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雑想日記

内容の信頼性はこれを保証しない

読書について考えよう

 私は、比較的読書が好きだ。この「比較的」というのは、この場合とても重要な単語である。というのも、うっかり「私は根っからの読書好きです」などと言おうものなら、ホンモノの読書家諸氏からたちまちお叱りを受ける恐れがあるからだ。「月に何冊読むの? へー10冊か、まだまだ甘いよ(嘲笑)」というふうに。

 しかし、考えてみればこれは奇妙である。私たちは、何かを好きになるためには、その対象について熟知していなければならないのだろうか? この質問には、おそらく半分くらいの人はNOと言うのではないかと思う。事実、たいして知りもしないものを、即座に好きだ嫌いだと弁別していくことなど日常茶飯事、というか、ほとんど行きていく上での必須技術でもある。

 ところが、読書の場合、事情は異なるらしい。なぜだろうか。

 答えは、「読書」という行為について、あるいは「書物」や「教養」といったものについて多くの人々が共有している、ある種の「神話」があるからである。

 この問題について考えるヒントとなる、非常に興味深い書物がついに文庫化された。

 

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

  『読んでいない本について堂々と語る方法』なんて、なんといかがわしいタイトルであろうか。だが、内容は徹頭徹尾まじめそのものである。

 かいつまんで説明しよう。私たちは日々の会話において、ある本を「読んだ」とか「読んでいない」などと平気で口にする。しかし、そもそもある本を「読んだ」ことと「読んでいない」こととの基準とはいったいなんだろうか? という問いを、著者ピエール・バイヤールは私たちに投げかける。そして、「読んでいない本について語る」様々なシチュエーションを具体的に考察することで、「本を読む」とはどういう行為なのかもまた明らかにしていくのである。どうだろう、タイトルのキャッチーさに比べて、内容はまったく実践的に役に立ちそうもないと感じたのではないだろうか。

 私は、この本をまだ「完全に」「読んだ」わけではないので、詳細な解説は控えるが、上述したような問題についての著者の出した解の概略はこうである。私たちには、ある本を「完全に読む」ことも、「完全に読まないでいる」ことも難しい。なぜなら、読者はじぶんの読めるように、あるいは読みたいようにしか読めないのだし(テクストから唯一絶対の「意味」を導き出せるという考えは、人類が数十年前に捨て去った幻想ではなかったか)、そうやって読んだ書物にしたところで、読んでいるそばから刻々と忘却していっている。また、実際に物体としての書物を手にとって読んだことがない本でも、新聞や雑誌、ネットで書評をみたり、教科書に載っているのをちらりと目にしたり、あるいは人がそれについて語っているのを聞いたりすることは頻繁にある。そうでなくても、私たちはタイトルや著者からだって、思っている以上に多くの情報を知る(想像する)ことができるのである。

 これらのことからもわかるように、「読んだ」本と「読んでいない」本とのあいだには、無数の中間的段階が存在するのだ、というのが著者の主要な論理である。

 ところが、学校という制度が、私たちに「読書」に対する幻想を植え付けてしまっている。すなわち、「書物」は、努力次第でそのなかから唯一絶対の真理を発掘することができる、という幻想である。裏を返せば、書物とは、読まなければ語れないものだということである。だからこそ、私たちは、ある本を「読んでいない」ことを恥じ入り、罪悪感を覚えてしまうのだ。

 読書家を自称する際に、「比較的」という言い訳めいた単語をつけたくなってしまうのも、結局はその幻想に縛られていることが原因だろう。じぶんはまだまだ「読んでいない」本が多いから、本について「語る」ことは無理だ、と萎縮してしまうのである。もし、そういう思いを抱えている人がいるのならば、ぜひこの『読んでいない本について堂々と語る方法』を「読んで」ほしい。書物に対するそういった幻想が、いかにインチキなものであるかがよくわかるだろう。そして、もっと自由に、軽やかに、「読書」と付き合っていくことができるようになるはずだ。

 

 とはいえ、結局のところ、読書は私たちに何をもたらしてくれるのだろうか。換言すれば、私たちは、なんのために読書をするのだろうか。

 個人的には、読書をすることでなにがしかの教養が身につけられるなどとは、ほとんど信じていない。なぜなら、上述のように、私たちは書物の内容を捏造し、しかも一分一秒ごとに忘却していくからだ。

 では、私は書物からなにを得ているか。

 それは、「『わからない』ことに対する慣れ」である。

 白状すれば、私は読書をしているとき、半分以上は「サッパリわからん」と思いながら読んでいる。そう、読書に「わからない」ことはつきものなのだ。それでも、何かに取り憑かれたように――答えを求めるように――次から次へと書物を手に取り、読んで、そしてわからず、そして忘れていく。読書とは、そのようにして、「わからなさ」と向き合っていく営みだと私は思っている。もしかすると、いずれ「わかる」ときがくるかもしれないし、永遠に「わからない」かもしれない。いずれにしても、人生もまた「わからない」ことだらけなのだから、早いうちから「わからなさ」と仲良くなっておくことは、決して無駄ではないはずだ。