雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

最近の小説について

 このあいだ、久々に本屋に立ち寄った。

 次回の「週刊印象批評」で取り上げる作品を探そうと思って、新刊コーナーを物色しに行ったのである。

 僕は、近頃の日本文学の動向にはちっとも明るくないから、平積みされている本の作者たちでも名前を知っている人はほとんどいない。せいぜい、東野圭吾さん、中村文則さん、町田康さん、宮下奈都さん、本田沙耶香さん、宮部みゆきさん、綿矢りささん、とか、そのあたりが限界だ。あとの人たちは、名前も聞いたことが無いし、もちろん作品を読むなどもってのほか。

 そういうわけで、次回で批評する作品を選ぼうと思えば、裏表紙や帯に書かれているわずかな情報から、これは面白く読めそうだとか、これは記事が書きやすそうだとか、がんばって推理しないことには手も足も出ない。

 平積みの本を中心に、棚にずらりと並べられている本の上を、端から端まで眼を走らせていく。ちょっと気に止まった本は、手にとって最初の数行を読んでみたり、適当なところを開いてみたりする。そうこうしているだけで、最近の出版事情が何となくだがわかってくる。最近いちばん気になるのは、白地の表紙にたくさんの文章が連ねてある表紙がとても多いこと。これはビジネス書や自己啓発本の類に顕著だ。それから、やけに長い(ライトノベルみたいな)タイトルの本も多い。これもやはりビジネス書や自己啓発本の類によく見られる。どちらにしても、忙しい人たちに向けて、表紙だけで興味を惹かせて、買ってもらえればこっちのもの、という算段なのかもしれない。実際、白が目立つのは表紙だけではなかったりする。まあ、戦略としては真っ当だ。

 話が横に逸れてしまった。そういうふうに最近の出版事情が見えてくるのは、何もビジネス書や自己啓発本の類だけではない。小説もまたかくのごとし。

 これがここ最近に限ったことかは知らないが、小説で目立つのはミステリー作品の多さだ。あるいはミステリー要素の多さと言っても良いかもしれない。昔、純文学が行き詰まったとき、SFの輸入が図られた(といっても、別にほんとうの輸入みたいに意図的なものではないと思う)が、近頃は、どうやらミステリーの輸入が進んでいるらしい。もちろん、ミステリー風純文学よりも、純ミステリー作品のほうが多いのは間違いない。それにしても、やはりミステリー仕立ての作品は氾濫を起こしているといっても過言ではない。

 帯を見るとよくわかる。この作品にはこのような奇っ怪な謎があるのだよと、僕に持ちかけてきた本の多さと言ったら。やれ昔誰々が死んだけれど真相は謎のまま、誰々が失踪したけどどこへ行ったやら、そういうウリ文句を掲げている本がたくさんあった。

 別に、これについて批判しようとか、あるいは、現代には謎が少ないからこういう状況になるのだろうとか、そういうことを言うつもりはない(ということは、そういうふうに言いたいのだ)。けれど、少し不満を覚えないこともない(ということは、覚えているのだ)。

 人が死ななければ魅力的な作品は創れないのだろうか。奇っ怪な謎がなければ面白い作品とは成り得ないのだろうか。そんなことを考える。最初に大きな謎が言挙げされて、途中でたくさん伏線がばら撒かれて、「事の真相」が判明してスッキリ。そういう作品は、一度読んだらもう読まなくても良いではないか。まさに消費物。もっと、表面的には何も大したことが描かれていないようで、それでいてとても奥深い世界が掘り下げられている、そういう作品だって魅力的だと思うのだが。

 以上、愚にもつかない愚痴でした。