雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

楽器が演奏できるのはいいことだ

 僕は、ほんの他愛もない趣味程度に、かじる、よりは、なめる、といったほうが適当な程度にピアノを嗜んでいる。やっていて哀しくなるくらいに下手くそなのだが、練習しなければ下手くそ以前の屑で永遠に停滞したままなので、毎日少しだけでも練習するように心がけている(もちろん、ほんとうに毎日できているわけではない)。

 しかし、下手くそなことをやり続けるというのは、思っている以上に根気がいるうえに、失敗ばっかりするので神経がみるみるすり減っていく。思わずピアノを蹴り飛ばしそうになることもある(念のため言っておくが誇張表現である)。

 それでもやっぱり続けるのには、当然、ピアノとピアノ音楽が好きだからというものあるが、もう一つ理由がある。

 それは、言語以外にも何か一つ表現する術を持っておきたいというものだ。

 言うまでもないことだが、僕らは何かを表現しようとするとき、ほとんど言語に依存しきりである。身振りというのもあるが、これは”ボディー・ランゲージ”などと言われるように、畢竟、言語と大差ないものである。というのも、言語と身振りが表現しようとするものは、基本的に同一だからだ(歓び、哀しみ、怒り、愛など)。

 だけど、僕らは、胸に去来する思いを表現しようとするとき、まず言語に頼ろうとしてもどうにもうまくいかなくて、次に精一杯の身振り手振りをしてみるもうまく伝わらずに、途方に暮れてしまうということが稀にある。いや、頻繁にかもしれない。頻度はともかくとして、そういうことは誰しも経験する。そういうとき、言語しか表現媒体をもたない者は、黙り込んでしまう以外に道はない。実際、そうやって押し殺されてしまって、永遠に表現されることのなかった名状しがたい感情にいちいち墓石を立てるとすれば、きっとおびただしい数になっているだろう(なんてまずい比喩なんだろう)。

 ところで、200年くらい前のドイツには、ベートーヴェンという人がいて、たくさんのすばらしい曲を創った。そんなことぐらい知ってるって? すみません。まあとにかく、彼は口下手な人で、しょっちゅう周りの人に不快感を与えていたという不名誉な印象を多くの人々にもたれている。それは実際、事実だったのだろう。でも、彼の名誉のためにこんなエピソードを紹介したいと思う(僕は彼の大ファンだから)。

 あるとき、ベートーヴェンと懇意にしていた女性が、ある出来事のせいで落ち込んでしまった(たぶん失恋とかそんなだったと思うが忘れてしまった。身内の不幸だったかもしれない)。そんなとき、ベートーヴェンは彼女の家を訪ね、一言も声をかけずに、ただ黙って、物悲しい調べをピアノで奏で始めた。

 ああ、もしこんなとき、言語でしか人を慰めることのできない凡夫たる僕らが彼女の家を訪れていたら、僕らのひどく拙い慰藉に対して、きっと彼女は哀しみを怒りに変えて口汚く詰ったことだろう。

 話がずいぶんと逸れてしまった。

 僕はもちろん、ベートーヴェンのようにはなれない。それどころか、インターネットの動画サイトで、僕よりも遥かにピアノがうまくてしかもイケメンな奴がいたら腹が立って仕方がないほどなのである。これでは音楽で人を慰めるどころか、自分自身ただの惨めな奴に過ぎない。

 何にせよ、この諸行無常の世界を渡っていくために、言語しか表現媒体をもたないのはどうにも心許ない。ほんとうは絵も描ければいいと思うのだが、どうもそちらは壊滅的に才能がないらしい。一方でピアノのほうはまだ少しはマシだ。そういうわけで、僕はちょっとでも、己の表現媒体としてピアノの技術の質を高めたいと思うからこそ、毎日毎日、しくじるたびに舌打ちをしながら(しつこいようだが、誇張表現である)、耳障りな騒音をご近所へ垂れ流しているのである(これはたぶん誇張ではない)。

 ちなみに、誇張表現に関する留保がいちいち目につくだろうが、これは僕のリアルな知り合いがこの文章を読んだとしても、僕の人間性に失望しないでいてもらうためである。というこの浅ましい考えこそが、まさに見下されてしかるべき僕の人間性を露呈していることは言うまい。

週刊印象批評:第5回「山下澄人『しんせかい』」

 

しんせかい

しんせかい

 

  みなさんお久しぶりです。週刊印象批評第5回です。

 二週間も連続で休載してしまって(正確には、サボってしまって)、申し訳ありません。といっても、書かなかったから誰かが困るというわけでもなし、逆にきちんと書いたからといって報酬がもらえるわけでもなし、そこが辛いところですが、ブログというのは端からそういうもの、今後はしっかりやっていきますので何卒お付き合いください。

 さて、前回の予告で、宮本輝さんの『草花たちの静かな誓い』を取り上げたいだのと言ってましたが、嘘でした。というわけで今回は、第156回芥川賞受賞作である、山下澄人さんの『しんせかい』を取り上げていきます。

 山下澄人さんという方は、僕は不勉強ながらこれまで存じ上げませんでした。Wikipediaによれば、倉本聰さんがかつて主宰していた「富良野塾」で学んだ生徒で、主に演劇方面で活躍していらっしゃった方だそうです。小説を発表し始めたのは2011年からとのこと。

 ちなみに、「富良野塾」というのは、

1984年に脚本家の倉本聰が私財を投じて開設した脚本家や俳優の養成施設。2年間共同生活をしながら、脚本の創作や俳優としての稽古をする。授業料は無料だが、地元農家から依頼される農作業で生活費を稼いでいる。2010年4月4日、25期生卒塾をもって閉塾。卒業生は380名を数えた。(富良野塾 - Wikipediaより抜粋)

という施設で、作品を読めばわかりますが、このあたりの事情はほとんどそのまま作品世界にも引き継がれています。主人公の名前も「山下スミト」なので、いちおう「私小説」に分類されるのでしょうかね。まあ、そんなことはどうでもいいでしょう。

 それでは、少し詳しく見ていきましょう。

  目次

あらすじ

十代の終わり、遠く見知らぬ土地での、痛切でかけがえのない経験――。19歳の山下スミトは演劇塾で学ぶため、船に乗って北を目指す。辿り着いたその先は【谷】と呼ばれ、俳優や脚本家を目指す若者たちが自給自足の共同生活を営んでいた。苛酷な肉体労働、【先生】との軋轢、そして地元の女性と同期との間で揺れ動く思い。気鋭作家が自らの原点と初めて向き合い、記憶の痛みに貫かれながら綴った渾身作!(Amazonの内容紹介より抜粋)

文体について

 毎度のことながら、文体についてから入りましょう。やはり文学なのだから、文体にこだわってこそです。少し調べてみると、山下澄人さんというのはやや実験的な手法を好んで取り入れる作家のようで、過去3回芥川賞候補に挙がるも落選していたそうです。

 この作品でも、そういった山下さんの姿勢は十分発揮されているように感じましたが、実験のほうに偏りすぎず、概ね誰にとっても読みやすい文章になっていると思います。具体的に見てみましょうか。

「人があらわれた。男の人だった。男の人は泥だらけの赤いヤッケを着ていた。サングラスをかけているから顔はわからない。ひげをはやしているのはわかった。手に何か大きな棒のようなものを持っていた。ただの棒じゃなかった。先が鉤爪のようになっている。武器かもしれない。男の人はゆっくりと車へ近づいて来ようとしたけど下が泥だらけだからなかなか車の近くまで来れない。」(p.20)

 そのとき視線に飛び込んでくるものを次々と描写するような感じが特徴的ですね。ふだん息の長い文章に慣れ親しんでいる人からすれば、少し読みづらいかもしれません。短文を無骨に書き連ねていく文体といえば、ヘミングウェイに代表されるハードボイルドが連想されますが、それともまた少し違いますね。

 「人があらわれた。男の人だった。男の人は泥だらけの赤いヤッケを着ていた。」という文章なんかは、ふつうであれば、「泥だらけの赤いヤッケを着た男があらわれた。」などと書いてしまいそうです。しかし、実際に僕たちは、「あ、人が入ってきたな」「男性か」「なんか泥だらけだな……」という具合に現実を認識しているのではないでしょうか。とすれば、「泥だらけの赤いヤッケを着た男があらわれた。」などという無粋な文とは違って、人間の認識過程を忠実に再現しようと果敢に試みている、挑戦的な文かもしれません。

 これらの、①現在、目の前に存在している事物を、②実際に認識したとおりに描く、という文体的特徴は、後ほどまた触れますので覚えておいてください。

語りの現在

 さて、この作品が、①現在、目の前に存在している事物を、②実際に認識したとおりに描く、ような文体で書かれていることは既に見たとおりです。

 ところが、本当にきちんと文章を確かめていくと、この作品は現在進行形で物語られたのではなく、過去を回想する形で物語られたのだということがわかります。*1実例を見てみましょう。

「何を。何も見てない。いや見てはいた。【先生】と呼ばれる人はたくさんのテレビドラマや映画の脚本を書いていたから、二人が話題にしていたそのドラマは見てなかったけど、いくつか見てはいた。見てはいたけどそのときのぼくはそれがその【先生】の作品だとは知らない。」(p.18)

 これは、これから師事する脚本家の【先生】の作品の何を見て入塾しようと思ったのか、と同期に聞かれたときの「ぼく」の反応です。「そのときのぼくは……知らない。」というところに注目してください。ここでは明らかに、物語られている出来事を後から振り返って、その時点では知らなかったことを付け加えています。こういう問題点は、「語り手」と「語り」の領域に関心がないと見逃してしまうかもしれません。しかし、この作品を味わうためには、物語の現在(語り手は<いつ>物語っているのか)がどこなのかということが、おそらく非常に重要です。

 過去を回想する形で物語られている作品といえば、夏目漱石『こころ』や森鴎外舞姫』などがその代表例ですが、そのどちらも、語り手に非常に強い衝撃あるいは打撃を与えた過去の出来事を回想しながら物語ることで、心の整理をつけようとしたり傷をいやそうとしたりしていると言えないこともないでしょう。ということは、この『しんせかい』の主人公である「山下スミト」もまた、俳優や脚本家志望者たちの集う【谷】での出来事を回想して物語りたいという内的な要求に駆られて物語っているのでしょうか。僕はそう踏んでいるのですが、みなさんはどうお考えになるでしょうか。

失われた時を求めて

 この作品が、過去を回想する形で物語られたということは確認しました。というわけで、文体についての特徴を訂正しなければなりません。この作品の文章は、①過去の出来事を、②現在を認識するときの過程を再現して(しようとして)、③目の前で起こりつつある出来事のように、書かれている、というくらいにしておきましょう。

 さて、主人公の物語行為は、「過去を追体験しようとしている」というふうに表現することもできるでしょう。とすれば、「人があらわれた。男の人だった。男の人は泥だらけの赤いヤッケを着ていた。」というようなまどろっこしいとも思える文も、なぜそのような書き方をするのか、なんとなくわかるような気がしますね。

 過去の再現という彼の試みはかなり成功しているように見えます。実際、これまでの引用以外にも、「鹿が畑の遠くを横切った。一、二、三、四、五、六、七。七頭」というように、目の前にいる鹿を順々に数えていっているようにしか読めない文が度々でてきます。

 ところが、主人公はある一点だけ、再現することに失敗しています。そのことについて彼は次のように語っています。

「『スミトは来るとき緊張した?』

 ケイちゃんがいった。おぼえてない。

『おぼえてないの?』

 けいこがいった。ジマさんは緊張していた。タチさんも緊張していた。ぼくはどうだっただろう。ロペスの吠えたのは耳に残っている。藤田さんが鉤爪のついた棒を持ってあらわれたのもおぼえている。しかしそれらを耳にし目にして起きた、自分の中に起きたことを、ぼくはおぼえていない。」(p.122-123)

  主人公は、外面的な事象の記述ばかりに終始して、内面的な感情や思考といったものはほとんど書きこぼしています。そして、それにかなり自覚的であることは上の引用からわかります。ふつう、私たちが過去を回想するときは、何が起こったかということよりも、そのとき自分や周りの人びとが何を思い何を考えたか、ということが中心ではないでしょうか。あるいは何を言ったか、もそうかもしれませんが、発言というのは感情や思考を表現したものですから同じことです。いずれにせよ、回想とは、基本的に出来事ベースではなく人物ベースです。

 しかし、主人公は、「自分の中に起きたことを」を「おぼえていない」のです。肝心要のところを再現することができない。ここに主人公の物語行為の悲劇があります。【谷】での経験を通じて、一体自分は何を得たのだろうか。そう自問する声が聞こえてくるかのようです。

 この作品では、二度、不思議な場面が訪れます。一度目を引用します。

「足元に誰かいた。けいこかもしれない。だけどけいこがそんな風に男の部屋に入ってきたりはしない。誰だろう。見てやろうとするがからだが動かない。首も手も足もぴくりとも動かない。目だけは動かせたから目玉をなるだけ足の方へ向けた。黒い服が見えた。男だった。顔はよく見えなかった。(中略)男はぼくを、探していた。間違いない。男はぼくを探している。しかし、男はここにはいなかった。そこにいるけど、ここにいない。男はここではないそこで、ここにいるぼくを探していた。そう思ったとたんに男が消えて僕の意識が飛んだ。意識が飛んだから男が消えたのかもしれない。」(p.54-55)

 この男の正体は、二度目に現れたときに明らかになりますが、ここまで読んできたみなさんは、実際に作品を読むまでもなく正体を見破ることができると思います。でも、文学は自分で読んでみて、そして考えてみてナンボのものですから、興味をもったかたは、是非ご自分で手にとってみてください。

まとめ

  • この作品は、①過去の出来事を、②現在を認識するときの過程を再現して(しようとして)、③目の前で起こりつつある出来事のように、書かれている。語り手はどうしてそのような語りの手法をとったのだろうか?
  • 語り手は、外面的な事象ばかりを書き連ねて、肝心要の、そのときの自分の感情や思考といったものをほとんど再現できていない。このことが意味するのは何だろうか? そもそも、なぜ主人公は過去を物語ろうとしたのだろうか?
  • 試みに、自分も主人公のように過去の出来事を(できれば一年間くらいを連続して)回想してみよう。外面的な事象だけでなく、内面的な感情や思考といったものまで再現できるだろうか? 思い出そうとすればするほど忘れていくのだろうか? 目の前で記憶が流れ去っていくのを眺めている気分はどれほどのものだろうか?

 本の帯に、演出家の飴屋法水さんが「過去のことを書いているようで、書かれているのは現在だ」と書いています。また、あらすじには、「思い出すことの痛みと向き合い書かれた」とあります。どちらも言い得て妙だなと思います。それらのテーマが文学的に新鮮かどうかはさておいて、容易には語ることのできないものを語ろうとする悲痛な試みがそこにあることは間違いないでしょう。その「語りの不可能性」といったものから目を背けないというのは、ある意味では記憶というものに誠実といえるかもしれません。追憶の哀しみを知っている人は、身に沁みて味わえる珠玉の一作となるかなと、思います。*2

次回予告

 段々と次回予告をするのが不安になってきましたが、いちおう、次回は2月5日更新予定です。取り上げる作品は、いまのところ岸政彦さんの『ビニール傘』にしようと思っています。今回、『しんせかい』とともに芥川賞にノミネートされて、惜しくも受賞を逃した作品です。それでは、お楽しみに。

ビニール傘

ビニール傘

 

 

*1:そもそも物語とは原則として過去を物語るものだということは周知のことでしょう。過去形で物語られる(「僕は~した。」)ということからもそれは明らかです。とはいえ、多くの物語は、たとえそれが過去の回想であっても、物語るうえではそれを現在のこととして物語っています。たとえば、物語のなかで「次の日」のことを語り手はふつう「明日」と言いますが、過去を回想しているのであれば「明日」というのは妙です。少なくとも、物語っているそのときは、まさに過去が現在になっているのです。

*2:Amazonにもレビューを書きました。興味のあるかたは是非ご覧いただければと思います。この「週刊印象批評」では、まだ読んでいない人のためにかなりぼかして話を展開していますが、Amazonレビューのほうは好き放題に書きましたので、幾分か明確な意見めいたものになっているかと。Amazon CAPTCHA

追憶の海に溺れないために

 人は事実をそのままに記憶することはできない。だから、思い出は人の数だけ存在する。そして、それゆえに思い出は美しい。そう、思い出の美しさ、すばらしさを口を酸っぱくして説くことは簡単だし、実に気分がいい。なぜなら、過去に価値を見出すことができる人間は幸せだからだ。

 しかし、人は過去だけでは生きられない。人はいつだって現在に存在するものだし、また、人生は未来に向かって進む一方通行の道だから。過去とは、振り返ってみることができる、それまで歩んだ道の景色でしかない。

 かといって、現在だけに生きることには、ほとんどの人は耐えられない。人は過去との「つながり」のなかでさまざまなものに意味と価値を見出すのだし、また、人は未来から逆算することで現在を有意義なものにできるからだ。過去、現在、未来、そのすべてが揃うことで、人はもっとも充実した生活を営むことができる。

 しかし、私たちはともすると、辛く悲しい現在の重みに耐え切れず、過去という楽園へと逃げ出してしまいがちである。現在と未来とは私たちにさまざまなことを語りかける。それは常に甘美なことばとは限らない。むしろ、辛辣な、身を切るような痛みをともなうことばのほうが多い。だが、過去は寡黙だ。過去は、私たちがいくら語りかけても、返事をすることはない。過去とは、もはや死んでしまった現在なのだから。そして、私たちはいつだって人の話を聞くことよりも、じぶんの話を聞いてもらうことを望んでいる。だから、ただ押し黙って話を聞いてくれる過去のもとへ救いを求めるのだ。

 だが過去は、過去は決して楽園ではない。それは海だ。海は恵みである。しかし、人は永遠に海で暮らすことはできない。そんなことをしては溺れてしまう。過去も同じだ。過去は恵みであると同時に、私たちを溺れ死にさせてしまう恐ろしい海でもある。あまりに長いあいだ追憶の海に浸かっていては、待つのは死あるのみなのだ。

 追憶の海に溺れないために、なにができるのだろうか。つとめて過去について考えないようにすればいいのだろうか。しかし、そうすると逃げ場のない苦しい人生を歩まざるを得なくなる。あるいは、未来について明るい展望を持てばいいのだろうか。それができればなによりだろう。しかし、未来はいつだってだれにとっても真っ暗闇だ。結論を言えば、追憶の海に溺れないためになにができるか、それは私にはまだわからない。わからないからもがいている。もがきにもがいた末に、どこかに漂着できるのだろうか。

読書感想文:芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』

 とあることがきっかけで、芥川龍之介の晩年の作品群が収められている文庫を手に取った。芥川といえば『羅生門』とか『蜘蛛の糸』とか『杜子春』とかが有名で、後期の作品といえばマニアしか読まないものだ。そんな「つまらない方の」芥川ばかりが収められているのが、新潮文庫の『河童・或阿呆の一生』である。

 個人的な読書記録に書き散らした文章なので、読みづらい上に明快な意味を成していないと思う。だが、なんとなく気が向いたので公開することにした。滞っている「週刊印象批評」の代わりということにしておきたいという魂胆もある。

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

 

  芥川の晩年の作品群は、だいたい作家自身の精神病とそれに続く自殺と関連づけて語られることが多い。実際、この文庫に収められている作品からは、病的に鋭い感性が捉えてしまった死の予感めいたものが、作家の冷たい理知によって克明に記録されている。常人がここに書かれていることから何かを掴み取ることはそう簡単ではないと思う。私自身、それほど興味深く読めたわけではない。しかし、部分的には共感できる部分もあった(共感することが文学の読解において理にかなったことかはさておき)。

 芥川が晩年に理想としていたのは、「『話』らしい話のない小説」だった。この文庫に収録されている作品のうち、『河童』と『玄鶴山房』以外は、たしかに「『話』らしい話のない小説」である。といっても、作家の身辺雑記的なものかと問われれば、必ずしもそうとは言い切れないと思う。『或阿呆の一生』『歯車』で描かれていることは、どちらかといえば「起こったこと」ではなく「起こらなかった(そして、起こるかもしれなかった)」ことだ。主人公の身体感覚は狭苦しい自我を飛び出して、世界の諸物と溶け合うように感応している。当時の彼にとって、世界の中に自分と無関係なものは存在し得なかった。すべての事物が彼の身心の内部に生動する「歯車」に乗せられて回転し、解釈の循環システムを遍歴していく。健全で無意味な事物も、病的な意味を帯びた何かに変貌し、彼の身心を蝕んでいく。そのメカニズムを、作家は明晰すぎるほどの頭脳でもって相対化し、文章として表現することに成功している。

 芥川は志賀直哉を理想としていた。志賀の小説は一般に「心境小説」などと呼ばれ、作家の実体験とそれに対する心理の動きを表象するのが特徴である。それに対して芥川の作品を読み解けば。そこにはいわゆる「心理」的なものはあまり見受けられないことがわかる。思うに、芥川ほどの研ぎ澄まされた理性の持ち主には、常に揺れ動き続ける「心理」を固形化した文章に還元してしまうことができなかったのだろう。心理は事物に対する反応から、反応に対する反応へと次々に”ずれて”いく。だから、芥川の作品には「心理」の描写はない。決して停滞することのない「神経」の動きがそのままに暴露されているだけである。

 あるいは、こういう見方もできるかもしれない。芥川は、あきらかに「生活」に対する興味をもたない人間であった。そういうわけで、身辺の雑事から生まれる「心理」なるものも乏しかったのだろう。それはあまりに高い知性のためであったかもしれない。いずれにせよ、彼は生活から材を取って作品とすることはできなかった。古典の翻案をものにしているうちはそれでも問題がなかったが、そのスタイルではいずれ立ち行かなくなることは当然だった。村上春樹は作家を”経験を基にして作品に仕上げる”タイプと、”自己の奥深くにまで沈潜していくことでモティーフを見つけ出す”タイプに大別した。そして、前者のタイプは材料となる経験がなくなったときに作家としても終わってしまうと考察した。*1芥川の場合、初期は変形的な前者(経験のかわりに、古典を基にした)であったが、村上の考察どおり、行き詰まってしまった。そこで後者に切り替えようとした。だが、それが悲劇だった。自己の奥深くに眠っていたものは、彼にとっては触れてはいけないものだった。あるいは、そこには何もなかったのかもしれない――

 私には芥川の気持がわかるような気がする。創作欲はある。言葉を紡ぐことに対する欲だ。しかし、言葉を紡ぐための素材(マテリアル)がない。だがシニフィエなきシニフィアンというものは存在しないし、あったとしても文字通りナンセンスだ。もしシニフィエなきシニフィアンというものがあったとして、そしてそれがナンセンスに陥らないものだったとしたら、芥川はきっと自殺しなかっただろう。

ことばと思考

 「言語は存在の家である」というのはハイデガーの言葉だ。

 昨今の言語学言語哲学がもたらした知見によって、言語とは人間の思考を表現する道具である以前に、そもそも言語こそが人間の思考を成り立たせているということが明らかとなった。

 これは考えてみれば当たり前のことである。現に、いまからことばを使わずになにかを考えてみてほしい、と僕が言ったとして、それは無理というものである。もちろん、「言葉にならない思い」などという言い回しがあるように、僕たちは時として自らの胸中に渦巻く「何か」を的確に表現する言葉を探そうとしてもがき苦しむことがある。しかし、それはまさに「何か」であって、思考と呼ぶにふさわしいものではない。

 ところで、「我思う、故に我あり」などという黴臭くはあるが金言というべきデカルトの言葉を引っ張り出してくるまでもなく、僕たちは僕たちの思考によって大部分が形作られている。世界に向かって投げ出していく僕たちは、まさに僕たちが思考したところの僕たちであり、僕たちを取り囲んでいる世界は、まさに僕たちが思考したところの世界である、というのは空理空論が過ぎるだろうか。

 「気づいていなかった」ことを、「見えていなかった」と表現するのは比喩である。「聞こえていなかった」とか「嗅いでいなかった」などという言い回しがあってもおかしくはないと思うが、思考の比喩はなぜかだいたい視覚的表現だ。それはともかく、僕たちは、実際に、それまで思考の網に捕えられていなかった事物の存在にふと気がついたとき、「あ、見えていなかった」と言う。やはり、僕たちを取り囲む世界は、僕たちの思考の限界内の世界に過ぎないのである。思考の網の目が粗い人間は、世界に存在する数多くの素晴らしいものを無自覚に取りこぼしているのかもしれない。あるいは、認識したくもないことを認識せずに済むのだとも考えられるだろうが。

 いずれにせよ、ことばとは、僕たちの「家」であり、それは、思考するための道具もであり、かつ世界を認識するための道具でもあるということだ。だとすれば、洗練された言語の遣い手は、その人自身が洗練されており、またその人の認識に現前する世界も洗練されているということになるのだろう。裏を返せば、粗忽な言語しか弄することのできない者は、人間そのものとしても粗忽であり、見ることのできる世界もきっと均質で退屈で、凹凸のないのっぺりしたものだということだ。

 ごくごく少数の人びとは、自らの操ることばに執拗なまでに磨きをかけようとする。より多くの文章を読み、より多くの文章を書き、半ば意識的に、そして半ば神頼み的に文章の、ことばの質を高めていこうとする。それはいつも成功するとは限らない。目の前にうず高く積もっていく屑のような「ことばもどき」たちが、ほかでもない自分によって生み出されたものであるという耐え難い事実に身をよじるような思いをしながら書いていく。

 フランツ・カフカは彼の著述行為を「スクラッチ」と言い表した。さっきの一文字より今度の一文字、今度の一文字より次の一文字と、常軌を逸した近視的な言語観/文章観の持ち主の著述行為は、言うなれば紙を「スクラッチ」すると同時に、著述者自身の身体を「スクラッチ」すること以外のなんでもない。僕たちはカフカには遠く及ばないだろう。彼は自らが育んだことばによってはるかな高みへと引き上げられていった先で、まだ誰も見たことのなかった、ノーマンズランドへと辿り着いた(たとえそれが彼にとって絶望の淵であったとしても)。彼の境地にまで僕らが追いつくことができるかはわからない。たぶん、無理だ。

 それでも、僕らは書き続ける。掻き続ける。書くことで、掻くことで感じる痛みでのみ生の実存に触れることができるからだ。そして、もしこの無駄な努力がいつか神の目に留まって、ノーマンズランドへと連れ導いていってもらえるとするのならば。そんな日を理想にして僕らはいつまでもことばを磨こうとし続けるだろう。

広告を非表示にする

週刊印象批評:第4回「綿矢りさ『私をくいとめて』」

 

私をくいとめて

私をくいとめて

 

 皆さん、あけましておめでとうございます。週刊印象批評第四回です。

 誰が見ているのやらわからないこの「週刊印象批評」ですが、今年も細々とやっていきますので、何卒よろしくお願いします。

 さて、今回は、予告をしていませんでしたが、綿矢りささんの新刊である『私をくいとめて』を取り上げます。綿矢りささんといえば、『蹴りたい背中 (河出文庫)』で第130回芥川賞を当時19歳の最年少で受賞したのも、もう13年前。なかなか容姿端麗なこともあってチヤホヤされて、毀誉褒貶ありましたが、綿矢さんも2014年に結婚なさって、今では一児の母となったそうです。

 そういうわけで(どういうわけだろう)、『私をくいとめて』を少し詳しくみていきましょう。

  目次

あらすじ

「私の人生って、つまんない?」

「正直に答えてよ、A」。

黒田みつ子、もうすぐ33歳。

男性にも家庭にも縁遠く、一人で生きていくことに、なんの抵抗もないと思っている。

ただ時々、「正解」が見えなくて、迷ってしまうことも・・・。

そんな時は、もう一人の自分「A」に脳内で相談をしている。

私やっぱり、あの人のこと好きなのかな。

でも、いつもと違う行動をして、何かが決定的に変わってしまうのがこわいんだ――。

感情が揺れ動かないように、周りとうまく調和するように。

「おひとりさま」を満喫しようと、繊細に気を配るみつ子。

同世代の女性の気持ちを描き続けてきた著者による真骨頂。著者初の新聞連載小説。

ドライブ感のある文章

「さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでる見たいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。」『蹴りたい背中』(p.03:単行本)

  こういう言い方はあるいは失礼なのかもしれませんが、綿矢りささんは、正真正銘の天才肌の人だと思います。もちろん、何作も何作も書いてはボツにして、同じ作品の中でも書いては削ってと、作家なら誰でもやっているであろうことを綿矢さんもやっているのでしょうけれど、それを感じさせない。天性だけを武器にグイグイ文章を推し進めていくような、読者も一緒に引きづられていくような、そういうドライブ感のある文章が綿矢さんの文体的特徴だと思います。

 上に引用したのは『蹴りたい背中』の冒頭からの抜粋ですが、葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス」とか、「あなたたちは微生物を見てはしゃいでる見たいですけど(苦笑)」などの、一般的な書き言葉の文法からは外れるような文が、綿矢さんの作品には頻出します。まさに、この「スタンス」に乗っかっていけるかどうかが、綿矢さんの作品を楽しめるかどうかの分かれ目ではないでしょうか。

 とはいっても、「さびしさは鳴る」といった共感覚的表現や、「細長く、細長く」といったリズミカルな表現、「ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く」といった語り手の息遣いまで聞こえてきそうな生々しそうな文は、書こうと思って書けるものではないというか、「まとも」な作家だと書くのを躊躇してしまう(作家でなくとも、よく文章を書く人ならこういう書き言葉的な文を書くことにためらいがあると思いますが)ような文を、平気で書き連ねていくようなある種の怖いもの知らずさが、綿矢さんにはあるのだと思います。

斬新な比喩表現

「なのに会社の男性たちは新しく入荷される、ナムコナンジャタウンのスイーツフェアに並びそうな”ひんやり夏ジュレフルーツパフェ”や”ベリーベリーぷるるんゼリー”またはイオンのフードコートに入ってる店のメニューにありそうな”鉄板じゅうじゅう焼き肉”や”目玉焼きのせデミグラスソースハンバーグ”みたいな女の子たちばかりに魅(ひ)かれ、しょっちゅう彼女たちの噂をしている。」(p.33)

「片桐さん、ノゾミさんがカーターと呼ぶ彼は、ジャニーズ系の幼く甘い顔立ちというよりは、端正な掘りの深いギリシャ彫刻のようで、昔風の美男子というか、濃く凛々しい眉毛に青みがかった白目、大きく黒い意志的な瞳、しっかりした鼻梁、厚くないが肉感的な唇で、三島由紀夫が克明に描写したがりそうな外見をしている。」(p.34)

  綿矢さんの個性的な文体については既に見た通りですが、上に引用したような、伝わるんだか伝わらないんだかよくわからないけど、何となく伝わってくるような気がする、斬新な比喩表現(比喩表現というのはそもそも斬新なものだという気もしますが)もまた、そこかしこに散りばめられていて、興味深いです。

 比喩表現というのは、描写するものが読者の目の前に浮かんでくるかのように見せるためにするものなので、分かる人にしか分からないような比喩をするのは悪手かもしれません。けれど、三島由紀夫が克明に描写したがりそうな外見」といわれれば、それが分かる人には、ただその外見を想像しやすいだけではなく、思わず笑ってしまいそうです。このような比喩表現の巧みさを味わいながら読むと良いかもしれませんね。

会話の力学

 「でも男の人は暗くなりそうな話題になると、とにかく明るい景気の良い話題をしぼり出してきて雰囲気変えて忘れちゃうってことがある。男女カップルだと、『私が悩みを話してるのに、すぐ話題変えて全然真剣に考えてくれてない』って女の子のほうが怒り出しちゃうが、男同士だと案外スムーズに成り立つ。」(p.50)

 「かすかにプッチの声に元気とハリがなくなったのを、隣の席でモンブランを食べている他人の私は聞き逃さなかった。相手が後出ししてきたハイスコアのカードにより、いままで散々自分に男っ気がないと白状してきた彼女がみっともない立場に追い込まれていて、ちょっと同情する。同じ立場だと思っていた女友達が、実は自分より二歩も三歩もリードしたところにいると知ると、嫉妬とまではいかなくても、複雑な気分になる。」(p.100-101)

  綿矢さんの小説は、会話の描写が鋭くて、読んでいてヒリヒリしてくることがあります。上に引用したのは、焼肉店と喫茶店で「おひとりさま」を満喫している主人公が、近くの二人組の会話を盗み聞きしているところですが、会話から見いだせる性差とか、会話に働いている上下関係の力学みたいなものに対する洞察が見事ですね。一人でいると、ついつい他のグループの会話に耳を傾けてしまうものですが、この小説の主人公は一人でいることが多いので、必然的に他のグループの会話の描写が多くなります。それらにニヤニヤするもよし、ヒヤヒヤするもよし、だと思います。

孤独の表現

「『あなたはどうしてそんなに面倒見が良いの? 私に呆れないの? いつか見放したくなるんじゃない?』

『呆れませんよ。あなたのその制御しきれないパワーが、強みになっている部分もありますから。見放せませにょ。だってあなたは私ですから。見放したくても見放せません。いつでも一心同体です。』」(p.32)

  この小説の主人公は、もうすぐ33歳になるけれども、「男性にも家庭にも縁遠く、一人で生きていくことに、なんの抵抗もないと思っている」という人物。通常、こういう孤独な人物を描くのであれば、徹底的に一人で自分の心の奥底に沈潜していくような、モノローグが中心の小説になると思うのですが、この小説は、頭の中のもう一人の「私」との対話を中心に進んでいきます。

 孤独をテーマにした作品なんだけれども、モノローグ中心の作品のように鬱屈とした雰囲気が漂わない。主人公と、頭の中のもう一人の「私」とのコミカルな対話によって、読みやすい作品に仕上がっていると思います。この二人の軽妙な対話を楽しみながら読むと良いかもしれません。

まとめ

  • 綿矢りささんの天性が遺憾なく発揮されている、ドライブ感のある文体に引きづられるままに、どんどん読み進めていこう。
  • 分かる人には分かる、でも、分からなくてもなんとなく分かるような気がする、そんな斬新な比喩表現を味わって読もう。
  • 読んでいてこちらがヒリヒリしてしまうような会話を、現実世界で他のグループの会話を盗み聞きするように、綿矢さんの鋭い洞察によって白日のもとに晒された会話の力学を感じ取ろう。
  • 孤独をテーマにした作品なのに、重苦しい雰囲気は漂わずに、軽妙でコミカルな作品に仕上がっている。主人公と同じように孤独を感じている人は、自らの問題に直撃しすぎない程度に孤独をテーマにしたこの作品を読んでみると良いかもしれない。

 僕は、綿矢りささんの『蹴りたい背中』を読んで、なんだか良く分からないけど気持ち悪いものが、天性の言語感覚でスパンスパンと表現されていく小気味よさに気に入ったので、どちらかといえば共感しやすいこの『私をくいとめて』は、あまりヒットしませんでした。しかし、気味が悪い文学はちょっと……という人には、かえって読みやすくて良いかもしれません。

次回予告

 次回の週刊印象批評は、1月15日更新予定です。宮本輝さんの『草花たちの静かな誓い』を取り上げたい気もしますが、割りと長い作品なので、読了して書評まで書ききれる自信がないので、あくまで未定ということで。それでは。

草花たちの静かな誓い

草花たちの静かな誓い

 

 

何かと武装をしたがる人

 

先日、ツイッターで回ってきた言葉で、読書をしたり映画を観たりする人間は全体の2~3%しかおらず、俺たちは異端児なんだぜみたいな、ことが載っていたのだが、なんだか自分を特別視して勘違いしてる人々はいるのだな、と感じた。そんな感じになってしまってはなんだかダメだ。

読書で心を強化して生きましょう。 - 思考拡張日記。

  上述したのは、僕が愛読している数少ないブログからの引用だ。とてもバランスのとれた意見で、個人的にもずっと思うところがあったことについてなので引用させていただいた。本来、孫引きというのは厳禁で、一次ソースを辿って正確な引用をしなければならないが、ツイッターでの発言など探す手間が面倒なのでご容赦を。

 さて、そもそも、「読書をしたり映画を観たりする人間が全体の2~3%しか」いない、というのがいかにも嘘くさい話ではあるが、それはさておき、問題は 「俺たちは異端児なんだぜみたいな、こと」だろう。実際、こういう発想の人はそう珍しくないように思われる。

 先日、佐藤優さんと池上彰さんの『僕らが毎日やっている最強の読み方;新聞・雑誌・ネット・書籍から「知識と教養」を身につける70の極意』という本を立ち読みしたのだが、そこには、「古典的名作は、「読んでいないあなたが悪い」と言えるから強い」というようなことが書いてあった。もちろん、この本はビジネス書であり、「読んでいないあなたが悪い」という発言も、ビジネスシーンを念頭に置いてのことだろう。その場合は佐藤さんの言うとおりなのかもしれない。しかし、日常生活においても、同様の発想の持ち主と出会うことがままある。

 僕は、海外の名作と呼ばれる古典文学は割に読んできたのだが、日本のそれは日本人のくせにほとんど触れてこなかった。そのことについて攻撃されることが少なくない。もちろん、「読んでいない私が悪い」のも確かだ。だが、僕は、僕が読んだことのある「古典的名作」を相手が読んでいなくても、読むことを勧めるこそあれ、自らの経験を武器に相手を攻撃しようとは思わない。そういう発想は、なんとなく物騒だから好かない。

 似たような発想はネット上で特に目立つ。現実世界では、この手の発想は往々にして「教養主義」だの「知性主義」だの、聞くだけでもウンザリするような主義主張と結託して、「無教養」で「反知性」な僕たちに襲い掛かってくるのだが、ネット上では、なぜだかサブカル系にこのような発想の人が多い。マンガやアニメといった、現実世界ではむしろ教養から程遠いとして蔑まれているようなものの愛好家たちの一部は、自らが「教養主義」「知性主義」の被害者であるのに、ネット上では有名なマンガやアニメを読んだ・見たことのない人びとを勇ましく批判する。これはほんとうに不思議な現象だと思う。問題の発想は、「教養主義」や「知性主義」に固有のものではなく、もっと普遍的に、人間そのものに根ざすものだということだろうか。

 あえて言えるとすれば、「知的武装主義」といったところか。もともと、個人的に(あるいは仲間内であれ)、人生を楽しく豊かなものにするために興じるはずの「趣味」が、どうしたことか他人を攻撃するための武器と化してしまっている状態だ。そういう状態に陥っている人を見ると、そもそも、他人を攻撃するため、あるいは他人からバカにされないために何かをやっているだけに過ぎないのではないかと思えてくる。

 一人の人間が自由に使える時間なんて限られているのだから、この世のすべてのものを読んだり、見たり、したりすることはできない。「知的武装主義」に囚われている限り、一生自分の「弱点」を補強し尽くすことができず、有形無形の敵とジリジリ続く戦いを繰り広げて疲弊するだけではないのか。だいたい、「本を読んだり映画を観たりしない」97~8%の人びとのなかには、「しない」のではなく「できない」人びとも必ずいるだろう。そういった存在に目を向けず、「できる」ことが前提となってはじめて「している」ことに気づかず、「しない」人を一括りにして攻撃して不戦勝に酔いしれるような「勝負」は、あまりに不健全と言うべきだと思う。

 読書をしようがしまいが、映画を見ようが見まいが、誰もが争うことなく過ごせるような世界を望めるような想像力の持ち主こそ、真の「教養主義」者であり、「知性主義」者というものだろう。自分の気に入らない人間に対して、「反知性主義者」のレッテルを貼り付け、その実、ガキみたいに「バーーーカ!」と言っているだけのような輩は、断じて「知性主義」者などではないのである。