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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

週刊印象批評:第2回「森見登美彦『夜行』」

 

夜行

夜行

 

  皆さんこんにちは。週刊印象批評第二回です。

 今回は、予告通り森見登美彦さんの『夜行』を取り上げて批評していきます。

 まず、読後感としては、非常に面白かったというのが素直な感想です。中盤まではなんだかよくわからないまま、話も進んでいるのか進んでいないのか微妙な感じなのですが、終盤になって段々と物語が急激に拡散しながら、かつ収斂していく。そういう作品は僕の好物なので、とても楽しめました(しかし、後述しますが、この作品の真価を理解したのは読み終わってからです)。

 僕にとって森見さんといえば『四畳半神話大系』や『有頂天家族』の作家さんなので、ホラーテイストの本作『夜行』には新鮮さを感じました。といっても、森見さんにはホラーテイストの作品もいくつかあるそうですが(『宵山万華鏡』や『きつねのはなし』)。

 それでは、これから実際に、僕の読みを少し詳しく書いていきます。

  目次

あらすじ

僕らは誰も彼女のことを忘れられなかった。

私たち六人は、京都で学生時代を過ごした仲間だった。

十年前、鞍馬の火祭りを訪れた私たちの前から、長谷川さんは突然姿を消した。

十年ぶりに鞍馬に集まったのは、おそらく皆、もう一度彼女に会いたかったからだ。

夜が更けるなか、それぞれが旅先で出会った不思議な体験を語り出す。

私たちは全員、岸田道生という画家が描いた「夜行」という絵と出会っていた。

旅の夜の怪談に、青春小説、ファンタジーの要素を織り込んだ最高傑作!

「夜はどこにでも通じているの。世界はつねに夜なのよ」

Amazonの内容紹介より抜粋)

抑圧されている「夜」

 文学作品を読む上で、非常に便利なツールがあります。それは「二項対立」の図式です。二項対立とは、ある要素と別の要素が相対して配置されなる価値が与えられているというような有り様を指します。身近な例を挙げれば、男/女、明/暗、海/陸、といったものは二項対立を成していると言えます。ちなみに、こうした二項対立にはおいて、必ず優劣の階層づけが行われるとも言われています。たとえば、私たちの社会において、男/女の対立は単に性別の違いのみならず、基本的に男が優位にあるということを否定する人は多くないでしょう(念のために言っておきますが、実際の女性が男性に比べて劣っているという意味ではありません。二項対立における優劣というのは、あくまでその社会で暴力的に決められた幻想にすぎません)。

 さて、この『夜行』という作品からはどのような二項対立が見いだせるでしょうか。言うまでもなく、最も重要な二項対立は、朝/夜です(昼/夜のほうが適切な気もしますが、作品中のある事情によって今回は朝/夜としておきます)。それはタイトルからも推測できますね。

 それでは、朝/夜の二項対立においては、どちらが優位にありどちらが劣位にあるでしょうか。おそらく、ほとんどの人は朝が優位にあると答えるだろうと思います。なぜなら、私たちは基本的に「朝の世界」に生きているからです。

 当たり前のことですが、私たちは普通、夜になれば寝ます。あるいは夜起きていることもできますが、そうなると、朝寝なければなりません。一日じゅう起きる生活を一生涯続けられる人間はきっといないでしょう。つまり、私たちは「朝の世界」と「夜の世界」の両方を生きることはできず、どちらかを劣位に置き、抑圧し、切り捨てるかたちでしか生きられないということです。そして、通常であれば、劣位に置かれ、抑圧され、切り捨てられているのは「夜の世界」です。「夜」とは、「抑圧されたもの」なのです。

 「抑圧」と言えば、精神分析学(心理学)でよく耳にする用語ですね。端的に言うと、意識するのが耐え難い欲望や記憶を、無意識の底へと押し込んでしまうことを意味します。そうすると、「夜」とはまた、抑圧された耐え難い欲望や記憶の象徴であると考えても良いだろうと思います。実際に、作中には「私の夜の世界」という表現も見られます。つまり、「夜」とは私たちの中にもあるのです。まずこのあたりを押さえておきましょう。

日常に侵入する非日常

  さて、上で見たように、「夜」は、平生は抑圧されています。すなわち、「夜」とは非日常なのです。そんな非日常(夜)が、日常(朝)に侵入し、日常がかき乱されていくシーンが、『夜行』には何度か訪れます。一例を見てみましょう。

 「寝静まった山の手の町は、昼間とはまったく印象が異なっていた。街灯に照らされた石段や横道は水族館の薄暗い通路のように陰気に見えた。自分の足音だけが大きく聞こえた。(中略)しばらく歩いて振り返ると、海沿いの夜景が眼下に広がっていた。そのときほど夜が夜であると感じられたことはない。夜明けの来るような感じがしなかった。」p.61

 「僕が感じていたのは恐怖ではなくて怒りだった。心の隅の暗がりから急速に燃え上がって、自分を変身させてしまうような、今までに感じたことのない怒りだった。」p.62

 前者の引用は、この作品の語り手の一人である中井という人物の独白です。昼間に訪れた場所の、夜が更けてから再び訪れたときの描写です。その場所は、「昼間とはまったく印象が異なって」いて、「そのときほど夜が夜であると感じられたことはない」というほどの強い印象を受けています。昼と夜で街の表情ががらりと変わるというのは、多くの方が経験したことのある体験だと思います。しかし、この場合、変貌したのは街だけではないようです。

 そのことは後者の引用からわかります。「昼間とはまったく印象が異なっ」た街で、ある出来事に巻き込まれた中井は、「恐怖」ではなく「怒り」を感じます。それも、「自分を変身させてしまうような、今までに感じたことのない怒り」です。ここで注目に値するのは、「心の隅の暗がりから急速に燃え上がって」という部分です。「心の隅の暗がり」、つまりは「私の夜の世界」です。そこから燃え上がった怒りということは、このとき初めて彼の中に生まれた感情ではなくて、彼の中の「夜の世界」に抑圧されていた感情だったのではないでしょうか。それが、夜の訪れとともに抑圧から解き放たれ、彼の行動に影響を与えたのでしょう。

 このような描写は、作品中にまだほかにいくつか見いだせます。ぜひ、この点に注意してご自分でお読みになってみてください。

「語り」の奇妙な一致

 この『夜行』という作品は、主人公・大橋とその他四人の語り手たちの語りで構成されています。全体を統合する主人公は大橋という男で、第一章は中井、第二章は武田、第三章は藤井、第四章は田辺、そして最終章は大橋(ともう一人の男)の、一人称の語りです。

 それぞれ、彼らの「旅」の物語で、旅先で怪しく恐ろしい不可解な出来事に巻き込まれたという点、岸田道生という画家の連作『夜行』が関わっているという点で共通しています。しかし、それ以外の点では大きく異なっていて、なんだか何の関係もない断片的な話を脈絡なく並べたようです。そのため、最後まで読んでも、わかったようなわからないような、宙づりの状態で作品世界から去っていかなければなりません。

 しかし、表面的にはまったく違うように感じる五人の語りには、偶然と言うにはあまりにも奇妙な一致があります。その一致も、語りの「内容」についてであれば、もともと非現実的な出来事ばかり描かれるわけですから、ファンタジー的な要素として片付けられるでしょう。ところが、一致しているのは、彼らの語りの「言葉」なのです。いくつか引用していきましょう。

「白くてほっそりとした素足が、古びた木の階段をぴたぴたと踏んで降りてきて、見覚えのある色白の顔が階段途中に浮かんだ。」p.23(第一章)

「やがて白くてほっそりとした素足が、古びた木の階段をぴたぴたと踏んで降りてきて、見覚えのある色白の顔が階段途中に浮かんだ。」p.233(最終章)

「そのときほど夜が夜であると感じられたことはない。」p.61(第一章)

「そのときほど朝を朝だと感じたことはない。」p.252-253(最終章)

「身体の力が抜けて、こちらの懐にスッと滑りこんでしまいそうな顔です。」p.104(第ニ章)

「こちらの懐にスッと滑りこんでくるような笑顔だった。」p.162(第四章)

「今、佳奈ちゃんの家は息を吹き返して、夜の底に燦然と輝いていました。」p.157(第三章)

「岸田の家はいつも通り、夜の底で燦然と輝いていた。」p.203(第四章)

 これらは奇妙な一致の一部であり、僕が見つけただけでもまだいくつかあります。気づいていないものを含めればもっとあると思われます。

 部分的には違うところもありますが、異なる人物が異なる事物を描写しているにしては、表現があまりにも酷似しています。まるで同一人物の語りであるかのようですもちろん、これも物語の不可思議さを強調する演出の可能性はあります。

 しかし、僕はこの奇妙な一致が、より重要な「何か」を物語っていると考えたいのです。そうすれば、この『夜行』という作品の表情が、まるで別人のようにガラリと変貌するからです。といっても、僕の仮説が正しいとは限りません。ぜひ皆さんも考えてみてください。

大橋は「信頼できる語り手」なのか

 物語の「語り手」には、二種類あるとされています。ウェイン・ブースという文芸評論家は『小説の修辞学』という本のなかで、「語り手の言葉が真理として受け止めるに足る権威を帯びている場合」を「信頼できる語り手」とし、「語り手の言葉が読者の疑いを引き起こす場合」を、「信頼できない語り手」としました。

 ある語り手が信頼できるか信頼できないかを決めるには、様々な根拠と推論が必要になります。たとえば、語り手が未熟な青年であったり、偏見が強い人物であったり、犯罪者であったりという場合は、「信頼できない語り手」とするべきです。あるいは、その語り手が原理的に出来事すべてを知り尽くせないような場合、簡単に言えば、語り手にも知らないことがある場合もまた、その語り手は「信頼できない語り手」でしょう。

 さて、既に言ったとおり、『夜行』には、主に五人の語り手が登場します(実際は、ごく短いですがもう一人います)。彼らは信頼できるかどうか。これは非常に疑わしいと思います。なぜなら、彼らが巻き込まれた出来事はどれもこれも不可解で不条理で不可思議で非現実的なものです。それらの出来事の原因のようなものを彼らは知らないし、ということは読者にも明かされないわけです。実際のところ何が起こったのかわかっていない人物の語り、これは安易に信頼してはいけないでしょう。

 『夜行』の語り手たちが、全員おいそれと信頼してはいけない語り手だということはわかりました。さて、そのなかでも僕がとりわけ注意したいのは、主人公・大橋です。彼は、極めて怪しい人物だと思います。

 詳しく書くとネタバレになってしまうので難しいのですが、まず、英会話スクールの仲間六人のうちの一人、長谷川という女性があるとき忽然と姿を消した、これはあらすじにも書いてあることです。そして、これは明確な事実ではありませんが、長谷川の失踪の直前まで彼女と一緒にいたのは、おそらく大橋です。となると、当然大橋には説明責任があるわけです。

 ところが、作中で大橋は、長谷川と一緒にいたはずの最後のときのことをほとんど語っていません。「どうしてあのとき、私は長谷川さんの姿を見失ったのだろう」という一文だけです。彼の言葉を素直に受け止めるのならば、彼もまた本当は何が起こったのかを知らないということでしょう。しかし、もし彼が、長谷川との最後の記憶を抑圧していたのだとしたら。意図的に隠したのだとしたら

 段々と深読みが行き過ぎになってきているかもしれません。しかし、すべての語りを統合する語り手である大橋が、絶対的に「信頼できない語り手」であるとするのならば、上で取り上げた奇妙な一致にひとつの結論が出せるのではないかと考えています。果たして、語り手は本当に五人いたのでしょうか……

 しかし、もし大橋が嘘をついているとするのならば、一体何のためかという疑問が浮かび上がるのが自然です。その答えのヒントとなると僕が考えているのは、作品の終盤において語られる、謎めいた画家・岸田道生がイギリスで目にしたある絵画についての逸話です。これは、ぜひ皆さんで読んで、そして考えてみてください。もちろん、僕が誤読している可能性も十分にあります。

作品がはらんでいる問題点

  • 「夜」とは、「抑圧されたもの」である。「夜」は私たちの中にも存在している。登場人物たちが抱えている「夜の世界」とはどんな世界だろうか? そこには何が抑圧されているだろうか? そして、それはどのようにして彼らの日常に侵入し、行動を左右しただろうか?
  • 五人の「語り」は、別々の人物のものとは思えないほど、奇妙に一致している。これは単純にファンタジー的、あるいは怪奇的演出なのだろうか? それとも、より重要な「何か」を私たちに訴えかけているのだろうか?
  • 主人公・大橋は「信頼できる語り手」だろうか? もしそうでないとしたら、彼が語らなかったこととは何だろうか? 彼はどのような嘘をついているだろうか? 彼の「夜の世界」には、何が抑圧されているのだろうか?

 僕が掴み得た、『夜行』という作品がはらんでいる(と思われる)問題点は、だいたい上のような感じです。もちろん、他にも取り上げるべき点はあるし、面白い点もたくさんあります。たとえば、今回は青春小説としての読みは一切省きましたが、そういう観点から読めば、もっとポジティブな読みができると思います。

 そして、当然ながら上の問題点には明確な答えはありません。この作品に関しては、ひょっとすると作者すら真相を知らないかもしれません。「読者の想像に任せる」という決まり文句は好きませんけれども、たしかにこの作品には、たとえ誤読であっても、興味深い「想像」ができる広い余地があります

 というわけで、空所の多い作品はあまり好きではないという方には積極的におすすめはできませんが、作品から想像、想像から妄想へと飛翔していくことのお好きな方にはぜひともおすすめできる作品だと言えます。

 次回予告

 次回の週刊印象批評(12月25日更新)では、『羊と鋼の森』で2015年(2016年の誤りでした)本屋大賞を受賞された、宮下奈都さんのデビュー作『静かな雨』を取り上げる予定です。

静かな雨

静かな雨

 

 お楽しみに。