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雑想日記

内容の信頼性はこれを保証しない

僕はフィクションが嫌いだった

 中学生くらいまでの自分を振り返ってみると、いくつか言えることはあるのだが、最近ふと思い出したのは、フィクションを嫌っていたということだ。

 どういうことかというと、書物にせよ映画にせよマンガにせよ(マンガはあまり読まなかったが)、ノン・フィクション作品は読んだり見たりしていたが、フィクション作品にはまったく興味がなかったのである。ゲームも、ストーリー性が強いものはあまり遊んでいなかったような気がする。

 そんなふうに好き嫌いしていると、楽しめる作品が激減するのは至極当然なことで、端的に言ってしまえば、僕はある時期までは書物だの映画だのマンガだのにろくに触れてこなかったともいえるだろう。なんてつまらない子供時代なのかと思われる向きもあるかもしれない。実際、我ながらそう思う。

 

 人並みの知識欲はあったので、ノン・フィクション作品は嫌いではなかった。そこでは、自分が今まさに生きている世界の、いつかどこかで起きた(起きている)ことが描かれているわけだから、それをそのまま知識として脳にインプットすればそれでよかった。映画なら戦争映画を好んで見ていた。そのほとんどがノン・フィクション作品だったからだ。書物とマンガはノン・フィクション作品を含めてもほとんど読まなかった。 

 フィクション作品が嫌いだった理由は、いま思えば実にばかばかしいが、ずばり、それがフィクションであるからだった。すなわち、虚構。少し詳しく言うと、フィクション作品に対してどのような姿勢(態度・意識)で関わればよいのかがわからなかったのだ。ふつうであれば、登場人物たちの心情に共感するとか、作者が伝えたかったこと(メッセージ)を人生訓として摂取するとか、そういったところに落ち着くのだろう。だが、僕はそういったことを意識的にせよ無意識的にせよ、拒絶した。虚構を相手にして真剣になることが恥ずかしかったのかもしれない。あるいは、単に共感能力が致命的に欠如していただけかもしれない。たぶん両方だ。

 

 ところが、いまでは文学などといういかがわしいものにどっぷりはまりこんで、ほとんど唯一の趣味にまでなっている。

 なぜそうなったかといえば、フィクション作品にコミットするための自分に合ったやり方を知ったからだ。

 前述の通り、僕は感情移入が苦手だ。それから、道徳的な、教訓めいたことにも虫酸が走る(両者は不可分に結びついていると思う)。しかし、周りはみんなそういう読み方をしていたし、学校でもそれが奨励されていたから、ああ俺は文学に向いていないのだ、と決めてかかっていた。だが、そのような読み方は、数ある読書の方法論のたったひとつに過ぎないものだった。

 文学作品と向き合うためにどのような方法があるのか、そして、なぜ「読み方」にバリエーションが存在するのか、といったことは長くなるし、うまく説明できそうにないから割愛する。

 

 今でも、僕は文学を読むとき、めったに感情移入することはない。むしろ、反発したくなるような人物ばかりが出てくる作品を好む。そのような作品において、僕は、真の「他者」と出会う。その「他者」は、現実世界のそれと違って決して妥協しようとしない。馴れ合おうとしない。それらの人物は僕に対して何の利害関係もないのだから。僕らの間には熾烈を極める闘争が繰り広げられる。決して分かり合おうとしない他者同士の闘争。

 そうした闘争の中で、僕はまた、真の「自己」とも出会う。容易に分かり合うことのできる、偽りの「他者」によって照らし出される「自己」は、所詮は自らの理想に基づいて拵えられた塑像にすぎない。分かり合えない、分かり合おうとしない「他者」によって、僕の「自己」の中に存在する「他者」が新たなる生命を吹き込まれ僕の前に立ちはだかる。そうした、「他者」によって抉り出された「自己の中の他者」との葛藤を通して、僕らははじめて真の「自己」のおぼろげな輪郭をつかむことができる。

 「自己」と「他者」との対立関係が脱構築され、無数の身体をもつ異様な怪物が跋扈するカオス空間へとダイブしていく営みとして、文学作品へコミットしていきたいと、僕は思う。