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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

ことばと思考

 「言語は存在の家である」というのはハイデガーの言葉だ。

 昨今の言語学言語哲学がもたらした知見によって、言語とは人間の思考を表現する道具である以前に、そもそも言語こそが人間の思考を成り立たせているということが明らかとなった。

 これは考えてみれば当たり前のことである。現に、いまからことばを使わずになにかを考えてみてほしい、と僕が言ったとして、それは無理というものである。もちろん、「言葉にならない思い」などという言い回しがあるように、僕たちは時として自らの胸中に渦巻く「何か」を的確に表現する言葉を探そうとしてもがき苦しむことがある。しかし、それはまさに「何か」であって、思考と呼ぶにふさわしいものではない。

 ところで、「我思う、故に我あり」などという黴臭くはあるが金言というべきデカルトの言葉を引っ張り出してくるまでもなく、僕たちは僕たちの思考によって大部分が形作られている。世界に向かって投げ出していく僕たちは、まさに僕たちが思考したところの僕たちであり、僕たちを取り囲んでいる世界は、まさに僕たちが思考したところの世界である、というのは空理空論が過ぎるだろうか。

 「気づいていなかった」ことを、「見えていなかった」と表現するのは比喩である。「聞こえていなかった」とか「嗅いでいなかった」などという言い回しがあってもおかしくはないと思うが、思考の比喩はなぜかだいたい視覚的表現だ。それはともかく、僕たちは、実際に、それまで思考の網に捕えられていなかった事物の存在にふと気がついたとき、「あ、見えていなかった」と言う。やはり、僕たちを取り囲む世界は、僕たちの思考の限界内の世界に過ぎないのである。思考の網の目が粗い人間は、世界に存在する数多くの素晴らしいものを無自覚に取りこぼしているのかもしれない。あるいは、認識したくもないことを認識せずに済むのだとも考えられるだろうが。

 いずれにせよ、ことばとは、僕たちの「家」であり、それは、思考するための道具もであり、かつ世界を認識するための道具でもあるということだ。だとすれば、洗練された言語の遣い手は、その人自身が洗練されており、またその人の認識に現前する世界も洗練されているということになるのだろう。裏を返せば、粗忽な言語しか弄することのできない者は、人間そのものとしても粗忽であり、見ることのできる世界もきっと均質で退屈で、凹凸のないのっぺりしたものだということだ。

 ごくごく少数の人びとは、自らの操ることばに執拗なまでに磨きをかけようとする。より多くの文章を読み、より多くの文章を書き、半ば意識的に、そして半ば神頼み的に文章の、ことばの質を高めていこうとする。それはいつも成功するとは限らない。目の前にうず高く積もっていく屑のような「ことばもどき」たちが、ほかでもない自分によって生み出されたものであるという耐え難い事実に身をよじるような思いをしながら書いていく。

 フランツ・カフカは彼の著述行為を「スクラッチ」と言い表した。さっきの一文字より今度の一文字、今度の一文字より次の一文字と、常軌を逸した近視的な言語観/文章観の持ち主の著述行為は、言うなれば紙を「スクラッチ」すると同時に、著述者自身の身体を「スクラッチ」すること以外のなんでもない。僕たちはカフカには遠く及ばないだろう。彼は自らが育んだことばによってはるかな高みへと引き上げられていった先で、まだ誰も見たことのなかった、ノーマンズランドへと辿り着いた(たとえそれが彼にとって絶望の淵であったとしても)。彼の境地にまで僕らが追いつくことができるかはわからない。たぶん、無理だ。

 それでも、僕らは書き続ける。掻き続ける。書くことで、掻くことで感じる痛みでのみ生の実存に触れることができるからだ。そして、もしこの無駄な努力がいつか神の目に留まって、ノーマンズランドへと連れ導いていってもらえるとするのならば。そんな日を理想にして僕らはいつまでもことばを磨こうとし続けるだろう。

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