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雑想日記

内容の信頼性はこれを保証しない

映画のはなし

先日、はてなブログからメールがきた。過去一ヶ月間ブログを更新していない、さっさと次の記事を書け、とのことだった。最初はこう思った。うるさいな、そもそも最初は続ける気なんてなかったんだよ、このブログ、と。とはいえ、継続は力なりと人は言う。こんな、書きたいことをたいして推敲もせずに書きなぐっているブログでも? それはわからない。しかし、書くことなくなったんだな、と思われるのもなんだかシャクだ。もうちょっとだけ続けてみてもよかろう。

 

というわけで今回は映画のはなしでもしようかなと思う。

世の中にはいろんな媒体(メディア)があって、どれをより好むかは人それぞれだ。ある人は文学が、またある人は映画が好きだ、というふうに。私自身は、文学をもっとも好む。理由はいろいろあるが、あらゆる媒体のなかでもっとも受け手側の自由が許されていることがいちばん大きい。つまり、文学は(おおむね)読みたいように読めばいい、ということだ。それに対して、映画やドラマといった映像媒体、および漫画という準映像媒体では、受け手側にはあまり自由はない。登場人物の風貌は、演じている俳優によって限定されるし、風景も撮影されたようにしか見ることはできない。それがなんだか押し付けがましいと感じてしまう。

しかし、受け手側に自由を与えてしまう文学には、ある欠点が存在する。それは、力(パワー)が弱いことだ。文学において表象されているものは、読者の頭のなかで再現されるわけだが、その再現度は読者のそれまでの経験や知識によるところが大きい。それをできるだけうまく再現させてやることが作家の務めだろうが、とはいえ限界はある。その点、映画には力がある。受け手側に想像の余地を与えないことで、有無をいわさず影響を与えることができるというわけだ。最近の映画が、どれもこれもCG技術をこれでもかと使うのは、そういうところに原因があるように思われる。映像の迫力というのは、映画においては単なる見かけ倒しではなく、重要なことなのである。

だから、私は映画の感想として、よく「この映画には力(パワー)がある」と言う。これは、なんだかアホくさいことばだけれども、私としては最大級の賛辞なのだ。

個人的な見解として、力という観点で序列をつければ、映画>ドラマ>アニメ>漫画>文学となると思っている。もちろん、優れた文学には、読者に有無をいわせない力があるけれども、それとて映画の力にはおよばないと思う。映画は、映像、ことば(セリフ)、音楽(BGM)をフルに活用した、まさに力(パワー)の芸術だ。もちろん、力とは無縁な、繊細な傑作映画もあると思われる方もいるだろう。それは間違いない。しかし、私としては、映画はある程度、力で押してほしいと考えている。

そんな私が今年みた映画のなかで特に気に入ったのは、『マッド・マックス 怒りのデスロード』と、『インターステラー』のふたつだ。このふたつは、まさに力(パワー)に満ちみちた映画だ。しかし、テーマは至極単純で、生存することであったり、夢や愛であったりする。単純なテーマと、力のある映像・物語、このふたつの要素を兼ねそなえた映画は、文句なく傑作と呼んでいいと、私は思う。

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