雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

2017年にやりたいこと

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 がんばって書こうと思ったけれど、どうしても文章にならないので箇条書きで。

読書

  1. 日本文学(近代)の有名どころを抑える
  2. できれば古典も(『平家物語』とか)
  3. 海外文学の有名どころを抑える
  4. 同時代の海外文学にも手を出す
  5. 夏目漱石の全集を読破する
  6. もうひとり誰か全集を読破する作家を見つける
  7. 文学以外の書物もたくさん読む

勉強

  1. 日本語文法を勉強する
  2. 英語を勉強する(TOEICスコアアップを目指す)
  3. 現代思想を勉強する
  4. 西洋哲学史の補強を行う
  5. 文学理論について理解を深める

ブログ

  1. 毎日更新をめざす(少なくとも3日に1回くらいは)
  2. 「週刊印象批評」の締切をちゃんと守る
  3. ちょっとは読まれることを意識する

日常生活

  1. 早寝早起き
  2. 運動をする
  3. 筋トレをする
  4. 毎日ピアノを練習する
  5. 何をしようか迷っているくらいならネットで動画でも見る

その他

  1. 海外旅行に行く
  2. 国内旅行に行く
  3. 映画もそこそこ見る

 「やりたいこと」というお題を忘れて、ところどころ「やるべきこと」になってしまった。でも新年に免じて許してください。というか、やりたいことが意外となくて、やっぱりだめだなぁと思った。それでは、ほとんど誰も見ていないブログですけれども、数少ない読者の方には、去年はありがとうございました、そして、今年もよろしくお願いします。

2016、断章

 「さびしさは鳴る」。それを痛感しつづけた一年だった。

 

 四月から新しい環境に移って、慣れ親しんだ人たちのあいだで温かい毎日を過ごす生活は終わった。新しい環境には、知らない人びとしかいなかった。それはこれといって辛いものでもなかったが、さびしさは徐々に僕の胸の底へと滴り落ちて、今では小さな水たまりとなっている。

 

 僕は、人より少しは上手に文章を書けるつもりでいた。それにだけしがみついて自分を保ってきた。しかし、文章なんて、誰にでも書ける。あるいは巧拙が問題なのだとしても、自分よりも巧みに言葉を紡いでいく者はいくらでもいる。わかっているはずだった。しかし、自惚れはほんのわずかな隙を見つけて、僕たちの心に忍び込んでくる。そして、自意識や自尊心や自己愛や自己嫌悪や、自己と名の付くあらゆるものと結託して、僕たちの人生を狂わせる。

 

 文章を書くという営みは、無限に存在し、そして一滴たりとも存在しないような水たまりから、あるときは手で作ったうつわで、あるときは柄杓で、あるときはバケツで、あるときはポンプで水を汲み上げていくような作業だ。何かを書くということは、何かを書かないということだ。それは、負け続けることに等しい。だが、書かなければ、負けることもない。それでも、僕たちは水を汲み続けなければならない。喉の渇きを潤すために。

 

 僕は音楽を奏でているつもりだった。僕の内奥には、語るべき何かがあると思っていた。それを誰かに、ささやかでも与えることができればいいと思って、自分を語ってきた。しかし、僕は与えていたのではない。求めていたに過ぎない。現実を直視してみれば、僕には語るべきことなど何一つなかった。僕の心は伽藍堂にすぎなかった。僕が奏でているつもりだった音楽は、空っぽの洞窟に滴り落ちるさびしさが鳴っている音に過ぎなかった。

 

 「さびしさは鳴る」。その音が他人に聞かれるのが怖くなった。それで、語ることを恐れるようになった。何を語っていても、伽藍堂ですすり泣いている声が反響しているようにしか聞こえなくなった。ばかばかしいとしか思えなかった。だから、僕は以前にもまして、自分のことを語るのをやめて、他人のことを語ることにした。でも、それもやっぱり、さびしさが鳴っているのにすぎないはずだ。

 

 喉が焼け付くような劣等感。だったらどれほどいいだろうか。空っぽの虚しい劣等感。それこそ僕が持っている唯一のものだ。今年は、それに気づいた。そんな一年だった。

 

 空間があるのなら埋めればいい、そんな言葉も思いついた。けれど、その言葉もやっぱり空っぽで虚しいじゃないか。白地のキャンパスに白の絵の具で描いていく、それが自分というものなのか。

 

 僕は言葉に魂を売りたい。

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最近の小説について

 このあいだ、久々に本屋に立ち寄った。

 次回の「週刊印象批評」で取り上げる作品を探そうと思って、新刊コーナーを物色しに行ったのである。

 僕は、近頃の日本文学の動向にはちっとも明るくないから、平積みされている本の作者たちでも名前を知っている人はほとんどいない。せいぜい、東野圭吾さん、中村文則さん、町田康さん、宮下奈都さん、本田沙耶香さん、宮部みゆきさん、綿矢りささん、とか、そのあたりが限界だ。あとの人たちは、名前も聞いたことが無いし、もちろん作品を読むなどもってのほか。

 そういうわけで、次回で批評する作品を選ぼうと思えば、裏表紙や帯に書かれているわずかな情報から、これは面白く読めそうだとか、これは記事が書きやすそうだとか、がんばって推理しないことには手も足も出ない。

 平積みの本を中心に、棚にずらりと並べられている本の上を、端から端まで眼を走らせていく。ちょっと気に止まった本は、手にとって最初の数行を読んでみたり、適当なところを開いてみたりする。そうこうしているだけで、最近の出版事情が何となくだがわかってくる。最近いちばん気になるのは、白地の表紙にたくさんの文章が連ねてある表紙がとても多いこと。これはビジネス書や自己啓発本の類に顕著だ。それから、やけに長い(ライトノベルみたいな)タイトルの本も多い。これもやはりビジネス書や自己啓発本の類によく見られる。どちらにしても、忙しい人たちに向けて、表紙だけで興味を惹かせて、買ってもらえればこっちのもの、という算段なのかもしれない。実際、白が目立つのは表紙だけではなかったりする。まあ、戦略としては真っ当だ。

 話が横に逸れてしまった。そういうふうに最近の出版事情が見えてくるのは、何もビジネス書や自己啓発本の類だけではない。小説もまたかくのごとし。

 これがここ最近に限ったことかは知らないが、小説で目立つのはミステリー作品の多さだ。あるいはミステリー要素の多さと言っても良いかもしれない。昔、純文学が行き詰まったとき、SFの輸入が図られた(といっても、別にほんとうの輸入みたいに意図的なものではないと思う)が、近頃は、どうやらミステリーの輸入が進んでいるらしい。もちろん、ミステリー風純文学よりも、純ミステリー作品のほうが多いのは間違いない。それにしても、やはりミステリー仕立ての作品は氾濫を起こしているといっても過言ではない。

 帯を見るとよくわかる。この作品にはこのような奇っ怪な謎があるのだよと、僕に持ちかけてきた本の多さと言ったら。やれ昔誰々が死んだけれど真相は謎のまま、誰々が失踪したけどどこへ行ったやら、そういうウリ文句を掲げている本がたくさんあった。

 別に、これについて批判しようとか、あるいは、現代には謎が少ないからこういう状況になるのだろうとか、そういうことを言うつもりはない(ということは、そういうふうに言いたいのだ)。けれど、少し不満を覚えないこともない(ということは、覚えているのだ)。

 人が死ななければ魅力的な作品は創れないのだろうか。奇っ怪な謎がなければ面白い作品とは成り得ないのだろうか。そんなことを考える。最初に大きな謎が言挙げされて、途中でたくさん伏線がばら撒かれて、「事の真相」が判明してスッキリ。そういう作品は、一度読んだらもう読まなくても良いではないか。まさに消費物。もっと、表面的には何も大したことが描かれていないようで、それでいてとても奥深い世界が掘り下げられている、そういう作品だって魅力的だと思うのだが。

 以上、愚にもつかない愚痴でした。

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週刊印象批評:第3回「宮下奈都『静かな雨』」

 

静かな雨

静かな雨

 

  皆さんこんにちは。週刊印象批評第三回です。

 今回は、ピアノ調律師の青年が主人公の『羊と鋼の森』で2016年本屋大賞を受賞した、宮下奈都さんの受賞後最新作『静かな雨』を取り上げて批評していきます。

 受賞後最新作とはなっていますが、これはどうやら宮下さんのデビュー作だそうで、それが今回単行本となったということのようです。2004年に文學界新人賞佳作を獲得した作品です。

 読後感としては、力量不足は随所で感じられるものの、全体としては儚くて美しい恋愛小説として仕上がっているかなと思います。

 さて、そんな現代の日本を代表する作家として成長しつつある宮下奈都さんのデビュー作を、少し詳しく見ていきましょう。

  目次

あらすじ

「忘れても忘れても、ふたりの世界は失われない」

 

新しい記憶を留めておけないこよみと、彼女の存在が全てだった行助の物語。(Amazonの内容紹介より抜粋)

文体について

 僕は宮下奈都さんの熱心な読者ではないので、彼女の文体的特徴がどのようなものかはあまり知りませんが、評判を聞く限り、「温かい」「優しい」「透明感」「静謐」といった言葉で語られることが多いようです。実際に見ていったほうが早いですね。

「遠くないうちにだめになるだろうと予想はついていたけれど、まさかこんなに早く来るとは思わなかった。めずらしく代表が朝からいると思ったら、社員が全員集められて話があった。今年いっぱいで会社をたたむという。退職金は基本給一か月分、急なことなので、それにもうひと月分を足して来月の給料日に口座に振り込んでおくということだった。 /雪が降ったのはこの冬初めてだろう。クリスマスに雪が降るなんてなかなかすてきだけれど、昼過ぎに会社を出た頃にはすっかり止んで、道にも残っていなかった。」p.3

 書き出しはこんな感じです。冒頭からなんだか大変な目に遭っている主人公・行助(ユキスケ)ですけれども、自分が勤めている会社が倒産したにしてはやけにあっさりした語り口です。

 僕の引用が不適切なので、「温かい」「優しい」といった特徴はあまり感じられませんが、この比較的短い文を小気味よく連ねていく文体も宮下さんの文章の特徴の一つだと思われます。

 基本的に、全編このような、事実を短いセンテンスで切断していくような、淡々とした調子で進みます。一人称の語りなので主人公以外の心理は原理的に描写されないし、主人公の心理描写も非常に切り詰められています。こういった、出来事がベースとなっている語りの場合、細心の注意を払って読んでいく必要があるでしょう。心理描写がない、すなわちその出来事から読み取れる心情がない、ということではないですから。

誰か地球を止めて

 僕が読んでいて、非常にユニークだなと思った一節があります。

 小学校の、まだ低学年だった。地球の自転を習った授業の後、僕は理科室を出ようとしていた。何気なく、地球が自転しているところを思い描こうとして、立ち止まった。地球が、回っている。(中略)今このときも一秒間に463mのスピードで僕は突き進んでいるのだ、と思ったとき、全身が総毛立った。ものすごい恐怖感が来た。ごうごうと耳が鳴る。止めて、誰か地球を止めて。声に出せずに叫んだ。(p.14-15)

 地球が自転しているなどということはまったく自明の理であって、そのことをよく知っていても意識に上ることはありません。しかし、考えてみればこれはすごいことで、本文にもある通り、「一秒間に463mのスピード」で私たちは移動し続けているわけです。これはかなり非日常的なことですけれども、僕たちはふつう地球の自転を感じることなどできませんから、日常的なこととして気にも留めないわけです。ところが、文学作品においてこのように改めてつぶさに描写されると、ふだん気にもしないことが異様なリアリティを伴って僕たちに直撃します。これも文学(あるいは芸術一般)の持つ力の一つでしょうね。(cf.「異化」V.シクロフスキー)*1

 それにしても、「地球を止めて」だなんて、ふつうの発想では思いつかない、とても面白いセリフだと思いませんか。ということは、この一節はこの作品を読む上で特に重要な何かを隠しているかもしれません。僕たちはここに注目してこの作品を読んでみましょう。

 僕が思うに、「地球の自転」というのはこの作品のキーワードの一つです。管見の限りでは、「地球の自転」ないし「自転」という単語はこの作品全体で3回出てきます。そのうち一回は上に引用した一節で、二回目はそのすぐ後の一節、三回目はかなり終盤にひょっこり再登場します。二回目は特に重要でもないと思いますが、一回目と三回目は結びつけて考えるべきでしょう。三回目がどこで登場するかは、ご自分で注意して呼んでみてください。

 さて、この「地球の自転」というものをどう考えるべきか。それは、「地球の自転」の性質を細かく割っていけばおのずと見えてくるでしょう。

 まず、それは、ふだん僕たちには認識することができませんが、しかし確実に僕たちに働きかけているものです。それから、決して止まることがなく、不断に動き続けているものです。

 ここまで考えてみると、「地球の自転」というのが、他のある現象、というか概念とどことなく似ているような気がしてきます。「地球の自転」とその概念とは不可分に結びついているものです。そして、「地球の自転」が止まれば、もう一つのものも止まるかもしれません(というより、そういう概念が必要なくなるでしょうね)。

 だとすれば、「地球の自転」というのは、単にそれだけを指すものとして考えるべきではないかもしれません。「地球の自転」と不可分に結びついているもう一方のものも視野に入れて考えましょう。つまり、主人公・行助が止まってほしいと思ったのは、きっと「地球の自転」だけではなく、むしろもう一方の概念のほうだったかもしれないということです。後は皆さんにお任せします。

月は無慈悲な夜の女王

 あらすじを読めば分かることですが、ヒロインのこよみは新しい記憶が一日しかもちません。この高次脳機能障害は、とばっちりの事故でもたらされたものです。ふつうであればなかなか立ち直れないと思うのですが、こよみはすんなり元の生活に戻っていきます。毎朝、事故に遭って新しい記憶を一日しか保つことができないんだと行助に伝えられても、「泣いたり、嘆いたり、取り乱したり」せずに「事態を受け入れる」のです。

 これと対称的な人物が作品の中に登場します。こよみの私物の本を行助が借りて読む一節から少し引用します。

「読みはじめてびっくりした。記憶力をなくした数学者の話だった。皮膚がざわざわと粟立つようで落ち着かない。数学者は毎朝、自分の記憶が短時間しかもたないことを確認して、泣く。」p.72

 「記憶力をなくした数学者の話」といえば、小川洋子さんの『博士の愛した数式 (新潮文庫)』を彷彿とさせますけれども、僕は読んだことがないので、それに登場する数学者が毎朝泣くのかどうかは知りません。まあ、似たような設定の作品へのオマージュといったところでしょうか。

 それは置いといて、「泣いたり、嘆いたり、取り乱したり」せずに「事態を受け入れる」こよみとは打って変わって、行助が読んだ本に登場する数学者は、「毎朝、自分の記憶が短時間しかもたないことを確認して、泣く」のです。たいへんな違いようです。

 行助はこの本を読んで、こよみに対して怒りを覚えます。それから、彼はこよみの記憶障害を逆手に取ったような暴言を吐いてこよみを攻撃します。なんとも身勝手ではありますが、行助の心情としては、自分との生活を記憶にとどめておけないこよみが、そのことを悲しんでいる様子がないことに憤りを感じているのでしょう。そこは理解できなくもありません。

  しかし、こよみは本当に悲しんでいなかったのでしょうか。事の真相は、物語の終盤のある場面でおぼろげにうかがえます。そこは短いですがとても美しい場面なので、引用せずにぜひ皆さん自身で味わっていただきたいのですが、キーワードは「月」です。月といえば、その満ち欠けという性質ゆえに「移り変わるもの」の典型です。その月を見て、こよみは一体何を思うのか。作品中でもっとも注目に値する場面だと言えます。ぜひ注目して読んでみてください。*2

主人公・行助について

 またしても一人称の語りについてです。本当に罪深いものですね、一人称の語りは。僕がこの作品を読んでいて、いくつか引っかかった部分があったので引用します。ある日、こよみが営んでいる店にやってきた高校生が、学校の勉強など役に立たないのではないか、と愚痴をこぼす場面があります。その高校生の心情の描写です。

「背の高い高校生は自分の訴えが幼稚なことも、そして訴えを投げる相手を間違えていることも知っていながら、口を尖らせて並べ立ててみせているのだった。」p.54

 なんだかとても当を得た意見のように見えるので、なるほどと思うだけで読み飛ばしてしまいそうになりますが、それは語り手に飼いならされた読者の思考です。僕たちは、このような語り手を容易には信頼しないようにしましょう。

 おかしいと思いませんか。この作品は、一人称の語りです。しかし、この一節はどこをどう読んでも三人称の語りです。他人の思考を正確に把握して描写できるのは、神かエスパーか、あるいは神かエスパーを気取っている驕り高ぶった一人称の語り手でしょう。行助はまさにそうです。彼には、他人の思考や心情を一方的に解釈して決めつける癖があります(実は、この作品の登場人物は、多かれ少なかれ同じような性質をもっていますが)。次の引用は、同じ高校生がこよみに、大学に行くべきかどうかを相談する場面からの引用です。

「『そうだよ、自分で行ってみないことにはわからない。大学で面白いことを見つける人もいるかもしれないね。あたしは、退屈なだけだったけど』/高校生はちょっと驚いたみたいだった。僕もだ。こよみさんが大学出だなんて思っていなかった。」p.87

  高校生に対して上から目線で語っていた行助ですけれども、結局、こよみに対する知識と理解はその高校生と大して変わらなかったのですね。実はこの、他者理解の不可能性とでもいうようなものも、この作品の大きな主題の一つだとは思うのですが、長くなるので触れないでおきます。

 もう一箇所、上の二つの場面のように、一人称の語り手・行助が一瞬にして相対化されてしまう見事なシーンがあるのですが、それは皆さん自身で探してみてください。

可能性と才能

 『静かな雨』の帯には、「『羊と鋼の森』と対をなす」と書かれています。というわけで、『羊と鋼の森』と比べて読めば、また何か見えてくるものがあるかもしれません。

 2016年本屋大賞を受賞した『羊と鋼の森』には、こんな一節があります。

「才能があるから生きていくんじゃない。そんなもの、あったって、なくたって、生きていくんだ。あるのかないのかわからない、そんなものにふりまわされるのはごめんだ。もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない。」

 なかなか含蓄のある一節です。この一節における「才能」は、『静かな雨』では「可能性」に置き換えられると思います。

 主人公・行助は生まれつき足に麻痺があって、ずっと松葉杖に頼って生活しています。そして、こよみは事故に遭って記憶障害になります。二人とも「可能性」が大きく狭められているわけです。そんな二人が出会って、恋に落ちて、共に生きていく、というのがこの作品の乱暴なまとめですけれども、「可能性」のない二人は、「もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない」わけです。果たして、二人は「もっと確かなもの」を見つけることができたのでしょうか。作品中でははっきりと答えはでていないと思いますが、読後に静かに思いを巡らせてみてもよいでしょう。

まとめ

  • この作品は、事実を短いセンテンスで切断していくような、淡々とした文体で紡がれている。他の作品を読むとき以上に、繊細な手つきで文体を味わって、行間に漂っている静謐な雰囲気を感じ取ろう。
  • 主人公・行助は、「地球の自転」が止まることを望んだが諦めた過去がある。彼は、なぜ「地球の自転」が止まってほしかったのだろうか? 彼が止めたかったのは「地球の自転」だけだろうか? そして、彼の望みは叶ったのだろうか?
  • こよみは、行助とのささやかな日々の記憶をとどめておけないことを、なんとも思っていないのだろうか? もし、心の奥底で静かに悲しんでいるのだとしたら、それはどの場面から読み取れるだろうか?
  • 主人公・行助には、他人の思考・心情を一方的に解釈して決めつける癖がある。しかし、彼の語り手としての立場が相対化される場面がいくつかある。探してみよう。また、人は他人の思考・心情をどれくらいなら読み取れるだろうか? 読み取れていると思っていても、それは独り善がりの解釈に過ぎないのだろうか?
  • 行助とこよみの二人は、可能性という「あるのかないのかわからない」ものではなく、「もっと確かなもの」を探り当てることはできただろうか? もしできたとすれば、それは何だろうか? 自分の言葉で表現してみよう。

 前回取り上げた森見登美彦さんの『夜行』と違って、この作品は、物語内容を一変させてしまえるような問題点ははらんでいないと思います。そういった点はあまり気にせずに、主人公とヒロインの、静かで、儚くて、美しくて、壊れやすい愛の日々を、余韻に満ちた文体で心ゆくまで味わうのがよいでしょう。それを踏まえた上で、二人の関係をより深く理解するために、上の五つのヒントを仮に挙げておきます。参考にして読んでもらえるとうれしいです。

 この作品は、単行本にして107ページで、余白も多いので、ふだん本を読まない方でも楽しめると思います。文章も、難しい言葉はなく、リズミカルに綴られているので、つるつる読めるでしょう。その分、心に微かな風が吹き通っただけ、というようなことにならないように、骨の髄まで味わってやろうという姿勢で読むとよいかと思われます。

次回予告

 次回の週刊印象批評(1月1日更新予定)で取り上げる作品は未定です。というか、元旦に更新する気になるのかも怪しいです。まあ、期待しないでください。それでは。

*1:ちなみに、文学作品を読んでいるときに起きる、「事物がもともと持っていた性質を取り払われて、初めて目にするもののように異様な存在感と共に眼前に立ち現れてくる」ような感覚を、僕の尊敬するある先生は「自明性の剥落」と呼んでいました。とても秀逸なネーミングだと思うので、参考までに紹介しておきます。

*2:文学作品における「月」といえば、僕は『山月記』のラストシーンを連想します。あのシーンとの関連で、この『静かな雨』のシーンを読み解いてみるのも面白そうです。

取り柄がないのは悲しい

 僕は子供の頃から、特に何かをやるでもなく生きてきた。

 そのときそのときは、それなりに楽しかったし、その点は別の後悔していない。たくさん面白い友達と出会って刺激を受けてきて、そういうわけでかろうじて今の自分がある。不思議といつも友達には恵まれていたのである。

 でも、友達は友達だ。それは自分じゃない。友達がいるのはとても良いことだけれど、友達の存在を自慢する奴などどこにもいない。

 いや、別に自慢がしたいわけではない。だけど、自分の名前も顔も知られていない土地に放り出されたとして、それでもなお僕はこういう人間ですとアピールしてそうやって認知されていくような何か、あるいは、自分以外誰もいない絶対の孤独の世界に取り残されてしまっても、それでもやはりこれだけは確かなものとして保っていられるような何か、そんな何かが僕にはひとつもない。

 自室に一人でいるときに、ああ、僕はこれだけはできるなあ、と思って、心の内奥にぽっと温かい火が灯るように感じられる、そんなものを育もうと努力してこなかった。いや、そもそもそういう発想すらなかった。だが、多くの人は知らず知らずのうちにそういうものを自分の中に成長させていき、あるときふと過去の自分がした努力のありがたみを感じるのだろう。

 僕は過去の自分に感謝したいと思ったことはない。さりとて過去の自分を責めたいと思ったこともない。だから変わらない。きっと明日も明後日も来年も、再来年も、十年後も、死ぬまで! ……いつまでたっても不全感に心を蝕まれ続けながら生きていくことだろう。だって、日はまた昇るのだから。

 取り柄がないのは悲しい。

週刊印象批評:第2回「森見登美彦『夜行』」

 

夜行

夜行

 

  皆さんこんにちは。週刊印象批評第二回です。

 今回は、予告通り森見登美彦さんの『夜行』を取り上げて批評していきます。

 まず、読後感としては、非常に面白かったというのが素直な感想です。中盤まではなんだかよくわからないまま、話も進んでいるのか進んでいないのか微妙な感じなのですが、終盤になって段々と物語が急激に拡散しながら、かつ収斂していく。そういう作品は僕の好物なので、とても楽しめました(しかし、後述しますが、この作品の真価を理解したのは読み終わってからです)。

 僕にとって森見さんといえば『四畳半神話大系』や『有頂天家族』の作家さんなので、ホラーテイストの本作『夜行』には新鮮さを感じました。といっても、森見さんにはホラーテイストの作品もいくつかあるそうですが(『宵山万華鏡』や『きつねのはなし』)。

 それでは、これから実際に、僕の読みを少し詳しく書いていきます。

  目次

あらすじ

僕らは誰も彼女のことを忘れられなかった。

私たち六人は、京都で学生時代を過ごした仲間だった。

十年前、鞍馬の火祭りを訪れた私たちの前から、長谷川さんは突然姿を消した。

十年ぶりに鞍馬に集まったのは、おそらく皆、もう一度彼女に会いたかったからだ。

夜が更けるなか、それぞれが旅先で出会った不思議な体験を語り出す。

私たちは全員、岸田道生という画家が描いた「夜行」という絵と出会っていた。

旅の夜の怪談に、青春小説、ファンタジーの要素を織り込んだ最高傑作!

「夜はどこにでも通じているの。世界はつねに夜なのよ」

Amazonの内容紹介より抜粋)

抑圧されている「夜」

 文学作品を読む上で、非常に便利なツールがあります。それは「二項対立」の図式です。二項対立とは、ある要素と別の要素が相対して配置されなる価値が与えられているというような有り様を指します。身近な例を挙げれば、男/女、明/暗、海/陸、といったものは二項対立を成していると言えます。ちなみに、こうした二項対立にはおいて、必ず優劣の階層づけが行われるとも言われています。たとえば、私たちの社会において、男/女の対立は単に性別の違いのみならず、基本的に男が優位にあるということを否定する人は多くないでしょう(念のために言っておきますが、実際の女性が男性に比べて劣っているという意味ではありません。二項対立における優劣というのは、あくまでその社会で暴力的に決められた幻想にすぎません)。

 さて、この『夜行』という作品からはどのような二項対立が見いだせるでしょうか。言うまでもなく、最も重要な二項対立は、朝/夜です(昼/夜のほうが適切な気もしますが、作品中のある事情によって今回は朝/夜としておきます)。それはタイトルからも推測できますね。

 それでは、朝/夜の二項対立においては、どちらが優位にありどちらが劣位にあるでしょうか。おそらく、ほとんどの人は朝が優位にあると答えるだろうと思います。なぜなら、私たちは基本的に「朝の世界」に生きているからです。

 当たり前のことですが、私たちは普通、夜になれば寝ます。あるいは夜起きていることもできますが、そうなると、朝寝なければなりません。一日じゅう起きる生活を一生涯続けられる人間はきっといないでしょう。つまり、私たちは「朝の世界」と「夜の世界」の両方を生きることはできず、どちらかを劣位に置き、抑圧し、切り捨てるかたちでしか生きられないということです。そして、通常であれば、劣位に置かれ、抑圧され、切り捨てられているのは「夜の世界」です。「夜」とは、「抑圧されたもの」なのです。

 「抑圧」と言えば、精神分析学(心理学)でよく耳にする用語ですね。端的に言うと、意識するのが耐え難い欲望や記憶を、無意識の底へと押し込んでしまうことを意味します。そうすると、「夜」とはまた、抑圧された耐え難い欲望や記憶の象徴であると考えても良いだろうと思います。実際に、作中には「私の夜の世界」という表現も見られます。つまり、「夜」とは私たちの中にもあるのです。まずこのあたりを押さえておきましょう。

日常に侵入する非日常

  さて、上で見たように、「夜」は、平生は抑圧されています。すなわち、「夜」とは非日常なのです。そんな非日常(夜)が、日常(朝)に侵入し、日常がかき乱されていくシーンが、『夜行』には何度か訪れます。一例を見てみましょう。

 「寝静まった山の手の町は、昼間とはまったく印象が異なっていた。街灯に照らされた石段や横道は水族館の薄暗い通路のように陰気に見えた。自分の足音だけが大きく聞こえた。(中略)しばらく歩いて振り返ると、海沿いの夜景が眼下に広がっていた。そのときほど夜が夜であると感じられたことはない。夜明けの来るような感じがしなかった。」p.61

 「僕が感じていたのは恐怖ではなくて怒りだった。心の隅の暗がりから急速に燃え上がって、自分を変身させてしまうような、今までに感じたことのない怒りだった。」p.62

 前者の引用は、この作品の語り手の一人である中井という人物の独白です。昼間に訪れた場所の、夜が更けてから再び訪れたときの描写です。その場所は、「昼間とはまったく印象が異なって」いて、「そのときほど夜が夜であると感じられたことはない」というほどの強い印象を受けています。昼と夜で街の表情ががらりと変わるというのは、多くの方が経験したことのある体験だと思います。しかし、この場合、変貌したのは街だけではないようです。

 そのことは後者の引用からわかります。「昼間とはまったく印象が異なっ」た街で、ある出来事に巻き込まれた中井は、「恐怖」ではなく「怒り」を感じます。それも、「自分を変身させてしまうような、今までに感じたことのない怒り」です。ここで注目に値するのは、「心の隅の暗がりから急速に燃え上がって」という部分です。「心の隅の暗がり」、つまりは「私の夜の世界」です。そこから燃え上がった怒りということは、このとき初めて彼の中に生まれた感情ではなくて、彼の中の「夜の世界」に抑圧されていた感情だったのではないでしょうか。それが、夜の訪れとともに抑圧から解き放たれ、彼の行動に影響を与えたのでしょう。

 このような描写は、作品中にまだほかにいくつか見いだせます。ぜひ、この点に注意してご自分でお読みになってみてください。

「語り」の奇妙な一致

 この『夜行』という作品は、主人公・大橋とその他四人の語り手たちの語りで構成されています。全体を統合する主人公は大橋という男で、第一章は中井、第二章は武田、第三章は藤井、第四章は田辺、そして最終章は大橋(ともう一人の男)の、一人称の語りです。

 それぞれ、彼らの「旅」の物語で、旅先で怪しく恐ろしい不可解な出来事に巻き込まれたという点、岸田道生という画家の連作『夜行』が関わっているという点で共通しています。しかし、それ以外の点では大きく異なっていて、なんだか何の関係もない断片的な話を脈絡なく並べたようです。そのため、最後まで読んでも、わかったようなわからないような、宙づりの状態で作品世界から去っていかなければなりません。

 しかし、表面的にはまったく違うように感じる五人の語りには、偶然と言うにはあまりにも奇妙な一致があります。その一致も、語りの「内容」についてであれば、もともと非現実的な出来事ばかり描かれるわけですから、ファンタジー的な要素として片付けられるでしょう。ところが、一致しているのは、彼らの語りの「言葉」なのです。いくつか引用していきましょう。

「白くてほっそりとした素足が、古びた木の階段をぴたぴたと踏んで降りてきて、見覚えのある色白の顔が階段途中に浮かんだ。」p.23(第一章)

「やがて白くてほっそりとした素足が、古びた木の階段をぴたぴたと踏んで降りてきて、見覚えのある色白の顔が階段途中に浮かんだ。」p.233(最終章)

「そのときほど夜が夜であると感じられたことはない。」p.61(第一章)

「そのときほど朝を朝だと感じたことはない。」p.252-253(最終章)

「身体の力が抜けて、こちらの懐にスッと滑りこんでしまいそうな顔です。」p.104(第ニ章)

「こちらの懐にスッと滑りこんでくるような笑顔だった。」p.162(第四章)

「今、佳奈ちゃんの家は息を吹き返して、夜の底に燦然と輝いていました。」p.157(第三章)

「岸田の家はいつも通り、夜の底で燦然と輝いていた。」p.203(第四章)

 これらは奇妙な一致の一部であり、僕が見つけただけでもまだいくつかあります。気づいていないものを含めればもっとあると思われます。

 部分的には違うところもありますが、異なる人物が異なる事物を描写しているにしては、表現があまりにも酷似しています。まるで同一人物の語りであるかのようですもちろん、これも物語の不可思議さを強調する演出の可能性はあります。

 しかし、僕はこの奇妙な一致が、より重要な「何か」を物語っていると考えたいのです。そうすれば、この『夜行』という作品の表情が、まるで別人のようにガラリと変貌するからです。といっても、僕の仮説が正しいとは限りません。ぜひ皆さんも考えてみてください。

大橋は「信頼できる語り手」なのか

 物語の「語り手」には、二種類あるとされています。ウェイン・ブースという文芸評論家は『小説の修辞学』という本のなかで、「語り手の言葉が真理として受け止めるに足る権威を帯びている場合」を「信頼できる語り手」とし、「語り手の言葉が読者の疑いを引き起こす場合」を、「信頼できない語り手」としました。

 ある語り手が信頼できるか信頼できないかを決めるには、様々な根拠と推論が必要になります。たとえば、語り手が未熟な青年であったり、偏見が強い人物であったり、犯罪者であったりという場合は、「信頼できない語り手」とするべきです。あるいは、その語り手が原理的に出来事すべてを知り尽くせないような場合、簡単に言えば、語り手にも知らないことがある場合もまた、その語り手は「信頼できない語り手」でしょう。

 さて、既に言ったとおり、『夜行』には、主に五人の語り手が登場します(実際は、ごく短いですがもう一人います)。彼らは信頼できるかどうか。これは非常に疑わしいと思います。なぜなら、彼らが巻き込まれた出来事はどれもこれも不可解で不条理で不可思議で非現実的なものです。それらの出来事の原因のようなものを彼らは知らないし、ということは読者にも明かされないわけです。実際のところ何が起こったのかわかっていない人物の語り、これは安易に信頼してはいけないでしょう。

 『夜行』の語り手たちが、全員おいそれと信頼してはいけない語り手だということはわかりました。さて、そのなかでも僕がとりわけ注意したいのは、主人公・大橋です。彼は、極めて怪しい人物だと思います。

 詳しく書くとネタバレになってしまうので難しいのですが、まず、英会話スクールの仲間六人のうちの一人、長谷川という女性があるとき忽然と姿を消した、これはあらすじにも書いてあることです。そして、これは明確な事実ではありませんが、長谷川の失踪の直前まで彼女と一緒にいたのは、おそらく大橋です。となると、当然大橋には説明責任があるわけです。

 ところが、作中で大橋は、長谷川と一緒にいたはずの最後のときのことをほとんど語っていません。「どうしてあのとき、私は長谷川さんの姿を見失ったのだろう」という一文だけです。彼の言葉を素直に受け止めるのならば、彼もまた本当は何が起こったのかを知らないということでしょう。しかし、もし彼が、長谷川との最後の記憶を抑圧していたのだとしたら。意図的に隠したのだとしたら

 段々と深読みが行き過ぎになってきているかもしれません。しかし、すべての語りを統合する語り手である大橋が、絶対的に「信頼できない語り手」であるとするのならば、上で取り上げた奇妙な一致にひとつの結論が出せるのではないかと考えています。果たして、語り手は本当に五人いたのでしょうか……

 しかし、もし大橋が嘘をついているとするのならば、一体何のためかという疑問が浮かび上がるのが自然です。その答えのヒントとなると僕が考えているのは、作品の終盤において語られる、謎めいた画家・岸田道生がイギリスで目にしたある絵画についての逸話です。これは、ぜひ皆さんで読んで、そして考えてみてください。もちろん、僕が誤読している可能性も十分にあります。

作品がはらんでいる問題点

  • 「夜」とは、「抑圧されたもの」である。「夜」は私たちの中にも存在している。登場人物たちが抱えている「夜の世界」とはどんな世界だろうか? そこには何が抑圧されているだろうか? そして、それはどのようにして彼らの日常に侵入し、行動を左右しただろうか?
  • 五人の「語り」は、別々の人物のものとは思えないほど、奇妙に一致している。これは単純にファンタジー的、あるいは怪奇的演出なのだろうか? それとも、より重要な「何か」を私たちに訴えかけているのだろうか?
  • 主人公・大橋は「信頼できる語り手」だろうか? もしそうでないとしたら、彼が語らなかったこととは何だろうか? 彼はどのような嘘をついているだろうか? 彼の「夜の世界」には、何が抑圧されているのだろうか?

 僕が掴み得た、『夜行』という作品がはらんでいる(と思われる)問題点は、だいたい上のような感じです。もちろん、他にも取り上げるべき点はあるし、面白い点もたくさんあります。たとえば、今回は青春小説としての読みは一切省きましたが、そういう観点から読めば、もっとポジティブな読みができると思います。

 そして、当然ながら上の問題点には明確な答えはありません。この作品に関しては、ひょっとすると作者すら真相を知らないかもしれません。「読者の想像に任せる」という決まり文句は好きませんけれども、たしかにこの作品には、たとえ誤読であっても、興味深い「想像」ができる広い余地があります

 というわけで、空所の多い作品はあまり好きではないという方には積極的におすすめはできませんが、作品から想像、想像から妄想へと飛翔していくことのお好きな方にはぜひともおすすめできる作品だと言えます。

 次回予告

 次回の週刊印象批評(12月25日更新)では、『羊と鋼の森』で2015年(2016年の誤りでした)本屋大賞を受賞された、宮下奈都さんのデビュー作『静かな雨』を取り上げる予定です。

静かな雨

静かな雨

 

 お楽しみに。

週刊印象批評:第1回「印象批評とは何か」

 ネット上には、書評ブログがたくさんあって、その中にはとても一般人の手になるとは思えないような(実際、名前を隠した在野の人も多いのかもしれない)、レベルの高いブログもあります。

 僕自身、そういった類のサイトにいつもお世話になっています。僕の場合は、次に読む本を探すときではなく、自分が読んだ本に対する他の読者の感想が知りたくて利用します。自分の感じていたことが見事に代弁されていて膝を打つこともあれば、まったく予想だにしなかった観点からの鋭い洞察もあったりして、非常におもしろい。

 ところで、人というのは(僕だけかもしれませんが)、何かを受容して蓄積していく一方では、なんだかお腹いっぱいという感じで、今度は自分から何かを吐き出したくなる(表現が悪い)ものだと思います。これは文学作品そのものについても言えますが(だから人は書評などというものを書くのではないでしょうか)、同じことが書評ブログについても言えます。読む一方ではなんとなく物足りない

 そういうわけで、今度からこのブログでも書評を始めることにしました。題して、「週刊印象批評」。その名の通り、一週間に一回(多いね。チャレンジング!)、一つの作品を取り上げて批評していきます。更新は今のところ毎週日曜日を予定しています。以下で、編集の方針について少し詳しく解説していこうと思います。

  目次

どのような書評をするか――「印象批評」

 さて、書評をするにあたって、ぜひとも確認しておかなければならないことがあります。それは、どのような観点から文学作品を評していくのかということです。

 曲がりなりにも書評と銘打って文章を書くのであれば、それなりにしっかりとした方向性を打ち出しておかなければ、読者に対して不誠実というものでしょう。

 どのような方向性でやっていくか。気合いの入りすぎた書評は、きっと続かないし、独りよがりです。理論に基づく批評は公平で明快だけれども、素人の僕にまねできるものではないし、読者としてもあまり興味がないかもしれません。*1

 そこで、このブログにおいて行う書評は、ガッツリ理論に基づいた書評ではなく、いわゆる「印象批評」という立場からの書評を行っていきます。

 「印象批評」とは何ぞやというと、煎じ詰めれば好悪(好き嫌い)あるいは面白い・面白くないという主観的な価値判断を基にした批評です。で、これは本来はよくない批評の代表例です。「印象批評」の詳しい解説と、なぜよくない批評かってことは、文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)を読んでもらえると非常にわかりやすいです。しかし、それだとたらい回しみたいでアレなので、『文学部唯野教授』で引用されている大江健三郎さんの発言を孫引きしておきます。

「文学理論は必要です。評価する・あるいは否定する根拠なしの、あいまい主義的な批評にさらされているわが国の作家たちには、それもとくにこれから小説を書き・発表する若い人びとには、文学理論にたつ批評がなされることほど望ましいことはないはずです。気分次第で賞めたり叱ったりする親ほど教育的でないものはないように、あいまい主義的な批評が若い作家をよく育てうるとは思いません。(太字は引用者)」―『文学部唯野教授』p.42

 実に明快な論理です。これ以上言うことはありません。

 とはいえ、私は「若い作家を育てる」ような立場にある人間ではありませんし、プロフェッショナルの評論家ではないので発言力もありません。そんなズブの素人の批評なのだから、まあ印象批評でも勘弁してもらえるのではないかと、思うわけです。

 それでも、好き・嫌い、面白い・面白くない、共感できる・共感できない、感動した・感動しなかった、とかそれだけの批評はちっとも参考になりません。ですから、そういった印象批評以下の読書感想文よりはまともで論理的な批評を心がけようとは思っています。

 具体的な作品の箇所を引用して、ここのこういう部分がこういう点で興味深いとか、注目するべきであるとか、そういうふうに批評していければなと考えています。

「週刊印象批評」の目的

 この「週刊印象批評」が目的とするのは、普段僕がやっているように、読後に参照して読みを深めてもらうことではありません。なぜなら、僕はそのような知見を提供できるほどの知識もなければ読解力もないからです。

 では、何を目的としてやっていくかといえば、次に読む本を探す手がかりとして役立ててもらうことです。世の中には星の数ほど本がありますけれど、そのすべてに読む価値があるかといえば決してそうではありません。しかし、僕らの時間は限られている。限られた時間のなかで、できるだけ失敗をしたくないのは当然です。そんなとき、道しるべとなるものがあればありがたい。そういうものを目指して編集したいと思います。

 したがって、重大なネタバレは避けて批評します。もちろん、あらすじを説明したり適宜引用しながら批評するわけですから、多少のネタバレは禁じえませんが、ご自分で作品を読まれる楽しみがなくなるようなネタバレは絶対にしません。

 それから、その作品に対する明快な答え(解答例のようなもの)は提示しません。もしそうすると、皆さん自身が読むときのバイアス(先入観)になってしまう恐れがあるからです。むしろ、僕が読んでいて、この作品はこういう問題をはらんでいるのではないか、と思った点を皆さんと共有したいと思います。このブログで紹介した問題意識を念頭に置いて、作品を読みながら自分なりの答えを見つけてほしいと思います。

 最後に、昨今、「出版不況」「文学離れ」が叫ばれるなかで、少しでも日本の出版業界と文学界に貢献ができれば、というおこがましい願いももっていることを付け加えておきます。

取り扱う作品について

 この「週刊印象批評」では、取り扱う文学作品に明確な方針を設けておきます。そのほうが、読むべき本を探すために参照してほしいという意図にかなうと思うからです。また、自分としても、普段あまり読まない本を手に取って、批評するために精読するという良い習慣がつくだろうという思惑もあります。

 取り扱う作品の基準は、以下の通りです。

  • 比較的最近に出版された作品
  • 200ページから最大で500ページ程度の作品
  • ライトな純文学からミステリやファンタジーまで幅広く

 第一の基準については、次に読みたい本を探すのに役立ててほしいという方針からすれば当然のものです。古典とされている名著はもちろん、数年前などに出版された作品については、大体は評価が定まっているものです。たくさんの碩学な評論家諸氏が蓄積した評価に、僕が付け加えられることはほとんどありません。したがって、比較的最近の、まだ評価の定まっていない作品について批評していきます。本当であればその週に出版されたもの、としたかったのですが、そうすると僕が読みたいものがない場合が出てくると思うのでやめました。

 第二の基準については、普段読書をしないような人でも手に取りやすいような、できるだけ短めのものがよいという理由からです。これから読書を趣味にしようかな、という段階の方々にとっては、長さというのは最もネックとなるものでもあります。そういうわけで、1000ページ以上にわたる大長編小説や、数巻にわたるシリーズものは原則として取り上げません。これも、日本の出版業界に対するささやかな貢献ができればとの意図を含んでいます。

 第三の基準については、個人的には純文学を愛好しているので、それを主に取り上げたいのですが、純文学はノーサンキューという向きもあると思うので、できるだけ様々なジャンルを越境して取り上げていこうということです。純文学をとりあげるとしてもできるだけライトなものにしたいと思っています。それから、僕自身の読書の偏りを緩和するという隠れた意図もあったりします。

 基本的には、上述の基準に従って批評する作品を選定していくつもりですが、たまに特別篇という感じで基準外の作品を取り上げることもあるかもしれません。

次回予告

 次回の「週刊印象批評」(12月18日更新予定)では、森見登美彦さんの『夜行』を取り上げます

夜行

夜行

 

 お楽しみに。

*1:興味のある方は批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)を参照してください。これはすばらしい本だと思います。そこから発展して文学理論講義: 新しいスタンダードなどへ進まれるとかなり高度なレベルで学習できるでしょう。