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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

読書感想文:芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』

 とあることがきっかけで、芥川龍之介の晩年の作品群が収められている文庫を手に取った。芥川といえば『羅生門』とか『蜘蛛の糸』とか『杜子春』とかが有名で、後期の作品といえばマニアしか読まないものだ。そんな「つまらない方の」芥川ばかりが収められているのが、新潮文庫の『河童・或阿呆の一生』である。

 個人的な読書記録に書き散らした文章なので、読みづらい上に明快な意味を成していないと思う。だが、なんとなく気が向いたので公開することにした。滞っている「週刊印象批評」の代わりということにしておきたいという魂胆もある。

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

 

  芥川の晩年の作品群は、だいたい作家自身の精神病とそれに続く自殺と関連づけて語られることが多い。実際、この文庫に収められている作品からは、病的に鋭い感性が捉えてしまった死の予感めいたものが、作家の冷たい理知によって克明に記録されている。常人がここに書かれていることから何かを掴み取ることはそう簡単ではないと思う。私自身、それほど興味深く読めたわけではない。しかし、部分的には共感できる部分もあった(共感することが文学の読解において理にかなったことかはさておき)。

 芥川が晩年に理想としていたのは、「『話』らしい話のない小説」だった。この文庫に収録されている作品のうち、『河童』と『玄鶴山房』以外は、たしかに「『話』らしい話のない小説」である。といっても、作家の身辺雑記的なものかと問われれば、必ずしもそうとは言い切れないと思う。『或阿呆の一生』『歯車』で描かれていることは、どちらかといえば「起こったこと」ではなく「起こらなかった(そして、起こるかもしれなかった)」ことだ。主人公の身体感覚は狭苦しい自我を飛び出して、世界の諸物と溶け合うように感応している。当時の彼にとって、世界の中に自分と無関係なものは存在し得なかった。すべての事物が彼の身心の内部に生動する「歯車」に乗せられて回転し、解釈の循環システムを遍歴していく。健全で無意味な事物も、病的な意味を帯びた何かに変貌し、彼の身心を蝕んでいく。そのメカニズムを、作家は明晰すぎるほどの頭脳でもって相対化し、文章として表現することに成功している。

 芥川は志賀直哉を理想としていた。志賀の小説は一般に「心境小説」などと呼ばれ、作家の実体験とそれに対する心理の動きを表象するのが特徴である。それに対して芥川の作品を読み解けば。そこにはいわゆる「心理」的なものはあまり見受けられないことがわかる。思うに、芥川ほどの研ぎ澄まされた理性の持ち主には、常に揺れ動き続ける「心理」を固形化した文章に還元してしまうことができなかったのだろう。心理は事物に対する反応から、反応に対する反応へと次々に”ずれて”いく。だから、芥川の作品には「心理」の描写はない。決して停滞することのない「神経」の動きがそのままに暴露されているだけである。

 あるいは、こういう見方もできるかもしれない。芥川は、あきらかに「生活」に対する興味をもたない人間であった。そういうわけで、身辺の雑事から生まれる「心理」なるものも乏しかったのだろう。それはあまりに高い知性のためであったかもしれない。いずれにせよ、彼は生活から材を取って作品とすることはできなかった。古典の翻案をものにしているうちはそれでも問題がなかったが、そのスタイルではいずれ立ち行かなくなることは当然だった。村上春樹は作家を”経験を基にして作品に仕上げる”タイプと、”自己の奥深くにまで沈潜していくことでモティーフを見つけ出す”タイプに大別した。そして、前者のタイプは材料となる経験がなくなったときに作家としても終わってしまうと考察した。*1芥川の場合、初期は変形的な前者(経験のかわりに、古典を基にした)であったが、村上の考察どおり、行き詰まってしまった。そこで後者に切り替えようとした。だが、それが悲劇だった。自己の奥深くに眠っていたものは、彼にとっては触れてはいけないものだった。あるいは、そこには何もなかったのかもしれない――

 私には芥川の気持がわかるような気がする。創作欲はある。言葉を紡ぐことに対する欲だ。しかし、言葉を紡ぐための素材(マテリアル)がない。だがシニフィエなきシニフィアンというものは存在しないし、あったとしても文字通りナンセンスだ。もしシニフィエなきシニフィアンというものがあったとして、そしてそれがナンセンスに陥らないものだったとしたら、芥川はきっと自殺しなかっただろう。