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週刊印象批評:第5回「山下澄人『しんせかい』」

 

しんせかい

しんせかい

 

  みなさんお久しぶりです。週刊印象批評第5回です。

 二週間も連続で休載してしまって(正確には、サボってしまって)、申し訳ありません。といっても、書かなかったから誰かが困るというわけでもなし、逆にきちんと書いたからといって報酬がもらえるわけでもなし、そこが辛いところですが、ブログというのは端からそういうもの、今後はしっかりやっていきますので何卒お付き合いください。

 さて、前回の予告で、宮本輝さんの『草花たちの静かな誓い』を取り上げたいだのと言ってましたが、嘘でした。というわけで今回は、第156回芥川賞受賞作である、山下澄人さんの『しんせかい』を取り上げていきます。

 山下澄人さんという方は、僕は不勉強ながらこれまで存じ上げませんでした。Wikipediaによれば、倉本聰さんがかつて主宰していた「富良野塾」で学んだ生徒で、主に演劇方面で活躍していらっしゃった方だそうです。小説を発表し始めたのは2011年からとのこと。

 ちなみに、「富良野塾」というのは、

1984年に脚本家の倉本聰が私財を投じて開設した脚本家や俳優の養成施設。2年間共同生活をしながら、脚本の創作や俳優としての稽古をする。授業料は無料だが、地元農家から依頼される農作業で生活費を稼いでいる。2010年4月4日、25期生卒塾をもって閉塾。卒業生は380名を数えた。(富良野塾 - Wikipediaより抜粋)

という施設で、作品を読めばわかりますが、このあたりの事情はほとんどそのまま作品世界にも引き継がれています。主人公の名前も「山下スミト」なので、いちおう「私小説」に分類されるのでしょうかね。まあ、そんなことはどうでもいいでしょう。

 それでは、少し詳しく見ていきましょう。

  目次

あらすじ

十代の終わり、遠く見知らぬ土地での、痛切でかけがえのない経験――。19歳の山下スミトは演劇塾で学ぶため、船に乗って北を目指す。辿り着いたその先は【谷】と呼ばれ、俳優や脚本家を目指す若者たちが自給自足の共同生活を営んでいた。苛酷な肉体労働、【先生】との軋轢、そして地元の女性と同期との間で揺れ動く思い。気鋭作家が自らの原点と初めて向き合い、記憶の痛みに貫かれながら綴った渾身作!(Amazonの内容紹介より抜粋)

文体について

 毎度のことながら、文体についてから入りましょう。やはり文学なのだから、文体にこだわってこそです。少し調べてみると、山下澄人さんというのはやや実験的な手法を好んで取り入れる作家のようで、過去3回芥川賞候補に挙がるも落選していたそうです。

 この作品でも、そういった山下さんの姿勢は十分発揮されているように感じましたが、実験のほうに偏りすぎず、概ね誰にとっても読みやすい文章になっていると思います。具体的に見てみましょうか。

「人があらわれた。男の人だった。男の人は泥だらけの赤いヤッケを着ていた。サングラスをかけているから顔はわからない。ひげをはやしているのはわかった。手に何か大きな棒のようなものを持っていた。ただの棒じゃなかった。先が鉤爪のようになっている。武器かもしれない。男の人はゆっくりと車へ近づいて来ようとしたけど下が泥だらけだからなかなか車の近くまで来れない。」(p.20)

 そのとき視線に飛び込んでくるものを次々と描写するような感じが特徴的ですね。ふだん息の長い文章に慣れ親しんでいる人からすれば、少し読みづらいかもしれません。短文を無骨に書き連ねていく文体といえば、ヘミングウェイに代表されるハードボイルドが連想されますが、それともまた少し違いますね。

 「人があらわれた。男の人だった。男の人は泥だらけの赤いヤッケを着ていた。」という文章なんかは、ふつうであれば、「泥だらけの赤いヤッケを着た男があらわれた。」などと書いてしまいそうです。しかし、実際に僕たちは、「あ、人が入ってきたな」「男性か」「なんか泥だらけだな……」という具合に現実を認識しているのではないでしょうか。とすれば、「泥だらけの赤いヤッケを着た男があらわれた。」などという無粋な文とは違って、人間の認識過程を忠実に再現しようと果敢に試みている、挑戦的な文かもしれません。

 これらの、①現在、目の前に存在している事物を、②実際に認識したとおりに描く、という文体的特徴は、後ほどまた触れますので覚えておいてください。

語りの現在

 さて、この作品が、①現在、目の前に存在している事物を、②実際に認識したとおりに描く、ような文体で書かれていることは既に見たとおりです。

 ところが、本当にきちんと文章を確かめていくと、この作品は現在進行形で物語られたのではなく、過去を回想する形で物語られたのだということがわかります。*1実例を見てみましょう。

「何を。何も見てない。いや見てはいた。【先生】と呼ばれる人はたくさんのテレビドラマや映画の脚本を書いていたから、二人が話題にしていたそのドラマは見てなかったけど、いくつか見てはいた。見てはいたけどそのときのぼくはそれがその【先生】の作品だとは知らない。」(p.18)

 これは、これから師事する脚本家の【先生】の作品の何を見て入塾しようと思ったのか、と同期に聞かれたときの「ぼく」の反応です。「そのときのぼくは……知らない。」というところに注目してください。ここでは明らかに、物語られている出来事を後から振り返って、その時点では知らなかったことを付け加えています。こういう問題点は、「語り手」と「語り」の領域に関心がないと見逃してしまうかもしれません。しかし、この作品を味わうためには、物語の現在(語り手は<いつ>物語っているのか)がどこなのかということが、おそらく非常に重要です。

 過去を回想する形で物語られている作品といえば、夏目漱石『こころ』や森鴎外舞姫』などがその代表例ですが、そのどちらも、語り手に非常に強い衝撃あるいは打撃を与えた過去の出来事を回想しながら物語ることで、心の整理をつけようとしたり傷をいやそうとしたりしていると言えないこともないでしょう。ということは、この『しんせかい』の主人公である「山下スミト」もまた、俳優や脚本家志望者たちの集う【谷】での出来事を回想して物語りたいという内的な要求に駆られて物語っているのでしょうか。僕はそう踏んでいるのですが、みなさんはどうお考えになるでしょうか。

失われた時を求めて

 この作品が、過去を回想する形で物語られたということは確認しました。というわけで、文体についての特徴を訂正しなければなりません。この作品の文章は、①過去の出来事を、②現在を認識するときの過程を再現して(しようとして)、③目の前で起こりつつある出来事のように、書かれている、というくらいにしておきましょう。

 さて、主人公の物語行為は、「過去を追体験しようとしている」というふうに表現することもできるでしょう。とすれば、「人があらわれた。男の人だった。男の人は泥だらけの赤いヤッケを着ていた。」というようなまどろっこしいとも思える文も、なぜそのような書き方をするのか、なんとなくわかるような気がしますね。

 過去の再現という彼の試みはかなり成功しているように見えます。実際、これまでの引用以外にも、「鹿が畑の遠くを横切った。一、二、三、四、五、六、七。七頭」というように、目の前にいる鹿を順々に数えていっているようにしか読めない文が度々でてきます。

 ところが、主人公はある一点だけ、再現することに失敗しています。そのことについて彼は次のように語っています。

「『スミトは来るとき緊張した?』

 ケイちゃんがいった。おぼえてない。

『おぼえてないの?』

 けいこがいった。ジマさんは緊張していた。タチさんも緊張していた。ぼくはどうだっただろう。ロペスの吠えたのは耳に残っている。藤田さんが鉤爪のついた棒を持ってあらわれたのもおぼえている。しかしそれらを耳にし目にして起きた、自分の中に起きたことを、ぼくはおぼえていない。」(p.122-123)

  主人公は、外面的な事象の記述ばかりに終始して、内面的な感情や思考といったものはほとんど書きこぼしています。そして、それにかなり自覚的であることは上の引用からわかります。ふつう、私たちが過去を回想するときは、何が起こったかということよりも、そのとき自分や周りの人びとが何を思い何を考えたか、ということが中心ではないでしょうか。あるいは何を言ったか、もそうかもしれませんが、発言というのは感情や思考を表現したものですから同じことです。いずれにせよ、回想とは、基本的に出来事ベースではなく人物ベースです。

 しかし、主人公は、「自分の中に起きたことを」を「おぼえていない」のです。肝心要のところを再現することができない。ここに主人公の物語行為の悲劇があります。【谷】での経験を通じて、一体自分は何を得たのだろうか。そう自問する声が聞こえてくるかのようです。

 この作品では、二度、不思議な場面が訪れます。一度目を引用します。

「足元に誰かいた。けいこかもしれない。だけどけいこがそんな風に男の部屋に入ってきたりはしない。誰だろう。見てやろうとするがからだが動かない。首も手も足もぴくりとも動かない。目だけは動かせたから目玉をなるだけ足の方へ向けた。黒い服が見えた。男だった。顔はよく見えなかった。(中略)男はぼくを、探していた。間違いない。男はぼくを探している。しかし、男はここにはいなかった。そこにいるけど、ここにいない。男はここではないそこで、ここにいるぼくを探していた。そう思ったとたんに男が消えて僕の意識が飛んだ。意識が飛んだから男が消えたのかもしれない。」(p.54-55)

 この男の正体は、二度目に現れたときに明らかになりますが、ここまで読んできたみなさんは、実際に作品を読むまでもなく正体を見破ることができると思います。でも、文学は自分で読んでみて、そして考えてみてナンボのものですから、興味をもったかたは、是非ご自分で手にとってみてください。

まとめ

  • この作品は、①過去の出来事を、②現在を認識するときの過程を再現して(しようとして)、③目の前で起こりつつある出来事のように、書かれている。語り手はどうしてそのような語りの手法をとったのだろうか?
  • 語り手は、外面的な事象ばかりを書き連ねて、肝心要の、そのときの自分の感情や思考といったものをほとんど再現できていない。このことが意味するのは何だろうか? そもそも、なぜ主人公は過去を物語ろうとしたのだろうか?
  • 試みに、自分も主人公のように過去の出来事を(できれば一年間くらいを連続して)回想してみよう。外面的な事象だけでなく、内面的な感情や思考といったものまで再現できるだろうか? 思い出そうとすればするほど忘れていくのだろうか? 目の前で記憶が流れ去っていくのを眺めている気分はどれほどのものだろうか?

 本の帯に、演出家の飴屋法水さんが「過去のことを書いているようで、書かれているのは現在だ」と書いています。また、あらすじには、「思い出すことの痛みと向き合い書かれた」とあります。どちらも言い得て妙だなと思います。それらのテーマが文学的に新鮮かどうかはさておいて、容易には語ることのできないものを語ろうとする悲痛な試みがそこにあることは間違いないでしょう。その「語りの不可能性」といったものから目を背けないというのは、ある意味では記憶というものに誠実といえるかもしれません。追憶の哀しみを知っている人は、身に沁みて味わえる珠玉の一作となるかなと、思います。*2

次回予告

 段々と次回予告をするのが不安になってきましたが、いちおう、次回は2月5日更新予定です。取り上げる作品は、いまのところ岸政彦さんの『ビニール傘』にしようと思っています。今回、『しんせかい』とともに芥川賞にノミネートされて、惜しくも受賞を逃した作品です。それでは、お楽しみに。

ビニール傘

ビニール傘

 

 

*1:そもそも物語とは原則として過去を物語るものだということは周知のことでしょう。過去形で物語られる(「僕は~した。」)ということからもそれは明らかです。とはいえ、多くの物語は、たとえそれが過去の回想であっても、物語るうえではそれを現在のこととして物語っています。たとえば、物語のなかで「次の日」のことを語り手はふつう「明日」と言いますが、過去を回想しているのであれば「明日」というのは妙です。少なくとも、物語っているそのときは、まさに過去が現在になっているのです。

*2:Amazonにもレビューを書きました。興味のあるかたは是非ご覧いただければと思います。この「週刊印象批評」では、まだ読んでいない人のためにかなりぼかして話を展開していますが、Amazonレビューのほうは好き放題に書きましたので、幾分か明確な意見めいたものになっているかと。Amazon CAPTCHA