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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

価値観を持つという役割

私はいつも、なんだかひとかどの哲学があるかのようにもったいつけてブログを書いたりしているが、実のところ、悩まなくてもいいようなことについて延々悩み続けているただのくだらない人間だ。たとえそうやって考えたことのなかに微かな光を放つものがあったとしても、決して実践せずにそのままくずかごに放り込んでおしまいにしているのだと思う。だから、私がいろいろと思索にふけっていても結局それは自己満足であって、さらにいえば自己憐憫の域をでていないのである。

 

ところが、世の中にはちょっと世間から外れた考え方をして、それだけでなくその考え方を人生において実践している人たちがいる。そういう人たちのことを、ふつうは世捨て人とか負け組とか底辺とか言うのだろうけど、私にとってはヒーローとでも言うべき人たちだ。

個人名は挙げないけれども、有名大学を出たにもかかわらず定職につかないで、わずかな収入で生活している方とか、都会での生活を捨て去って山奥で自給自足を取り入れつつ生活している方とか、そういう人たちの存在はネットのおかげで昔よりも目立つようになった(1980年代にも「ミニ独立国ブーム」というのがあったらしい)。

そういった人たちには決まって、「老後はどうする」「将来困っても助けを求めるなよ」「社会から逃げるな」というような批判が集中する。もちろんそれは立派な、正論なのだろう。

 

私は、そのような世間から外れた考え方で生活をしている人たちは、必ずしも逃げているとは言えないと思う。なぜなら、私だって社会からは逃げたいけれども、それを実践に移す勇気はこれっぽっちもないので逃げられずにいるからだ。もし世間から外れた考え方で生活することが安易な「逃げ」であるのならば、もっと容易く「逃げ」られるはずだ。しかし、そうやって「逃げ」ることができる人がいったいどれほどいるだろうか。

 

世間から外れた考え方で生活しているそれらの人たちは、「価値観を持つ」という役割を担って立派に生きているのではないかと、私は考えている。つまり、現在の社会的な常識からは外れた「新しい価値観」を、その人生のなかで実践し検討し反省しているのではないだろうか、と。もちろん、当の本人たちは、そんなたいそうなことじゃないと思われるだろうが、私には上のように思えるのだ。

なぜなら、もしかしたらそれらの「新しい価値観」のほうが正しいかもしれないからだ。「価値観」だって結局は生まれては滅びを繰り返すもので、このことを否定するのであれば人類に進歩は一切認められないことになる。

いま、私や他の多くの人々が、きっと心のなかでは「新しい価値観」を育んで生きているのではないだろうか。その「新しい価値観」が本当に次の世代の「正しい価値観」足りうるかどうかを、ギリギリのところで実践している人たちがいる。その事実だけでも、少し心が休まるのは私だけではないはずだ。