読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

文脈と関係性(あるいは:私が旅行を楽しめない理由)

 まずはじめに、私は、旅行があまり好きではない。そして、そのことについてずっと考えてきた。なぜ、旅行を楽しむことができないのだろうか? と。世間一般では、旅行とは人生の大きな楽しみのひとつだとされている。綺麗な景色をみて、美味しい料理を食べ、現地の人々と交流し、そうして束の間の非日常を味わう。旅行の楽しみとは、おおかたそんなところなのだろうと思う。

 しかし、私はそれよりも、馴染みの景色、馴染みの料理、馴染みの人々のほうを好む。単に保守的だからだろうか。それとも、逃避したくなるほど悲惨な現実を味わっていないからだろうか。それも真実かもしれない。だが、旅行を趣味とする人々は、みな悲惨な現実を生きているのだろうか。いや、どうみても幸福そうな家庭だって、むしろ、そういう家庭のほうがよく旅行へ行くのではないか。

 私は、そうして長いあいだ考えてきたことについて、いちおうの答えを出すことができた。それは、すべての意味と価値は文脈と関係性のなかから生ずるからである。

 知らない街の、知らない景色や知らない人々、それらはみなすべて「他者」であり、私とは無関係か、あるいはほんの短いあいだの関係しかない。また、それらは私の人生と生活という文脈のなかでなんらの位置も占めていない。たまたま、そのときにそこへ闖入しただけにすぎないのだ。

 たとえば、ことばのことを考えてみてほしい。朝、学校へ行って、その日の夕方に帰ってきて「ただいま」と言う。これはほんの軽いあいさつで、それはそれで重要なのだが、さして深く重い意味はない。だが、長い年月離れ離れになっていた大切な人が帰ってきて言う「ただいま」には、ことばの字面以上の深く重い意味が生まれる。これは、「ただいま」を言う人と言われる人の、文脈と関係性のなかで生じた意味である。

 同じように、ひとつの景色であっても、文脈と関係性によって生まれる意味や価値は異なる。たとえば、自分が尊敬する人物の生家を訪ねてその家の窓から景色をみれば、尊敬する人物という仲介者を通して、その景色と自分との間に文脈と関係性が構築され、意味と価値が生まれる。その自分が尊敬している人のことをなにひとつ知らない人間にとっては、ただの窓外の景色でしかなく、なんの感慨もなかろう。

 私たち人間は、過去、現在、未来を連綿としたひとつの大きな流れとして捉え、そこから意味と価値をみずから生み出していく存在である。だから、私は、自分が詳しく知らない、「他者」としての景色には、なんら感動を覚えることができない。そして、これこそ、私が旅行を楽しめない理由なのだと考えている。*1

*1:なお、文脈と関係性が構築される条件としては、上記したようなもの以外にも、たとえば旅行先の土地の歴史を知るなどが考えられる。また、会いたい人や手に入れたいものがある土地もまた、その人にとっては意味と価値のあるものになるだろう。