雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

芸術の価値

 およそ芸術と呼ばれるものの価値は非常に曖昧なものである。文学にしろ美術にしろ音楽にしろ、定量的にも定性的にも、その作品がいかに優れているかを客観的に分析し証明することは困難である。あるいは不毛ですらある。

 僕がどれほどベートーヴェンの音楽を愛していても、それを他人に伝える試みは大方虚しい失敗に終わる。まず何かを好む理由を論理化するという障壁があり、相手方が論理を再び感性に還元するという障壁がある。ベートーヴェンのピアノ・ソナタはこういうところが素晴らしい、と説明して、それを頭で理解できたからといって、いざ実際に聴いてみて好みに合うかはまた別問題である。

 人によっては、そもそもあらゆる芸術にまったく価値を見出さない場合もあるだろう。文学、美術、音楽よりも、スポーツをしたりあるいは料理をしたりするほうがよっぽど良いという人はたくさんいるだろうし、それは少しも悪いことではない。ただ、だからといって芸術に価値がないということはあり得ない。そうでなければ、100年200年、ともすれば1000年以上も前の人間が作ったものが時間による風化を免れて残り続けるはずはないからだ。異なる時代の、異なる場所の人びとが、それになにがしかの価値を感じて享受し続けてきたからこそ、私たちは今ベートーヴェンの音楽を聴き、ミケランジェロの彫刻を眺め、セルバンテスの小説を読むことができる。

 芸術の価値は、必ずしも「面白さ」だけには限られない。ときには、不快感を呼び起こすような芸術作品がいつまでも人びとに愛され続けるということもある。不快とまではいかないにしろ、不安や恐怖、悲しみや苦しみを感じさせたり、憂うつな気分にさせる小説、絵画、音楽といったものは枚挙にいとまがない。たとえば、カフカの小説を読んで、だれがそこから歓びや勇気を与えられるだろうか。むしろ、それは世界の不条理性を白日のもとに晒すものであり、この世界で生きることの耐え難さが克明に描かれている。にもかかわらず、彼の作品を愛してやまない人は世界中にたくさんいる。

 だから、「面白い」ものだけが、あるいは「美しい」ものだけが素晴らしいわけではない。むしろ芸術にはしばしば、「面白い」どころか「退屈」なもの、「美しい」どころか「醜い」ものがある。だが、それが受け継がれ続けてきたというその事実によって、決して無価値なものではないということは明らかである。そういった「退屈」な小説や、「醜い」絵画のいったいどこに価値があるのだろうか。

 僕は、芸術の価値は「どれだけの人の生きづらさを軽減することができたか」にあると思っている。芸術にそういう力があることを否定する人はいないと思う。しかし「面白い」小説ならともかく、カフカの悪夢のような小説を読んでどうして生きづらさが経験されることがあるだろうか、と疑問に思う人は少なからずいるだろう。だがこれは僕自身とても不思議なことだと思うのだが、生きづらさは「面白い」小説(あるいは映画でもいい)だけによってしか軽減されないというわけではない。まったくもって救いようのない後味の悪い物語を鑑賞することによってすら、ときには生きづらさがスッと軽くなるようなことがある。これを一般的にはカタルシスと言う。が、呼び方は別になんでも良いのだ。重要なのは、内容が明朗であるかあるいは陰鬱であるかと、鑑賞者の生きづらさを軽減させるかどうかとには、あまり関係がないということである。

 思えばブログ記事も同じである。若い人が書いた、とにかく活気に満ちた決意表明の記事によって勇気づけられるときもあるが、そういうものが疎ましく感じられてしまうこともある。そんなときは、ちょっといま人生がうまくいっていなくて、落ち込んだ気分を素直に言葉にしている記事によって心が落ち着くこともある。だから、ブログ記事も、「どれだけの人の生きづらさを軽減することができたか」によって価値が決まると言って良いと思う。

 内容が明るかろうと暗かろうと、そこに救いめいたものの気配があれば、観る人の生きづらさを軽くすることができる。反対に、観る人の生きづらさをさらに耐え難いものにしてしまうような芸術やブログ記事は、価値がないどころか存在してはいけないと思う。だから僕は、ただいたずらに陰鬱なだけの、偽悪的な物語は嫌いなのだ。とにかく人間の醜悪で下劣な部分をクローズアップして描いたらそれがすなわち芸術なのだ、といったような芸術観を僕は受け容れない。人間の良い面しか見ようとしないのが偽善であれば、悪い面しか見ようとしないのは偽悪である。人間の邪悪さを強調する作品は、端的に言って何がしたいのか分からない。作者もやはりひとりの人間以外のなにものであることもできず、また鑑賞者も作品を観たあとひとりひとり等身大の人間としてずっと生きていくのである。だったら、人間として生きることに少しでも価値を見出だせるような、救いを感じられるような作品にするべきではないのだろうか。安易なハッピーエンドを拵えよ、と言っているのではない。たとえ闇を描いていても、とことんまで突き詰めていった先に光芒が降りてくるような、そういう描き方が、どんな人間の闇にもきっとあるはずである。

 僕は創作を通して、闇のうちに光を発見したい。ただその一心である。文学の単なる読者だったころは、文学が生きづらさに対抗するワクチンだった。あるいは音楽もそうである。しかし文学にせよ音楽にせよ、いちおう曲がりなりにも生み出す側にもなったいま、それは僕にとって、生きづらさに対するささやかな抵抗の行為である。単に生きづらさを受け容れることができるようになるためではなく、それをはねっかえして風穴をぶち開けてやるための行為である。そして、その結果として、だれかの生きづらさを軽減することができたのなら、それはどれだけ喜んでも喜びすぎるということはない僥倖である。

 生きていればいろいろと嫌なことはあるし、面倒なこともある。悩んでいる時間のほうが長いかもしれない。身体はどんどん衰えていくし、頭の働きだって悪くなっていく一方である。それらのことから逃げることはできないし、また逃げるべきでもない。だがそれらと、生きづらさとはまた違ったことだ。生きづらさとは、根本的な痛みである。生きることそのものに対する苦痛である。そんなものは、ないほうがいい。たとえ悲しいこと辛いことがあっても、それでも生きていくためには、生きづらさを少しでも和らげなくてはいけない。芸術はそれを助けることができる。だからこそ芸術は人類の歴史上絶えたことがなかったのだし、またこれから先絶対に絶やしてはいけないものなのである。

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本当にやりたいことを判断できるかもしれない方法

 若い人には、自分が「本当にやりたいこと」が何なのかが分からないという人が少なからずいると思う。僕はあまりそういうふうに思ったことはない。実際にそれをやれるかどうかはともかくとして、人生においてどうしてもこれをやりたいんだということは割りと早い段階から確固としてあったからだ。

 でも、やりたいことが分からないというのはむしろ普通だと思う。一般的な日本人の大学卒業までくらいの人生を考えてみれば、そこで経験することの種類や数といったものはたかが知れているのではないだろうか。たとえばスポーツなら、最初に選んだ部活動をずっと続けるのが通常だから、小学校のときに野球チームに入団すれば以後ずっと野球をするといった具合になる。だが、もしかしたら本当はサッカーのほうが好きなのかもしれない。でも、本格的にサッカーをやる機会がなければ、それを知りようもない。ほかにも、ごくごく平均的な人生を送ってきた若い人で「そうだ小説を書こう」とか「マンガでも描いてみようかな」と思う人はそんなにいないと思う。けれど、やってみたら意外と才能があった、なんていうこともそうあり得ない話ではない。

 だからこそいろいろなことを、とりあえずやってみるということが重要になってくる。もちろんそのためには機会が必要だし、また場合によっては金もかかる。それらを費やした挙句に、「うーん結局どれが自分のやりたいことなのか分からない」などと抜かしていたら周りから呆れられること請け合い。

 でも、たしかにとにかくたくさんのことに手を出してみるのは大切だけれど、手を出すことが増えれば増えるほど、ひとつのことに割ける時間は減っていく。しかし自分が本当にそのことに向いているのか、それが本当にやりたいことなのかを、少ない時間で判断するのはとても難しい。だからといって、最初からひとつのことに絞ってしまっていたら、あまり向いていないことを延々やり続けるなんていうことになりかねない。このあたりで悩んでいる人は多いような気がする。

 僕が思うに、そのような雑多な経験から、本当にやりたいことを判断する方法は、比較にある。たとえば、野球を観戦していて自分も野球がやりたいと思う、これは普通である。あるいは、素晴らしい映画を鑑賞して、自分も映画を撮ってみたいと思うのもよくある話である。だが、野球を観戦して野球がやりたくなって、映画を鑑賞して映画を撮りたくなって、小説を読んで小説を書きたくなって、とかそんなふうに片っ端から感化されまくるようでは、それは本当にやりたいことではない。ただそのときに感化されているに過ぎない。本当にやりたいことは、別のことをやったり見たりしているときにやりたくなることだ。つまり、野球場で選手の鮮やかなプレイを見て勇気づけられ、よし自分もあれくらいの気概で小説を書いてやる、と思えるのならば、その人が本当にやりたいことはきっと小説を書くことだと考えてほぼ間違いない。あるいはとびきり面白い映画を観て気分が良くなって、さてそれでは自分も素振りを頑張ろう、と思えるのならば、その人の本当にやりたいことは野球なのだろう。

 このように、何かが本当にやりたいことかどうかを判断するには、そのこと自体をやるよりも、他のことをやったり見たりしてみるのが良いのではないだろうか。つまり、自分は映画を撮りたいような気がするのならば、それはひとまず脇において名作の誉れが高いアニメを見てみる。それで、アレ、アニメも良いな、なんて思うようでは、まだまだ意志が固まっていないのである。もう少し熟考する余地がある。だが、そのアニメに感動して心に湧き立ってくる情熱が映画撮影に向かうのであれば、それはもう迷わず映画撮影の道に舵を切れば良いと思う。

 だから、もし今、自分は「たぶん」これをやっていきたいと思う、というものがある人でも、いったん別のことをやってみるのをおすすめしたい。

大きな主語に気をつけよう

 ものを言ったり書いたりするときに、ついつい「大きな主語」を使ってしまうことがある。「大きな主語」とは、たとえば「男は」とか「女は」とか「日本人は」といったように、ある特定の個人や個物ではなく、抽象的な概念を指す主語のこと。

 大きな主語を使った発言としてありがちなのは、「男ってみんな幼稚だ」とか、「女ってみんなヒステリックだ」とか、「日本人はみんな群れたがる」とかである。

 しかし、こういった発言はとても危険なのだ。

 なぜなら、厳密に言えば、男性が一人残らず幼稚であるなどというのはあり得ないし、また女性が一人残らずヒステリックなどということもあり得ないからだ。そんなことは自分の身の回りを少し注意深く眺めてみればすぐわかる話なのである。

 つまり、大きな主語を使ってものを言ったり書いたりするときには、どうしても嘘をつかざるを得ない。

 にもかかわらず、大きな主語を使いたくなってしまうのはなぜか。

 それは、安全だからである。

 たとえば、自分の友達のA君(男性)がとても幼稚な人間で、そんな彼に毎度まいど迷惑をかけられているとする。

 そのことについて誰かに愚痴を言いたいのだけれども、A君という個人名を挙げて非難すれば、かえって自分の人格が疑われかねない。

 そこで、A君という個人名の代わりに男性という大きな主語を持ち出す。

 「A君って幼稚だから嫌いだ」と言う代わりに、「男って幼稚だから嫌いだ」と言って憂さを晴らすのである。

 ところが、言った方はそれで気分が晴れるかもしれないが、それを聞いている人を不愉快な気持ちにさせる危険性が極めて高いのが、大きな主語を使った発言である。

 簡単なことだ。「男って幼稚だから嫌いだ」などと発言すれば、それを聞いている男性のほとんど全員が気を悪くするのは当然だからである。反対に、「女ってヒステリックだから嫌いだ」という発言は、無論、耳にした女性ほとんど全員を敵に回す発言以外のなんでもない。

 だが、大きな主語で一括りにしてなんでもかんでも判断していたら、対象を個別的に評価する能力が次第に失われていく。

 「男は~だ」「女は~だ」「日本人は~だ」「○○人は~だ」「人間は~」だ……というふうに、自分の身の回りのものをに次から次へと一方的な判決を下していく。

 そうすることで、自分が生きる世界をどんどん貧しいものにしていっていることに気づかなくてはならない。つまり、男性をみんな「男」と一括りにしたら、あなたの世界からA君やB君という個別の人間は消え失せて、ただ「男」という漠然とした存在が居るに過ぎなくなる。

 会う男性、会う男性を、単なる「男」としか見れなくなって、本当はわかりあえる男性との未知の交流を最初から潰してしまっているかもしれないのである。

 これは男性に限らない。「アメリカ人はみんな~だから付き合わない」などと考えていたら、ひょっとすると世界でいちばん気の合う人間だったのにたまたまアメリカ人だったというだけで関係を持とうとしなかった、などという残念なことを起こしかねない。

 自戒の意味を込めて、大きな主語には気をつけよう。

社会から認めてもらうためには眉毛に気をつけなければいけない

 実は僕には妙な癖があります。それは、眉毛を指で引っ張って抜いてしまうことです。調子の良いときは(?)、四、五本、一気に抜けることもあります。ほどほどにしないとそのうち眉毛がなくなってしまうのではないかと時々思いますが、あまりに呆気なく抜けていくのがなんだか軽妙で、入浴中などについついやってしまうのです。

 今日も湯船に浸かりながら無意識に眉毛を触っていたのですが、突然、なんでこんなところに毛が生えているのだろうかという疑問が湧いてきました。顔には、あと口ひげと頬ひげが生えますが、基本的に剃りますから生えっぱなしということはないですし、そもそも生まれてから高校生ぐらいまではツルツルです。その点、眉毛は生まれたときからきちんと生えそろっているし、ちょっと手入れするくらいで完全に剃ってしまうことはほとんどないのでひげとは違います。

 だいたい、身体で目立つ体毛といえば、上から、髪の毛、眉毛、腕毛、陰毛、すね毛となるわけですが、それらのなかで眉毛だけ異質です。その他の体毛は割りと広範囲にまんべんなく生えているものですが、眉毛だけはかなり一点集中です。しかもそんなところにある必然性はまったくない。産毛を除けばツルツルしている顔のなかで、眼の上数センチのところだけなんの脈絡もなく妙な形に毛がまとまって生えているのですよ。これは改めて考えてみるとなんとなく気色悪くないですか。

 でも、必然性がないというのはなにも眉毛に限ったことではなくて、私たちは生まれたときからほとんどみんな同じ形の身体をあてがわれているからなんの疑問も持ちませんが、べつに二本腕とか二本脚とかそれすらなんの必然性もないわけですよ。世界には脚が四本のやつとか八本のやつとか一本もないやつとかもいるわけで、まあ腕がある生物はなぜかみんな二本なんですけど、それにしてもいろんな形の生物がいて、みんなちゃんと生きていっているわけですよ。

 体毛だって全身生えまくっている生物もいれば、生えているべきところになんの因果か毛がまったく生えいていない人間さんだってたくさんいます。彼らだって日々を殊勝に生きている同じ人間なのですよ。そんななかで眉毛ごときあろうがなかろうが大した問題ではない。ところが世の中はたいへん窮屈にできているので、身体という常識を疑って眉毛をきれいさっぱり剃ってしまった人間はみんなに好奇の目で見られるし、下手をすると様々な局面で不利益を被るかもしれないのです。まったく、世間とはどうしてこうも不寛容なのかしら。眼の上にたかだか百数本ていどの毛が生えているかどうかで、人間性が変質するわけないじゃないですか。頭だってそうですよ。髪の毛がないくらい何がいけないんだ。ハゲ万歳!

 というわけで、僕にとって無意識に眉毛を抜いてしまうという癖は笑い話でもなんでもなくて、基本的人権を持っている人間として社会から認められ、その権利を(あるていど)尊重してもらうためには死活問題なのです。このままこの癖をやめることができずにいずれ眉毛が一本もなくなってしまったら、僕を見た人は、「この人はきっと眉毛を抜く癖があるのだろうな」と忖度してくれることはなく、「うわ、眉毛全剃りて、コワ……」と敬遠するに違いないのです。一刻も早くこの癖をやめなければ、眉毛を抜く癖などというくだらないことで社会から爪弾きにされかねない。みなさんも、癖にはくれぐれも気をつけましょう。

芸術は「自己」の表現なのか?

 芸術は「自己表現」だとよく言われる。

 作者の頭や心のなかの思考や想念、イメージといったものが具体化されているものが芸術だという理解がその根底にあるのだろう。それはあるていど真実だと思う。実際、ピカソが描いた絵は「何を」描いていようがピカソ的な表現になっているのだし、三島由紀夫が書いた小説は「何を」物語っていようが三島的な展開になっている。だから、究極的には、ピカソの作品はすべて「ピカソ」その人を描いたものであり、三島の作品はすべて「三島」その人を描いたものだと考えることもできる。

 しかし僕は、芸術が必ず全体的に「自己」を表現したものだとは思わない。というか、芸術が表現しているものの大半は「自己」ではないのではないかとすら思っている。

 では、芸術がなにを表現しているのかと言えば、それは「世界」である。

 これは、まず原理的に、作者も鑑賞者も現実の「世界」の内側で生きているということを考えれば、ごく当たり前の結論になる。いくら作者が存在しても「世界」というものの前提なしに芸術作品は生まれ得ないし(というか、「世界」が存在しなければ作者もまた存在し得ない)、また、「世界」という参照先がなければ芸術作品の鑑賞をすることもできない。

 だから、芸術はまず第一に「世界」を言語や色彩や音によって表現しており、鑑賞者はその作品の向こう側に「世界」を見る。そして多くの鑑賞者が、この作品は現実の「世界」を巧みに活写していると判断した場合、その作品は傑作とされ、後世まで受け継がれていく。

 ただし、もちろん現実の「世界」がありのままに表象されるわけではない。それは作者というフィルターを通って、言語や色彩や音といった特定の形態によって再構築された「世界」である。ここに芸術の面白みがある。なぜなら、もしありのままの「世界」を模写しただけであれば、もはや芸術を鑑賞する目的はなくなり、ただ現実の「世界」を心ゆくまで味わえば良いということになってしまうからだ。

 だからこそ、小説にしろ絵画にしろ、かつては写実主義(リアリズム)に則って表現されていたものが、時代が下るにしたがって、必ずしもリアルではない表現へと変容していったのだろう。カフカの言を借りれば、「本当の現実とは常にリアリスティックではない」から、リアリスティックな表現だけでは現実の「世界」を掬いきれずにこぼしてしまうのだ。

 カフカこそはまさに、そういったリアリスティックな表現だけでは捉えきれない「世界」を掴み取った芸術家のひとりである。ミラン・クンデラは、「ひとが別様に書くことができると理解させてくれたのはカフカだった」というガルシア=マルケスの言葉を回想しながら次のように述べている。「別様にとは、本当らしさの境界を超えてということだ。それは(ロマン主義者のように)現実世界から逃避するためではなく、現実世界をよりよく把握するためなのである」。

 僕らが芸術を鑑賞することの意味も、作者がそれまでとは違った切り口から「世界」を洞察して白紙やキャンバスや五線譜のうえに生き写しにしたからこそ生まれる。それは僕らが「世界」を「別様」に見ることができるということを教えてくれる。リアリズム(本当らしさ)に縛られているあいだは気付かなかった世界の面白さや美しさや悲しさや恐ろしさを目の当たりに突きつけてくる。「世界」といっても必ずしもマクロなものには限られない。小説は往々にして、「人間」というミクロな存在についての新たな地平を、僕らの眼前に広げて見せてくれるのである。僕が小説を読むときに求めているものも、つまりはそれなのだろうと思う。

記事投稿の方針を変えてみる

 僕はこれまで、だいたい3,000字から6,000字くらいまでの記事を投稿してきた。これは意図的である。まず下限については、3,000字に満たない記事はまだ内容的に思考が充分に深化していないと思っているから設けている。上限はもっと単純で、さすがに6,000字を大きく超えるような長いブログは誰も読みたがらないだろうからだ

 だがこのところどうも不調ぎみで、3,000字を超える記事が書けなくなってきた。考えていることはあるけれど文章化できなくなっているのか、そもそも思考が停止してしまっているのか、感覚的には前者なのだけれど、ひょっとすると後者かもしれない。

 いずにせよ、3,000字を満たす記事を書こうとして、そして実際テーマ的にはそれくらいの分量になって然るべきであるのに、一向に筆が進まなくてけっきょくボツにしてしまうということがもう何回も続いているのは間違いない。

 いままでであれば、そういうときは記事を投稿しなかった。すらすらと書いているうちに気づいたら3,000字に到達していた、というくらいに思考が捗ったときにだけ仕上げることにしていた。それでも月に最低でもひとつかふたつは投稿できていたのだが、現状だと一度も投稿せずに三ヶ月くらい無駄に過ごしてしまいそうなので、思い切って記事投稿の方針を変えてみることにした。

 そうするにあたって、自分はいままで、どちらかといえば本の書き方を真似てブログを書いてきたけれど、ここはひとつブログらしいやり方で書いてみようと思った。それで、ここしばらく、いろいろな人のブログを読んで勉強していた。

 結論から言うと、ブログには「ブログらしい」書き方があるのだということがよく分かった。表面的なことを挙げれば、一文が短い、改行が多い、話し言葉である、読者に語りかけるような文が挿入される、といったことになる。なかには僕と同じように、本的な書き方のブログもあったけれど、ごくごく少数だった。そして、正直なところ、そういうブログを読むにはけっこうな気力が必要なことにも気づいた。

 これは、僕のブログの読者とPV数が一向に増えないのも当然だ、とやけに納得してしまった。もちろん、読者やPV数を積極的に増やしたいとも思っていないが、ブログとして書いて公開する以上は、他人に読んでもらうことをまったく意識しないというのもなんとなく歪な気がするし、少しでも読者のためになるようなことを書いたほうが良いに決まっている。

 だからといって、調べ物をしてそれをまとめるような記事を書くことは、僕の得意とするところではない。むしろ苦手である。自分の思っていることを言語化するための媒体としてブログを使っているようなものだからだ。

 そこで、様々なブログを読んで気づいたことを活かして、今後はこのような方針で投稿していこうと思う。まず、記事の長さは1,000字から3,000字ていどにする。つぎに、軽い思いつきに留まるような内容でもボツにせずに記事にしてみる。それから、できるだけ読者の役に立つような情報を提供しようと試みる。だいたいこんな感じで、しばらくはやってみようと思う。ある意味で、これは僕のリハビリでもある。

 しかし、ひょっとすると、いまの状況は、つぎなる段階へと成長するために必要な苦しみの時期なのかもしれないとも思う。だからこそ、いままでの方針を変えてまで、いろいろともがいてみようと思っている。

 最後に、上の方針を満たすためには、書評がいちばん良いだろうなと思っているので、今後は書評(というか読書感想文)を多めに投稿していこうと計画している。新し目のもので、小説や新書を中心に、面白みや読みどころをまとめて紹介して、買おうかどうか迷っている人の判断材料となるような記事にしたいと思っている。アクセス解析によれば、アクセス数が多い記事は軒並み書評なので、やはり読者が求めているのもそれなのだろう。でも、あまり期待せずによろしくお願いします。

ブレイクスルー

 このところずっと、日常に漠然とした閉塞感がある。

 まるで、窓がひとつもない真っ暗な部屋でぼんやりとテレビを見るともなく見ているような感じがする。何も見えないのでもないが、何もかも見えるのでもない。何もしていないのでもないが、何かを積極的にしているわけでもない。状況を変えたいと切望しているが、実際に行動に移ろうとするとどうしても集中できない。

 いちばん苦しいのが、以前のように文章を書けなくなったことだ。

 数百字くらい書いたら、もう全部消してしまいたくなる。言葉を連ねれば連ねるほど、表現したいことからかけ離れていっているような気がする。ひねり出す言葉という言葉がすべて虚偽にまみれた薄汚いもののように感じる。小さな穴がたくさん空いているバケツを使ってバスタブから水を汲もうとして、あがけばあがくほどどうしようもなく水が漏れていってしまうような、そんな徒労感がある。

 これまでは、文章を書くということがかろうじて救いになっていた。気持ちが塞ぎ込むことがあっても、ひとりの部屋で黙々と文章を書いていると、そのときだけは集中して、自分と世界を忘れることができた。目の前で増殖していく言葉たちが、紛れもなく自分の内側から生み出された分身であると確信できていた。推敲が苦にならなかった。同じ言葉を連続して使わないようにとか、一文の長短を使い分けてリズムを調整するとか、もっとふさわしい単語を探し求めるとか、そういう工夫のひとつひとつを楽しむことができた。

 だがいまは、日本語を書いているのに、不慣れな英語で書こうとしているかのような不自由さを常に味わっている。厳格な英語の先生を前にして文法に則っているか怯えながら必死で英語を話しているように不安だ。

 自分で書くことを諦めて他人の書いたものを読んでいたが、読むことすら億劫になった。それで映画を見たり音楽を聴いたりすることにした。だがそれも同じことだった。他人が生み出したものを受容するだけでは、状況を打破することなどできるはずもない。自分がなにかを生み出さなければいけない。

 にもかかわらず、僕は行動を起こそうとしていない。ただいたずらに、ブレイクスルーが起きるのを待っている。窓のない部屋の壁に穴が空いて、そこからまばゆい光が差し込んで、新鮮な空気が吹き込んでくることを待ち望んでいる。だが待ち望んでいるに過ぎない。自分の拳で硬い壁を殴ってぶち抜くその痛みを厭っている。このままではいけないという焦燥感だけが募っていく。

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