、だろう。痛みに耐えられるかどうかは問題ではないのだ。キチジローが、世の中には生まれついて強い者と弱い者がいると言うのは恐らく間違っていない。だから、人は悪事を働くこともあるし誘惑に負けることもあるし、神を裏切ってしまうこともある。問題は、そこに痛みがあるかどうかだ。それらの行為に対してもはや痛みを感じなくなってしまったとき、その麻痺は致命的だ。そのときにこそ神は本当に沈黙するだろう。痛みの感覚を失ってしまった人間がキリストの教えを受け入れることなどできるはずもないのだから。あるいは、どんな宗教の教えですら。

「あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」

 

意味の世界は嫌いだ

 何となくタモリさんのWikipediaを読んでいたら、「『意味性』のある音楽は苦手としており……」という記述があった。(タモリ - Wikipedia)ちなみにその記述の出典はここ(ほぼ日刊イトイ新聞 - はじめてのJAZZ。)。

 この記事を読んで僕は思わず膝を打った。我が意を得たりの気分だった。というのも、僕自身、「意味性」のある音楽が苦手で、さらに言えば、音楽以外のありとあらゆる世界においても「意味性」が苦手だからだ。

 この記事に書いてあることは、ほんとうに一言一句すべて僕が平生から歯がゆく感じていたことだったので、もはや全文引用したいくらいである。が、そのなかでも特に強く共感した部分を引っ張ってみる。

ぼくが音楽を好きだというのは、意味がないから好きなんですね。

小学校の3年生ぐらいのころのことを、いまでも思い出すんだけど、教室で誰かの書いた文章を読んでいて、先生が「さて、この作者は 何を言いたかったんでしょうか?」と聞いたんです。え? 言いたいことはすべてここに書いてあるじゃない……そういう質問は、今でも、不思議に思うんです。(中略)作者は、別にそれほど言いたいとは思っていないかもしれないし。たとえば、ただ、おもしろいものを書きたいだけで。

大島渚さんがお元気なころ、若者と討論があって……。『戦場のメリークリスマス』のときに若者が質問したんです。「大島監督は、この映画を通じて、反戦ってことを言いたいんですか?」そしたら大島さんは激怒して、「そんなことは思ってません!ぼくは顔も売れてますし、文章も書くから、反戦なら、反戦!大きく紙に書いて出しますよ!」

すべての人間は意味の世界にいるわけでしょう?もうなんでもかんでも、意味の連鎖性の中に生きているみたいで……それに、我慢ができないんです。

  最後の発言は糸井重里さんによるもので、あとの3つはすべてタモリさんによるもの。

 まあ、そもそも”意味”とは何かという定義をしなければ、”音楽に意味があるか”という問いも不毛なものになりそうだが、少なくとも、言語化できる、どことなく道徳的というか、分かりやすいメッセージ性とか物語性といったものは、クラシックやジャズなどのいわゆる「純粋音楽」にはないと言ってもそう的を外してはいまい。(もちろん、クラシックのなかには、リート(歌曲)やミサ曲、オペラなど、わりかし明確な意味性をもった形式もあるが、それはとりあえず度外視しよう。)

 僕がクラシック音楽を愛好している理由も、まさにその意味性のなさにあると言って良い。ベートーヴェン交響曲やピアノ・ソナタに、万人が共有する絶対的な”意味”があるなどという意見に、誰が同意するだろう。僕にとって音楽とは、糸井さんの仰る「意味の連鎖性」から逃げ込む避難所のようなものなのだ。

 同じようなことが、文学についても言えると思っている。当該記事でも、「誰かの書いた文章」の「作者」が「何を言いたかったのか」という問いが、それこそまさに”無意味”なものであると指摘されている。とはいえ、文学から一切の”意味”を排除することもまた不可能なことであり、かつ”無意味”なことであるのは否定しない。だが、文学(あるいは映画でも良い)に、性急に”意味”を求めてしまうこと、そして、その”意味”が往々にして陳腐な道徳・教訓(たとえば「反戦」など)に堕してしまうところに嫌悪を感じるのである。

 「で、結局何が言いたいの?」「この作品は何を意味してるの?」これらの問いはすべて無意味の墓場へと埋葬されてしまえばよい!

 たった数行で言い尽くせてしまうような道徳・教訓のメッセージを送るために、数万や数十万の文字、あるいは数時間の映像を用いる必要などどこにあるのだ? それこそ「反戦」というプラカードを掲げて国会前にでも出向くほうがよっぽど良いではないか。

 道徳・教訓的な価値判断では決して割り切ることのできない、曖昧模糊にして複雑怪奇な現実を、できるだけその混沌を保ったままでどうにかこうにか表象しようという試みこそが文学であり、映画ではなかったか。それを安直な”メッセージ”に還元して、受信して、感動して、家に帰ったらスッカリ忘れてしまうような輩は二度と文学や映画になど触れぬが良い。

 混沌を混沌のままで、混沌によって描ききらない。名状しがたいことを言い尽くさないように努力する。神がもたらす唯一絶対の答えに否を突きつけて、常に意味を横滑りさせていく。これらの試みに理解を示せぬようなら、いっそ関わらないほうがマシだ。

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楽器が演奏できるのはいいことだ

 僕は、ほんの他愛もない趣味程度に、かじる、よりは、なめる、といったほうが適当な程度にピアノを嗜んでいる。やっていて哀しくなるくらいに下手くそなのだが、練習しなければ下手くそ以前の屑で永遠に停滞したままなので、毎日少しだけでも練習するように心がけている(もちろん、ほんとうに毎日できているわけではない)。

 しかし、下手くそなことをやり続けるというのは、思っている以上に根気がいるうえに、失敗ばっかりするので神経がみるみるすり減っていく。思わずピアノを蹴り飛ばしそうになることもある(念のため言っておくが誇張表現である)。

 それでもやっぱり続けるのには、当然、ピアノとピアノ音楽が好きだからというものあるが、もう一つ理由がある。

 それは、言語以外にも何か一つ表現する術を持っておきたいというものだ。

 言うまでもないことだが、僕らは何かを表現しようとするとき、ほとんど言語に依存しきりである。身振りというのもあるが、これは”ボディー・ランゲージ”などと言われるように、畢竟、言語と大差ないものである。というのも、言語と身振りが表現しようとするものは、基本的に同一だからだ(歓び、哀しみ、怒り、愛など)。

 だけど、僕らは、胸に去来する思いを表現しようとするとき、まず言語に頼ろうとしてもどうにもうまくいかなくて、次に精一杯の身振り手振りをしてみるもうまく伝わらずに、途方に暮れてしまうということが稀にある。いや、頻繁にかもしれない。頻度はともかくとして、そういうことは誰しも経験する。そういうとき、言語しか表現媒体をもたない者は、黙り込んでしまう以外に道はない。実際、そうやって押し殺されてしまって、永遠に表現されることのなかった名状しがたい感情にいちいち墓石を立てるとすれば、きっとおびただしい数になっているだろう(なんてまずい比喩なんだろう)。

 ところで、200年くらい前のドイツには、ベートーヴェンという人がいて、たくさんのすばらしい曲を創った。そんなことぐらい知ってるって? すみません。まあとにかく、彼は口下手な人で、しょっちゅう周りの人に不快感を与えていたという不名誉な印象を多くの人々にもたれている。それは実際、事実だったのだろう。でも、彼の名誉のためにこんなエピソードを紹介したいと思う(僕は彼の大ファンだから)。

 あるとき、ベートーヴェンと懇意にしていた女性が、ある出来事のせいで落ち込んでしまった(たぶん失恋とかそんなだったと思うが忘れてしまった。身内の不幸だったかもしれない)。そんなとき、ベートーヴェンは彼女の家を訪ね、一言も声をかけずに、ただ黙って、物悲しい調べをピアノで奏で始めた。

 ああ、もしこんなとき、言語でしか人を慰めることのできない凡夫たる僕らが彼女の家を訪れていたら、僕らのひどく拙い慰藉に対して、きっと彼女は哀しみを怒りに変えて口汚く詰ったことだろう。

 話がずいぶんと逸れてしまった。

 僕はもちろん、ベートーヴェンのようにはなれない。それどころか、インターネットの動画サイトで、僕よりも遥かにピアノがうまくてしかもイケメンな奴がいたら腹が立って仕方がないほどなのである。これでは音楽で人を慰めるどころか、自分自身ただの惨めな奴に過ぎない。

 何にせよ、この諸行無常の世界を渡っていくために、言語しか表現媒体をもたないのはどうにも心許ない。ほんとうは絵も描ければいいと思うのだが、どうもそちらは壊滅的に才能がないらしい。一方でピアノのほうはまだ少しはマシだ。そういうわけで、僕はちょっとでも、己の表現媒体としてピアノの技術の質を高めたいと思うからこそ、毎日毎日、しくじるたびに舌打ちをしながら(しつこいようだが、誇張表現である)、耳障りな騒音をご近所へ垂れ流しているのである(これはたぶん誇張ではない)。

 ちなみに、誇張表現に関する留保がいちいち目につくだろうが、これは僕のリアルな知り合いがこの文章を読んだとしても、僕の人間性に失望しないでいてもらうためである。というこの浅ましい考えこそが、まさに見下されてしかるべき僕の人間性を露呈していることは言うまい。