雑感など

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したいけど、したくないこと

ゲーテの格言にこんなものがある。

「生活はすべてつぎの二つのことから成り立っている。したいけれど、できない。できるけれど、したくない。」―『ゲーテ格言集』高橋健二編訳(新潮文庫

ちなみに、潮出版社から刊行されている『ゲーテ全集』では次のように訳されている。

「人の全生涯は、求めて達成せず、達成して求めず、の二つから成り立つ。」―『ゲーテ全集 第13巻』

なんとなく意味が違っているような気もするが、まあおおむね高橋訳の解釈でまちがいないのだろう。実際、かなり鋭く真理をあらわした格言だ。「あれがしたい!」と思っても、たいていうるさ型のオトナたちに一蹴されてしまうし、オトナたちから「これをしなさい!」と言われることは、できるにしても面倒だったり骨が折れるのでしたくないことばかりだ。

 

ところで、私はこのゲーテの格言に、畏れ多くももう一つの要素をつけ加えたいと思うのである。それは、「したいけど、したくない」ことである。

 

またおかしなことを言っているなあ、こいつは。と思われただろうか。しかし、私たちの生活においては(少なくとも私の生活においては)、意外とこの「したいけど、したくない」ことが多いのではないだろうか。

 

たとえば、私には読みたい本がたくさんある。そして、それを買うお金もあるし、読む時間もある。別にうるさ型のオトナたちに「本を読んではいけませーん!」と禁じられているわけでもないし、むしろ「もっと本を読みたまえ」と奨励されてさえいる。これはすばらしいことではないか。じぶんの内面的な欲求と、社会的な要請とが一致しているのだから。

ところが、いざ読みたい本を買ってきてひもとくと、なんだか気持ちが入らないことがことのほか多い。読みたい、読みたいのだが、なんか面倒だな、という気持ちになってしまう。これは別に読書に限ったはなしではなくて、いろんな趣味に共通することだと思う。

「んー、面倒だなあ」「じゃあ、しなきゃいいじゃん」「いや、したいんだけどさ」というようなやりとりは、そう珍しくもないはずだ。これが、私の言う「したいけど、したくない」ことに直面したときの典型的な反応だ。

 

そして、私が思うに、私たちはこの「したいけど、したくない」ことに直面したときにいちばん精神的に損傷するのである。一般論としては、それよりも「したいけど、できない」ことに直面したときに、私たちは反発する。いらいら、むしゃくしゃする。けれども、その反発の対象は外部にある。内と外との対立は、実は気楽なものだ。お咎めがこない程度に外を貶したおしてしまえば気が済むことのほうが多い。「なんだ、あのヤロー、俺に指図しやがって。バーカバーカ」と愚痴ってしまえばいいのだ。

ところが、「したいけど、したくない」ことに直面した状態は、いわば内と内との対立だ。内面的な欲求を満たしたいはずなのに、それを拒み妨げる自分。こうした自己の内部での矛盾は精神的な疲弊を招く。「あれ、俺はほんとうに『それ』がしたいんだろうか?」という自己懐疑に陥って、悪循環が続けば内面的な欲求すべてを抑圧してしまいかねない。だから、「したいけど、したくない」ことに直面した状態をずっと続けていると、精神衛生上よくないのである。

 

解決法は至極かんたん。「すればいい」のである。欲求を満たすことを面倒がらない、さらにいえば恐れない、ということだ。とはいえ、それがいちばん難しかったりするわけだが……。