雑感など

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芸術は「自己」の表現なのか?

 芸術は「自己表現」だとよく言われる。

 作者の頭や心のなかの思考や想念、イメージといったものが具体化されているものが芸術だという理解がその根底にあるのだろう。それはあるていど真実だと思う。実際、ピカソが描いた絵は「何を」描いていようがピカソ的な表現になっているのだし、三島由紀夫が書いた小説は「何を」物語っていようが三島的な展開になっている。だから、究極的には、ピカソの作品はすべて「ピカソ」その人を描いたものであり、三島の作品はすべて「三島」その人を描いたものだと考えることもできる。

 しかし僕は、芸術が必ず全体的に「自己」を表現したものだとは思わない。というか、芸術が表現しているものの大半は「自己」ではないのではないかとすら思っている。

 では、芸術がなにを表現しているのかと言えば、それは「世界」である。

 これは、まず原理的に、作者も鑑賞者も現実の「世界」の内側で生きているということを考えれば、ごく当たり前の結論になる。いくら作者が存在しても「世界」というものの前提なしに芸術作品は生まれ得ないし(というか、「世界」が存在しなければ作者もまた存在し得ない)、また、「世界」という参照先がなければ芸術作品の鑑賞をすることもできない。

 だから、芸術はまず第一に「世界」を言語や色彩や音によって表現しており、鑑賞者はその作品の向こう側に「世界」を見る。そして多くの鑑賞者が、この作品は現実の「世界」を巧みに活写していると判断した場合、その作品は傑作とされ、後世まで受け継がれていく。

 ただし、もちろん現実の「世界」がありのままに表象されるわけではない。それは作者というフィルターを通って、言語や色彩や音といった特定の形態によって再構築された「世界」である。ここに芸術の面白みがある。なぜなら、もしありのままの「世界」を模写しただけであれば、もはや芸術を鑑賞する目的はなくなり、ただ現実の「世界」を心ゆくまで味わえば良いということになってしまうからだ。

 だからこそ、小説にしろ絵画にしろ、かつては写実主義(リアリズム)に則って表現されていたものが、時代が下るにしたがって、必ずしもリアルではない表現へと変容していったのだろう。カフカの言を借りれば、「本当の現実とは常にリアリスティックではない」から、リアリスティックな表現だけでは現実の「世界」を掬いきれずにこぼしてしまうのだ。

 カフカこそはまさに、そういったリアリスティックな表現だけでは捉えきれない「世界」を掴み取った芸術家のひとりである。ミラン・クンデラは、「ひとが別様に書くことができると理解させてくれたのはカフカだった」というガルシア=マルケスの言葉を回想しながら次のように述べている。「別様にとは、本当らしさの境界を超えてということだ。それは(ロマン主義者のように)現実世界から逃避するためではなく、現実世界をよりよく把握するためなのである」。

 僕らが芸術を鑑賞することの意味も、作者がそれまでとは違った切り口から「世界」を洞察して白紙やキャンバスや五線譜のうえに生き写しにしたからこそ生まれる。それは僕らが「世界」を「別様」に見ることができるということを教えてくれる。リアリズム(本当らしさ)に縛られているあいだは気付かなかった世界の面白さや美しさや悲しさや恐ろしさを目の当たりに突きつけてくる。「世界」といっても必ずしもマクロなものには限られない。小説は往々にして、「人間」というミクロな存在についての新たな地平を、僕らの眼前に広げて見せてくれるのである。僕が小説を読むときに求めているものも、つまりはそれなのだろうと思う。

記事投稿の方針を変えてみる

 僕はこれまで、だいたい3,000字から6,000字くらいまでの記事を投稿してきた。これは意図的である。まず下限については、3,000字に満たない記事はまだ内容的に思考が充分に深化していないと思っているから設けている。上限はもっと単純で、さすがに6,000字を大きく超えるような長いブログは誰も読みたがらないだろうからだ

 だがこのところどうも不調ぎみで、3,000字を超える記事が書けなくなってきた。考えていることはあるけれど文章化できなくなっているのか、そもそも思考が停止してしまっているのか、感覚的には前者なのだけれど、ひょっとすると後者かもしれない。

 いずにせよ、3,000字を満たす記事を書こうとして、そして実際テーマ的にはそれくらいの分量になって然るべきであるのに、一向に筆が進まなくてけっきょくボツにしてしまうということがもう何回も続いているのは間違いない。

 いままでであれば、そういうときは記事を投稿しなかった。すらすらと書いているうちに気づいたら3,000字に到達していた、というくらいに思考が捗ったときにだけ仕上げることにしていた。それでも月に最低でもひとつかふたつは投稿できていたのだが、現状だと一度も投稿せずに三ヶ月くらい無駄に過ごしてしまいそうなので、思い切って記事投稿の方針を変えてみることにした。

 そうするにあたって、自分はいままで、どちらかといえば本の書き方を真似てブログを書いてきたけれど、ここはひとつブログらしいやり方で書いてみようと思った。それで、ここしばらく、いろいろな人のブログを読んで勉強していた。

 結論から言うと、ブログには「ブログらしい」書き方があるのだということがよく分かった。表面的なことを挙げれば、一文が短い、改行が多い、話し言葉である、読者に語りかけるような文が挿入される、といったことになる。なかには僕と同じように、本的な書き方のブログもあったけれど、ごくごく少数だった。そして、正直なところ、そういうブログを読むにはけっこうな気力が必要なことにも気づいた。

 これは、僕のブログの読者とPV数が一向に増えないのも当然だ、とやけに納得してしまった。もちろん、読者やPV数を積極的に増やしたいとも思っていないが、ブログとして書いて公開する以上は、他人に読んでもらうことをまったく意識しないというのもなんとなく歪な気がするし、少しでも読者のためになるようなことを書いたほうが良いに決まっている。

 だからといって、調べ物をしてそれをまとめるような記事を書くことは、僕の得意とするところではない。むしろ苦手である。自分の思っていることを言語化するための媒体としてブログを使っているようなものだからだ。

 そこで、様々なブログを読んで気づいたことを活かして、今後はこのような方針で投稿していこうと思う。まず、記事の長さは1,000字から3,000字ていどにする。つぎに、軽い思いつきに留まるような内容でもボツにせずに記事にしてみる。それから、できるだけ読者の役に立つような情報を提供しようと試みる。だいたいこんな感じで、しばらくはやってみようと思う。ある意味で、これは僕のリハビリでもある。

 しかし、ひょっとすると、いまの状況は、つぎなる段階へと成長するために必要な苦しみの時期なのかもしれないとも思う。だからこそ、いままでの方針を変えてまで、いろいろともがいてみようと思っている。

 最後に、上の方針を満たすためには、書評がいちばん良いだろうなと思っているので、今後は書評(というか読書感想文)を多めに投稿していこうと計画している。新し目のもので、小説や新書を中心に、面白みや読みどころをまとめて紹介して、買おうかどうか迷っている人の判断材料となるような記事にしたいと思っている。アクセス解析によれば、アクセス数が多い記事は軒並み書評なので、やはり読者が求めているのもそれなのだろう。でも、あまり期待せずによろしくお願いします。

ブレイクスルー

 このところずっと、日常に漠然とした閉塞感がある。

 まるで、窓がひとつもない真っ暗な部屋でぼんやりとテレビを見るともなく見ているような感じがする。何も見えないのでもないが、何もかも見えるのでもない。何もしていないのでもないが、何かを積極的にしているわけでもない。状況を変えたいと切望しているが、実際に行動に移ろうとするとどうしても集中できない。

 いちばん苦しいのが、以前のように文章を書けなくなったことだ。

 数百字くらい書いたら、もう全部消してしまいたくなる。言葉を連ねれば連ねるほど、表現したいことからかけ離れていっているような気がする。ひねり出す言葉という言葉がすべて虚偽にまみれた薄汚いもののように感じる。小さな穴がたくさん空いているバケツを使ってバスタブから水を汲もうとして、あがけばあがくほどどうしようもなく水が漏れていってしまうような、そんな徒労感がある。

 これまでは、文章を書くということがかろうじて救いになっていた。気持ちが塞ぎ込むことがあっても、ひとりの部屋で黙々と文章を書いていると、そのときだけは集中して、自分と世界を忘れることができた。目の前で増殖していく言葉たちが、紛れもなく自分の内側から生み出された分身であると確信できていた。推敲が苦にならなかった。同じ言葉を連続して使わないようにとか、一文の長短を使い分けてリズムを調整するとか、もっとふさわしい単語を探し求めるとか、そういう工夫のひとつひとつを楽しむことができた。

 だがいまは、日本語を書いているのに、不慣れな英語で書こうとしているかのような不自由さを常に味わっている。厳格な英語の先生を前にして文法に則っているか怯えながら必死で英語を話しているように不安だ。

 自分で書くことを諦めて他人の書いたものを読んでいたが、読むことすら億劫になった。それで映画を見たり音楽を聴いたりすることにした。だがそれも同じことだった。他人が生み出したものを受容するだけでは、状況を打破することなどできるはずもない。自分がなにかを生み出さなければいけない。

 にもかかわらず、僕は行動を起こそうとしていない。ただいたずらに、ブレイクスルーが起きるのを待っている。窓のない部屋の壁に穴が空いて、そこからまばゆい光が差し込んで、新鮮な空気が吹き込んでくることを待ち望んでいる。だが待ち望んでいるに過ぎない。自分の拳で硬い壁を殴ってぶち抜くその痛みを厭っている。このままではいけないという焦燥感だけが募っていく。

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「誤解を恐れずに言えば……」というとき、誤解するのは誰?

 「誤解を恐れずに言えば……」という表現をたまに見かける。この表現でワンクッション置いた後は、たいてい物事をかなり単純化して述べることが多いので、誤解を恐れずに言った文だけを読めば著者がその本で書きたかったことの半分くらいがわかったりする。

 だから「誤解を恐れずに言えば……」という表現は、けっこう便利な指標となっている。たぶん、著者もそういう狙いでこう書いているのではないかと思う。これを日常会話の言語に置き換えれば、「ぶっちゃけ……だよね~」みたいな感じになるのではないか。著者はこの言い回しを使って、「読者の皆さん、ここが読みどころですよ!」と遠回しに教えてくれているのかもしれない。

 だが僕はふと、「誤解を恐れずに言えば……」と言うときの「誤解」はいったい誰が「誤解」するのだろうか、と疑問に思った。

 誤解を恐れずに言えば、この表現は、「著者である私の言いたいことを読者が歪曲して読んでしまうかもしれない」という読者を見くびっている著者の傲慢さがにじみ出ていると考えられなくもない。「読者の皆さん、あなた方が以下の文章を読んでどのように解釈するかは自由ですが、その正しさの責任は取りませんよ!」と。

 とはいえ、このような見方はいささかひねくれているかもしれない。

 あるいは、次のように考えることもできる。

 「誤解を恐れずに言えば……」の「誤解」は、著者がするものだ、と。つまり、「いまから私が述べる意見は誤解に基づいているかもしれませんのでそのつもりで読んでくださいね」というメッセージなのだ。実際、この「誤解を恐れずに言えば……」は、難解な哲学書を初学者向けにわかりやすく概説するような書籍でよく見かける。だから、「私の解釈は誤解かもしれないから、みなさん自身で原書を読んでみてくださいね」という、読者を次なるステージへと引っ張り上げようと差し伸べられた手なのかもしれない。

 でも、たとえば先ほど僕が「誤解を恐れずに言えば……」と書いた段落では、僕自身の意見が表明されている。この表現は、なにも難解な哲学書を噛み砕いて伝えるときだけでなく、そういう用法もあるわけだ。さて、自分自身の意見を「誤解」してさらに意見を述べるなどという芸当がはたして可能なのだろうか。僕にはそうは思えない。

 というわけで、「誤解を恐れずに言えば……」という表現が出てきたとき、そのあとに著者以外の人物の理論や見解が著者によって咀嚼されてわかりやすくまとめられているのであれば、その解釈が誤解にもとづいているかもしれないという著者の謙虚さの現れなのだと大目に見ても良い。しかし、もし著者自身の意見を開陳する前に「誤解を恐れずに言えば……」などという表現が飛び出してきたら、その著者は読者を自分の説を正しく理解できない蒙昧な奴らだと完全になめきっていて、もし自分の説を根拠としてだれかが間違ったことを言ってもその責任は取りません、というふうに予防線を張っているのだ。

 最後にひとつだけ言いたい。読者が「誤解」することを「恐れる」気持ちがあるのならば、そもそも本など出版するな、と。「誤解(誤読)」することは読者の権利のひとつだ。もし自分の納得のいくかたちでしか自分の説を理解されたくないのであれば、忠誠心に篤い弟子でももつ他はない。読者の自由を奪ってくれるな。

好きなお菓子を紹介します

 その人のことを知りたいと思ったときは、まず手始めに何が好きかを聞くのが定石です。別に何が嫌いかでもいいですし、むしろ嫌いなもののほうがその人のパーソナリティを如実に表すことが多いように思いますが、でも嫌いなものの話をしても楽しくないですし、まだそれほど親しくない人のパーソナリティを深く知ることにはちょっと抵抗があります。だから結局、好きなものの話をするのがいちばん良いわけです。

 今日はいつもとは趣向を変えて、僕の好きなお菓子を紹介したいと思います。なんでそんなことをするかというと、いつもみたいな堅苦しい記事を書く体力がないからです。ついでに僕のパーソナリティを少しでも皆さんに知ってもらえれば良いかなと思います。それでは早速。

ブルボン ルマンド

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 これは紹介するまでもないかもしれません。ブルボンといえばかつてのフランスの王朝で、ルイ~世みたいな人はだいたいみんなブルボン朝の王様です。ただしルイ53世は日本の一般人です。そして、お菓子メーカーのブルボンもまた、その名に恥じない堂々たるお菓子メーカーの王家と言っても過言ではありません。迷ったらとりあえずブルボンのお菓子を買っておけば良い、とは僕の言葉です。

 そのなかでもこの「ルマンド」は格別に美味しいのです。言うなれば名だたるブルボン朝の王様のなかでも太陽王の異名をとったルイ14世のようなものです。ルイ14世は「朕は国家なり」というカッコいいのかカッコ悪いのかよくわからない言葉を残しましたが、それにあやかって、さしづめ「ルマンドはお菓子なり」といったところでしょうか。あれ? 当たり前のことを言っている気がします。

 さて、僕が甘い系のお菓子に求めるものは、ずばり「甘すぎない」ことです。だったらそもそも甘い系のお菓子を食べるなというお叱りを受けそうですが、たまに脳が執拗に糖分を求めることがあるのです。そういうときは「甘すぎない」お菓子によって脳を黙らせます。

 その点、「ルマンド」の甘さは絶妙です。それもそのはずで、公式サイトの紹介文に「甘さを抑えたココアクリーム」でつつんだと書いてあるんですね。もう僕が書くことはなくなりました。でもルマンドの甘さはほんとうに上品です。ひとつ難点を挙げるとすれば、一口で食べるには少し長く、真ん中あたりで噛み切るとポロポロとこぼれてしまうことですかね。まあ、サクサク食感のためにはやむを得ない犠牲でしょう。

 ところで、ちょっと前に「ルマンドアイス」なるものが発売されたという情報を目にしました。残念ながら僕の住んでいるところでは販売されていないので食べたことはないのですが、いつか取り扱い地域に行く機会があればぜひ食べてみたいものです(アイスなのでお土産にはできませんが)。

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テイストデライト メイプルリーフクリームクッキー

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 甘い系のお菓子をもうひとつ紹介します。テイストデライトというカナダの会社が製造している「メイプルリーフクリームクッキー」です。これは近所のスーパーなどでは取り扱っていないことが多いですが、輸入食料品店ではよく見かけます。

 さきほど、「甘すぎない」お菓子が好きだと言ったばかりですが、この「メイプルリーフクリームクッキー」は、「かなり」甘いです。しっとり目のクッキーをかじった瞬間、口のなかにメイプルクリームの芳しい甘さが広がります。全部で18個も入っていますが、2,3個食べたらもう十分です。さらに、個包装されていません。だから複数人のお友達が来るときにだけ買ってみんなで食べます。僕のお友達はみんなこれが好きで、食べ始めると無言で貪ります。

 難点は、上で言ったとおり個包装されていないので、(ゴミがでないという利点でもありますが)すこし保存に気を遣うということくらいですかね。4,5人くらい集まるときに、紅茶やコーヒーと一緒につまむお菓子として出せばきっと喜ばれると思います。

おとうふ工房いしかわ きらず揚げ

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 これはちょっとマイナーなお菓子なのではないでしょうか。おとうふ工房いしかわの「きらず揚げ」です。僕はこの「きらず揚げ」と「成城石井」というスーパーと出会いました。それからはずっとこのお菓子の虜になっています。いちばん好きなお菓子と言っても良いくらいです。

 一見すると塩辛いせんべいのように見えますが、実際はほんのり甘いのです。でもきちんと塩の味もする。塩辛いものと甘いものを交互に食べるとより美味しいといいますが、この「きらず揚げ」はそれをたった一種類のお菓子で実現してしまったのです。

 そして二指でつまんで一口でぱくっと食べてしまえるので、ほんとうに「やめられないとまらない」。パソコンをしたりテレビを見たりしながら、ザクッザクッというリズミカルな音に乗って次から次へとつまんでいると、いつのまにか一袋まるごと食べてしまっていたなんてこともしばしばあります。これは心からおすすめできるお菓子です。

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三幸製菓 越後樽焼旨み塩

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 最後は文句なく塩辛いお菓子を紹介します。三幸製菓の「越後樽焼旨み塩」です。「旨み塩」とあるとおり、塩せんべいです。僕は醤油も好きですが塩はもっと好きです。天ぷらも肉もなんでも塩で美味しく食べます(もちろん天つゆもタレも好きです)。そういうわけでこの「かなり」塩辛い「越後樽焼旨み塩」が大好きです。

 「越後樽焼旨み塩」は塩だけではなくて、ガーリックパウダーによるアクセントが効いています。巷ではとりあえずガーリックを使っておけば美味しくなるとまことしやかにささやかれています。袋を開けると香ばしい匂いが部屋に漂って、このせんべいを食べているのがモロバレです。別にバレてどうにかなるということもありませんが。

 難点を挙げると、一口で食べれてしまう大きさなので、ついつい次から次へと口へ運んでしまいます。でもこれは僕に自制心がないからで、商品に罪はありません。それから、製品によって「当たり外れ」があって、かなり塩辛いものもあれば、ちょっと味が薄いものもあります。どちらが「当たり」でどちらが「外れ」かは人によりけりですが。

まとめ

 これまであまり書いたことがないような記事をがんばって書いてみましたが、割りと大変でした。好きなものの良さを伝えるということはやはり難しいですね。特に、僕の語彙ではなかなか味覚を表現することができません。これが音楽などであればストーリーで象徴的に表現することもできますが、味覚だとそうもいきません。たまにはこういう記事を書いてみることも練習になるかなと思います。読んでいただきありがとうございました。

天才は孤独だと言われるのは何故か

 歴史上、天才と称される人たちの伝記をひもとくと、示し合わせたように「孤独な幼少期/青年期」を描いた章がある。そのせいなのか、「天才には必ず孤独な時期がある」とか「孤独が天才を生む」といった言い方がよくなされる。ひょっとすると、これらを真に受けて、天才になるためにわざわざ独りぼっちを選ぶ人とか、あるいは自分が独りぼっちなのは天才だからだと自分を慰める人とかが、いるかもしれない(僕自身ちょっと耳が痛い)。だがもちろん、温かい人間関係のうちで生涯を送った天才もいるだろうし、死ぬまで孤独だったのに何も成し遂げなかった凡人もいるだろう。とはいえ、圧倒的な才能に恵まれてすばらしい業績を世に遺した人物の多くが孤独な時期を経ているのはやはり事実なのだ。どうしてだろうか。

 常識的に考えれば、天才はあまりにも特異な内的世界を抱えているせいで誰にも理解されないからということになるのだろう。だが僕にはそうは思えない。もし内的世界が理解されないせいで孤独だというのであれば、世の中のほとんどの人は孤独だからだ。自己の内的世界を他者に理解してもらえる人などそうそういない。むしろ、才能に恵まれた人こそ、それを表現して他者に理解してもらう契機に恵まれていると言える。

 それに、いかに天才といえども、いつでもどんなことでも凡人と異なっているわけではないだろう。というより、日常生活のほとんどは凡人と変わらないはずだ。朝起きて、食事を摂り、仕事をして、風呂に入って、眠る。そういった基本的な生活サイクルは共有しているのだし、使っている言語も亡命でもしない限り周囲と一緒だ。たしかに心の奥底にひしめいている思想や想念やイメージみたいなものを広く共有するのは難しいかもしれない。せいぜいひとりかふたりの理解者に恵まれれば幸運だろう(とはいえ、ほんとうに天才であれば後に世界中に理解者を獲得することになるわけだが)。だがそれでも、たとえばその日に一緒に食べた料理やこのあいだ借りて読んだ本についてなら、通じ合うことができないはずはない。そして、人間関係というのは概ねそのような些細なことにまつわる感情を交換することで成り立っている。

 僕が思うに、天才だけが孤独なのではない。人はみな須らく孤独なのだ。問題は、それを直視するのか、見て見ぬふりをするのかということではないか。天才は、人は本質的に孤独でしかあり得ないということを知っている。だから多くの友人と享楽的などんちゃん騒ぎに明け暮れて孤独を誤魔化そうとは思わない。それよりも、ひとりで厳粛な努力に励む。そして努力すればするほど、人間関係の維持・発展に費やす時間はなくなっていき、ますますひとりでいるようになる。その姿は、周囲の人々から見れば、ひどく孤独に映る。これが、天才は孤独だと言われる所以なのではないかと思う。でも実際は、天才が孤独になるのではなく、変な言い方だが、天才になるためには孤独から目を背けて逃げてはいけないということなのだろう。孤独であることに耐えられないのあれば、大衆のなかに埋没して安住するほかないが、孤独であることを厭わぬ強靭な精神の持ち主は、いつかその分野で偉大な業績を打ち立てる可能性を秘めているのである。

オリジナリティとリーダビリティの境界で

 ブログの記事の内容というのは、個性的でブッ飛んでいるのが良いとよく言われている。僕としても、時事問題や文化芸術などについて調べた情報を整理してわかりやすくしてある記事よりも(もちろんこれはこれですごく便利)、たとえば時事問題なら具体的な出来事などについて、文化芸術なら具体的な作品などについて、その人がどう思ったかができるだけ率直に記されているもののほうが読んでいて面白いし、その意見が極端に個性的な場合には、情報まとめ系のものよりもタメになるとすら思う。

 とはいえ、個性的でブッ飛んだ意見というのは、その内容において少なからず(あくまで少なからずである)、「歴史上これまでだれも口にしなかったこと」を述べようとしているのだ。もちろん何から何まで完全に真新しい意見などというのはそうそう言えるものではないし、というか21世紀にもなってそんな意見が言える余地がまだ残されているとは思えない。だが、情報まとめ系の記事に比べれば、意見ぶちまけ系の記事は多かれ少なかれその人にしか書けない何かを孕んでいるのである。だからこそ面白い。

 だが、「歴史上これまでだれも口にしなかったこと」を言語化することが非常に難しいのは容易に想像できる。それは情報まとめ系の記事の場合と比較すれば明快だ。情報まとめ系は、調べ物を広範に詳細にしなければならないが、その結果を表現するのはそこまで難易度の高い作業ではない。ハッキリ一次情報を引用してしまえば話は早いし(もちろん典拠を記したうえで)、自分なりに言い換えるにしても元の文章が確かな方針となるからやりやすい。ところが、意見ぶちまけ系の記事を書くなら、元の文章というものは存在しない。あるとすれば自分の頭のなかにあるわけだが、それは文章の形を成していない、言語化以前の想念であり、往々にして、雨をたっぷりと含んだ黒雲のように混沌とした様相を呈しているものだ。

 いくら個性的でブッ飛んだ意見が好まれるとはいえ、それが読解不可能なものであってはならない。あまりにも独自の言葉づかいをしていたり、あまりにも分量が多すぎたりしては良くないのだ(その点、僕の過去の記事は最悪だ)。したがって、ブログ記事の良し悪しというのはさしあたって、オリジナリティ(個性豊かさ)とリーダビリティ(読みやすさ)との境界でいかにバランスをとるかということにかかっているのだと言える。

 「歴史上これまでだれも口にしなかったこと」は、まさにだれも口にしたことがない故に、頼りとする文章なしに自分だけで言葉を手繰り寄せて、混沌とした想念に形を与えていかなければならない。それはまさに暗闇の中の手さぐりに他ならない。しかしながら、それはもし僕やあなたがそれを口にしなければ、二度と再びこの世界に形をとって現れる機会を得ないかもしれない。それほどに価値のあるものなのだ。だから、これはちょっと言葉にするのが難しそうだ、と思ったそのとき、僕やあなたはトンでもない金脈を目の前にしているのかもしれないと認識するようにしよう。根気よくツルハシを振り下ろし続けよう。だが掘り当てた金をしっかり金塊に整形するのも忘れないようにしよう。そして、それを独り占めしないようにも気をつけよう。何と言っても、交換されずに押入れの奥底に放置されている金には、何の価値もないのだから。