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雑想日記

内容の信頼性はこれを保証しない

生きててよかった

 タイトルから感動的な文章を想像した方、申し訳ない。今回もいつもの感じである。

 

 長らく持ちつづけてきた考えなのだが、「生きててよかった」と「生まれてきてよかった」という言葉は、一見すると似ているがそこに秘められた意味はまったく違う。

 

 人が「生きててよかった」と言うときには、自分がこの世へ誕生したということを大前提として受け容れている。つまり、生まれてきたこと自体の是非は問題になっておらず、過去のある時点にくらべて現在がより良いと思えるかどうかが問題なのだ。過去の苦しかったときに、あるいはいっそ死んでしまえばとさえ思っていたが、事態が好転してきて「あのとき死ななくてよかった」と。そういう意味もこめてこの言葉は使われる。すなわち「生きててよかった」というのは、相対的な言葉だといえる。

 

 それに比べて、「生まれてきてよかった」という言葉はきわめて絶対的な言葉だ。なぜなら、この言葉は自分がこの世へ誕生したということそれ自体を議論のテーブルに上げているからだ。人生というのは、(ごく単純にいえば)歓びと苦しみのふたつの要素によって構成されていて、そして人はみな当然苦しみよりも歓びの多い人生を望んでいる。だがそういう人生は極めて稀で、現実は苦しみのほうが多いのが常だ。数少ない歓びと、数えきれない苦しみ。それらを鑑みてもなお、「生まれきてよかった」と自信をもって言える人がどれだけいるだろうか。「今は楽しい。けれどやっぱりあんな苦しみを味わうくらいなら生まれてきたくはなかった」としか言えない人もたくさんいるのではないか。生まれてこなければ、たしかに歓びはない。だが苦しみも一切ないのだ。もし、自信をもって「生まれてきてよかった」と、そう言える人がいれば、それはとても幸せなことだと思う。

 

 私は、この1年ほどのあいだで、たくさんの歓びを味わった。幸せであったといってもよい。「生きててよかった」とは何度も思ったし、口にも出した。しかし、それでもなお「生まれてきてよかった」と言うことには強い抵抗を感じるし、思うこともない。それは私が、自分がこの世へ誕生したということを受け容れられていないからだ。ひどく哀れな奴だということは自覚しているし、いっしょに楽しく過ごした仲間たちに失礼だとも思う。だが、こればかりは、どうしようもない。

 

 自分がこの世へ誕生したということを受け容れられるかどうかは、私の人生における重要な命題のひとつであり、今後も絶えず問い続けていきたいと思う。しかし、それが解決するのは、まだまだずっと先のことだろう。

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