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雑想日記

内容の信頼性はこれを保証しない

何かと武装をしたがる人

 

先日、ツイッターで回ってきた言葉で、読書をしたり映画を観たりする人間は全体の2~3%しかおらず、俺たちは異端児なんだぜみたいな、ことが載っていたのだが、なんだか自分を特別視して勘違いしてる人々はいるのだな、と感じた。そんな感じになってしまってはなんだかダメだ。

読書で心を強化して生きましょう。 - 思考拡張日記。

  上述したのは、僕が愛読している数少ないブログからの引用だ。とてもバランスのとれた意見で、個人的にもずっと思うところがあったことについてなので引用させていただいた。本来、孫引きというのは厳禁で、一次ソースを辿って正確な引用をしなければならないが、ツイッターでの発言など探す手間が面倒なのでご容赦を。

 さて、そもそも、「読書をしたり映画を観たりする人間が全体の2~3%しか」いない、というのがいかにも嘘くさい話ではあるが、それはさておき、問題は 「俺たちは異端児なんだぜみたいな、こと」だろう。実際、こういう発想の人はそう珍しくないように思われる。

 先日、佐藤優さんと池上彰さんの『僕らが毎日やっている最強の読み方;新聞・雑誌・ネット・書籍から「知識と教養」を身につける70の極意』という本を立ち読みしたのだが、そこには、「古典的名作は、「読んでいないあなたが悪い」と言えるから強い」というようなことが書いてあった。もちろん、この本はビジネス書であり、「読んでいないあなたが悪い」という発言も、ビジネスシーンを念頭に置いてのことだろう。その場合は佐藤さんの言うとおりなのかもしれない。しかし、日常生活においても、同様の発想の持ち主と出会うことがままある。

 僕は、海外の名作と呼ばれる古典文学は割に読んできたのだが、日本のそれは日本人のくせにほとんど触れてこなかった。そのことについて攻撃されることが少なくない。もちろん、「読んでいない私が悪い」のも確かだ。だが、僕は、僕が読んだことのある「古典的名作」を相手が読んでいなくても、読むことを勧めるこそあれ、自らの経験を武器に相手を攻撃しようとは思わない。そういう発想は、なんとなく物騒だから好かない。

 似たような発想はネット上で特に目立つ。現実世界では、この手の発想は往々にして「教養主義」だの「知性主義」だの、聞くだけでもウンザリするような主義主張と結託して、「無教養」で「反知性」な僕たちに襲い掛かってくるのだが、ネット上では、なぜだかサブカル系にこのような発想の人が多い。マンガやアニメといった、現実世界ではむしろ教養から程遠いとして蔑まれているようなものの愛好家たちの一部は、自らが「教養主義」「知性主義」の被害者であるのに、ネット上では有名なマンガやアニメを読んだ・見たことのない人びとを勇ましく批判する。これはほんとうに不思議な現象だと思う。問題の発想は、「教養主義」や「知性主義」に固有のものではなく、もっと普遍的に、人間そのものに根ざすものだということだろうか。

 あえて言えるとすれば、「知的武装主義」といったところか。もともと、個人的に(あるいは仲間内であれ)、人生を楽しく豊かなものにするために興じるはずの「趣味」が、どうしたことか他人を攻撃するための武器と化してしまっている状態だ。そういう状態に陥っている人を見ると、そもそも、他人を攻撃するため、あるいは他人からバカにされないために何かをやっているだけに過ぎないのではないかと思えてくる。

 一人の人間が自由に使える時間なんて限られているのだから、この世のすべてのものを読んだり、見たり、したりすることはできない。「知的武装主義」に囚われている限り、一生自分の「弱点」を補強し尽くすことができず、有形無形の敵とジリジリ続く戦いを繰り広げて疲弊するだけではないのか。だいたい、「本を読んだり映画を観たりしない」97~8%の人びとのなかには、「しない」のではなく「できない」人びとも必ずいるだろう。そういった存在に目を向けず、「できる」ことが前提となってはじめて「している」ことに気づかず、「しない」人を一括りにして攻撃して不戦勝に酔いしれるような「勝負」は、あまりに不健全と言うべきだと思う。

 読書をしようがしまいが、映画を見ようが見まいが、誰もが争うことなく過ごせるような世界を望めるような想像力の持ち主こそ、真の「教養主義」者であり、「知性主義」者というものだろう。自分の気に入らない人間に対して、「反知性主義者」のレッテルを貼り付け、その実、ガキみたいに「バーーーカ!」と言っているだけのような輩は、断じて「知性主義」者などではないのである。