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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

週刊印象批評:第3回「宮下奈都『静かな雨』」

 

静かな雨

静かな雨

 

  皆さんこんにちは。週刊印象批評第三回です。

 今回は、ピアノ調律師の青年が主人公の『羊と鋼の森』で2016年本屋大賞を受賞した、宮下奈都さんの受賞後最新作『静かな雨』を取り上げて批評していきます。

 受賞後最新作とはなっていますが、これはどうやら宮下さんのデビュー作だそうで、それが今回単行本となったということのようです。2004年に文學界新人賞佳作を獲得した作品です。

 読後感としては、力量不足は随所で感じられるものの、全体としては儚くて美しい恋愛小説として仕上がっているかなと思います。

 さて、そんな現代の日本を代表する作家として成長しつつある宮下奈都さんのデビュー作を、少し詳しく見ていきましょう。

  目次

あらすじ

「忘れても忘れても、ふたりの世界は失われない」

 

新しい記憶を留めておけないこよみと、彼女の存在が全てだった行助の物語。(Amazonの内容紹介より抜粋)

文体について

 僕は宮下奈都さんの熱心な読者ではないので、彼女の文体的特徴がどのようなものかはあまり知りませんが、評判を聞く限り、「温かい」「優しい」「透明感」「静謐」といった言葉で語られることが多いようです。実際に見ていったほうが早いですね。

「遠くないうちにだめになるだろうと予想はついていたけれど、まさかこんなに早く来るとは思わなかった。めずらしく代表が朝からいると思ったら、社員が全員集められて話があった。今年いっぱいで会社をたたむという。退職金は基本給一か月分、急なことなので、それにもうひと月分を足して来月の給料日に口座に振り込んでおくということだった。 /雪が降ったのはこの冬初めてだろう。クリスマスに雪が降るなんてなかなかすてきだけれど、昼過ぎに会社を出た頃にはすっかり止んで、道にも残っていなかった。」p.3

 書き出しはこんな感じです。冒頭からなんだか大変な目に遭っている主人公・行助(ユキスケ)ですけれども、自分が勤めている会社が倒産したにしてはやけにあっさりした語り口です。

 僕の引用が不適切なので、「温かい」「優しい」といった特徴はあまり感じられませんが、この比較的短い文を小気味よく連ねていく文体も宮下さんの文章の特徴の一つだと思われます。

 基本的に、全編このような、事実を短いセンテンスで切断していくような、淡々とした調子で進みます。一人称の語りなので主人公以外の心理は原理的に描写されないし、主人公の心理描写も非常に切り詰められています。こういった、出来事がベースとなっている語りの場合、細心の注意を払って読んでいく必要があるでしょう。心理描写がない、すなわちその出来事から読み取れる心情がない、ということではないですから。

誰か地球を止めて

 僕が読んでいて、非常にユニークだなと思った一節があります。

 小学校の、まだ低学年だった。地球の自転を習った授業の後、僕は理科室を出ようとしていた。何気なく、地球が自転しているところを思い描こうとして、立ち止まった。地球が、回っている。(中略)今このときも一秒間に463mのスピードで僕は突き進んでいるのだ、と思ったとき、全身が総毛立った。ものすごい恐怖感が来た。ごうごうと耳が鳴る。止めて、誰か地球を止めて。声に出せずに叫んだ。(p.14-15)

 地球が自転しているなどということはまったく自明の理であって、そのことをよく知っていても意識に上ることはありません。しかし、考えてみればこれはすごいことで、本文にもある通り、「一秒間に463mのスピード」で私たちは移動し続けているわけです。これはかなり非日常的なことですけれども、僕たちはふつう地球の自転を感じることなどできませんから、日常的なこととして気にも留めないわけです。ところが、文学作品においてこのように改めてつぶさに描写されると、ふだん気にもしないことが異様なリアリティを伴って僕たちに直撃します。これも文学(あるいは芸術一般)の持つ力の一つでしょうね。(cf.「異化」V.シクロフスキー)*1

 それにしても、「地球を止めて」だなんて、ふつうの発想では思いつかない、とても面白いセリフだと思いませんか。ということは、この一節はこの作品を読む上で特に重要な何かを隠しているかもしれません。僕たちはここに注目してこの作品を読んでみましょう。

 僕が思うに、「地球の自転」というのはこの作品のキーワードの一つです。管見の限りでは、「地球の自転」ないし「自転」という単語はこの作品全体で3回出てきます。そのうち一回は上に引用した一節で、二回目はそのすぐ後の一節、三回目はかなり終盤にひょっこり再登場します。二回目は特に重要でもないと思いますが、一回目と三回目は結びつけて考えるべきでしょう。三回目がどこで登場するかは、ご自分で注意して呼んでみてください。

 さて、この「地球の自転」というものをどう考えるべきか。それは、「地球の自転」の性質を細かく割っていけばおのずと見えてくるでしょう。

 まず、それは、ふだん僕たちには認識することができませんが、しかし確実に僕たちに働きかけているものです。それから、決して止まることがなく、不断に動き続けているものです。

 ここまで考えてみると、「地球の自転」というのが、他のある現象、というか概念とどことなく似ているような気がしてきます。「地球の自転」とその概念とは不可分に結びついているものです。そして、「地球の自転」が止まれば、もう一つのものも止まるかもしれません(というより、そういう概念が必要なくなるでしょうね)。

 だとすれば、「地球の自転」というのは、単にそれだけを指すものとして考えるべきではないかもしれません。「地球の自転」と不可分に結びついているもう一方のものも視野に入れて考えましょう。つまり、主人公・行助が止まってほしいと思ったのは、きっと「地球の自転」だけではなく、むしろもう一方の概念のほうだったかもしれないということです。後は皆さんにお任せします。

月は無慈悲な夜の女王

 あらすじを読めば分かることですが、ヒロインのこよみは新しい記憶が一日しかもちません。この高次脳機能障害は、とばっちりの事故でもたらされたものです。ふつうであればなかなか立ち直れないと思うのですが、こよみはすんなり元の生活に戻っていきます。毎朝、事故に遭って新しい記憶を一日しか保つことができないんだと行助に伝えられても、「泣いたり、嘆いたり、取り乱したり」せずに「事態を受け入れる」のです。

 これと対称的な人物が作品の中に登場します。こよみの私物の本を行助が借りて読む一節から少し引用します。

「読みはじめてびっくりした。記憶力をなくした数学者の話だった。皮膚がざわざわと粟立つようで落ち着かない。数学者は毎朝、自分の記憶が短時間しかもたないことを確認して、泣く。」p.72

 「記憶力をなくした数学者の話」といえば、小川洋子さんの『博士の愛した数式 (新潮文庫)』を彷彿とさせますけれども、僕は読んだことがないので、それに登場する数学者が毎朝泣くのかどうかは知りません。まあ、似たような設定の作品へのオマージュといったところでしょうか。

 それは置いといて、「泣いたり、嘆いたり、取り乱したり」せずに「事態を受け入れる」こよみとは打って変わって、行助が読んだ本に登場する数学者は、「毎朝、自分の記憶が短時間しかもたないことを確認して、泣く」のです。たいへんな違いようです。

 行助はこの本を読んで、こよみに対して怒りを覚えます。それから、彼はこよみの記憶障害を逆手に取ったような暴言を吐いてこよみを攻撃します。なんとも身勝手ではありますが、行助の心情としては、自分との生活を記憶にとどめておけないこよみが、そのことを悲しんでいる様子がないことに憤りを感じているのでしょう。そこは理解できなくもありません。

  しかし、こよみは本当に悲しんでいなかったのでしょうか。事の真相は、物語の終盤のある場面でおぼろげにうかがえます。そこは短いですがとても美しい場面なので、引用せずにぜひ皆さん自身で味わっていただきたいのですが、キーワードは「月」です。月といえば、その満ち欠けという性質ゆえに「移り変わるもの」の典型です。その月を見て、こよみは一体何を思うのか。作品中でもっとも注目に値する場面だと言えます。ぜひ注目して読んでみてください。*2

主人公・行助について

 またしても一人称の語りについてです。本当に罪深いものですね、一人称の語りは。僕がこの作品を読んでいて、いくつか引っかかった部分があったので引用します。ある日、こよみが営んでいる店にやってきた高校生が、学校の勉強など役に立たないのではないか、と愚痴をこぼす場面があります。その高校生の心情の描写です。

「背の高い高校生は自分の訴えが幼稚なことも、そして訴えを投げる相手を間違えていることも知っていながら、口を尖らせて並べ立ててみせているのだった。」p.54

 なんだかとても当を得た意見のように見えるので、なるほどと思うだけで読み飛ばしてしまいそうになりますが、それは語り手に飼いならされた読者の思考です。僕たちは、このような語り手を容易には信頼しないようにしましょう。

 おかしいと思いませんか。この作品は、一人称の語りです。しかし、この一節はどこをどう読んでも三人称の語りです。他人の思考を正確に把握して描写できるのは、神かエスパーか、あるいは神かエスパーを気取っている驕り高ぶった一人称の語り手でしょう。行助はまさにそうです。彼には、他人の思考や心情を一方的に解釈して決めつける癖があります(実は、この作品の登場人物は、多かれ少なかれ同じような性質をもっていますが)。次の引用は、同じ高校生がこよみに、大学に行くべきかどうかを相談する場面からの引用です。

「『そうだよ、自分で行ってみないことにはわからない。大学で面白いことを見つける人もいるかもしれないね。あたしは、退屈なだけだったけど』/高校生はちょっと驚いたみたいだった。僕もだ。こよみさんが大学出だなんて思っていなかった。」p.87

  高校生に対して上から目線で語っていた行助ですけれども、結局、こよみに対する知識と理解はその高校生と大して変わらなかったのですね。実はこの、他者理解の不可能性とでもいうようなものも、この作品の大きな主題の一つだとは思うのですが、長くなるので触れないでおきます。

 もう一箇所、上の二つの場面のように、一人称の語り手・行助が一瞬にして相対化されてしまう見事なシーンがあるのですが、それは皆さん自身で探してみてください。

可能性と才能

 『静かな雨』の帯には、「『羊と鋼の森』と対をなす」と書かれています。というわけで、『羊と鋼の森』と比べて読めば、また何か見えてくるものがあるかもしれません。

 2016年本屋大賞を受賞した『羊と鋼の森』には、こんな一節があります。

「才能があるから生きていくんじゃない。そんなもの、あったって、なくたって、生きていくんだ。あるのかないのかわからない、そんなものにふりまわされるのはごめんだ。もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない。」

 なかなか含蓄のある一節です。この一節における「才能」は、『静かな雨』では「可能性」に置き換えられると思います。

 主人公・行助は生まれつき足に麻痺があって、ずっと松葉杖に頼って生活しています。そして、こよみは事故に遭って記憶障害になります。二人とも「可能性」が大きく狭められているわけです。そんな二人が出会って、恋に落ちて、共に生きていく、というのがこの作品の乱暴なまとめですけれども、「可能性」のない二人は、「もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない」わけです。果たして、二人は「もっと確かなもの」を見つけることができたのでしょうか。作品中でははっきりと答えはでていないと思いますが、読後に静かに思いを巡らせてみてもよいでしょう。

まとめ

  • この作品は、事実を短いセンテンスで切断していくような、淡々とした文体で紡がれている。他の作品を読むとき以上に、繊細な手つきで文体を味わって、行間に漂っている静謐な雰囲気を感じ取ろう。
  • 主人公・行助は、「地球の自転」が止まることを望んだが諦めた過去がある。彼は、なぜ「地球の自転」が止まってほしかったのだろうか? 彼が止めたかったのは「地球の自転」だけだろうか? そして、彼の望みは叶ったのだろうか?
  • こよみは、行助とのささやかな日々の記憶をとどめておけないことを、なんとも思っていないのだろうか? もし、心の奥底で静かに悲しんでいるのだとしたら、それはどの場面から読み取れるだろうか?
  • 主人公・行助には、他人の思考・心情を一方的に解釈して決めつける癖がある。しかし、彼の語り手としての立場が相対化される場面がいくつかある。探してみよう。また、人は他人の思考・心情をどれくらいなら読み取れるだろうか? 読み取れていると思っていても、それは独り善がりの解釈に過ぎないのだろうか?
  • 行助とこよみの二人は、可能性という「あるのかないのかわからない」ものではなく、「もっと確かなもの」を探り当てることはできただろうか? もしできたとすれば、それは何だろうか? 自分の言葉で表現してみよう。

 前回取り上げた森見登美彦さんの『夜行』と違って、この作品は、物語内容を一変させてしまえるような問題点ははらんでいないと思います。そういった点はあまり気にせずに、主人公とヒロインの、静かで、儚くて、美しくて、壊れやすい愛の日々を、余韻に満ちた文体で心ゆくまで味わうのがよいでしょう。それを踏まえた上で、二人の関係をより深く理解するために、上の五つのヒントを仮に挙げておきます。参考にして読んでもらえるとうれしいです。

 この作品は、単行本にして107ページで、余白も多いので、ふだん本を読まない方でも楽しめると思います。文章も、難しい言葉はなく、リズミカルに綴られているので、つるつる読めるでしょう。その分、心に微かな風が吹き通っただけ、というようなことにならないように、骨の髄まで味わってやろうという姿勢で読むとよいかと思われます。

次回予告

 次回の週刊印象批評(1月1日更新予定)で取り上げる作品は未定です。というか、元旦に更新する気になるのかも怪しいです。まあ、期待しないでください。それでは。

*1:ちなみに、文学作品を読んでいるときに起きる、「事物がもともと持っていた性質を取り払われて、初めて目にするもののように異様な存在感と共に眼前に立ち現れてくる」ような感覚を、僕の尊敬するある先生は「自明性の剥落」と呼んでいました。とても秀逸なネーミングだと思うので、参考までに紹介しておきます。

*2:文学作品における「月」といえば、僕は『山月記』のラストシーンを連想します。あのシーンとの関連で、この『静かな雨』のシーンを読み解いてみるのも面白そうです。