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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

2016、断章

 「さびしさは鳴る」。それを痛感しつづけた一年だった。

 

 四月から新しい環境に移って、慣れ親しんだ人たちのあいだで温かい毎日を過ごす生活は終わった。新しい環境には、知らない人びとしかいなかった。それはこれといって辛いものでもなかったが、さびしさは徐々に僕の胸の底へと滴り落ちて、今では小さな水たまりとなっている。

 

 僕は、人より少しは上手に文章を書けるつもりでいた。それにだけしがみついて自分を保ってきた。しかし、文章なんて、誰にでも書ける。あるいは巧拙が問題なのだとしても、自分よりも巧みに言葉を紡いでいく者はいくらでもいる。わかっているはずだった。しかし、自惚れはほんのわずかな隙を見つけて、僕たちの心に忍び込んでくる。そして、自意識や自尊心や自己愛や自己嫌悪や、自己と名の付くあらゆるものと結託して、僕たちの人生を狂わせる。

 

 文章を書くという営みは、無限に存在し、そして一滴たりとも存在しないような水たまりから、あるときは手で作ったうつわで、あるときは柄杓で、あるときはバケツで、あるときはポンプで水を汲み上げていくような作業だ。何かを書くということは、何かを書かないということだ。それは、負け続けることに等しい。だが、書かなければ、負けることもない。それでも、僕たちは水を汲み続けなければならない。喉の渇きを潤すために。

 

 僕は音楽を奏でているつもりだった。僕の内奥には、語るべき何かがあると思っていた。それを誰かに、ささやかでも与えることができればいいと思って、自分を語ってきた。しかし、僕は与えていたのではない。求めていたに過ぎない。現実を直視してみれば、僕には語るべきことなど何一つなかった。僕の心は伽藍堂にすぎなかった。僕が奏でているつもりだった音楽は、空っぽの洞窟に滴り落ちるさびしさが鳴っている音に過ぎなかった。

 

 「さびしさは鳴る」。その音が他人に聞かれるのが怖くなった。それで、語ることを恐れるようになった。何を語っていても、伽藍堂ですすり泣いている声が反響しているようにしか聞こえなくなった。ばかばかしいとしか思えなかった。だから、僕は以前にもまして、自分のことを語るのをやめて、他人のことを語ることにした。でも、それもやっぱり、さびしさが鳴っているのにすぎないはずだ。

 

 喉が焼け付くような劣等感。だったらどれほどいいだろうか。空っぽの虚しい劣等感。それこそ僕が持っている唯一のものだ。今年は、それに気づいた。そんな一年だった。

 

 空間があるのなら埋めればいい、そんな言葉も思いついた。けれど、その言葉もやっぱり空っぽで虚しいじゃないか。白地のキャンパスに白の絵の具で描いていく、それが自分というものなのか。

 

 僕は言葉に魂を売りたい。

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