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雑想日記

内容の信頼性はこれを保証しない

意味の世界は嫌いだ

 何となくタモリさんのWikipediaを読んでいたら、「『意味性』のある音楽は苦手としており……」という記述があった。(タモリ - Wikipedia)ちなみにその記述の出典はここ(ほぼ日刊イトイ新聞 - はじめてのJAZZ。)。

 この記事を読んで僕は思わず膝を打った。我が意を得たりの気分だった。というのも、僕自身、「意味性」のある音楽が苦手で、さらに言えば、音楽以外のありとあらゆる世界においても「意味性」が苦手だからだ。

 この記事に書いてあることは、ほんとうに一言一句すべて僕が平生から歯がゆく感じていたことだったので、もはや全文引用したいくらいである。が、そのなかでも特に強く共感した部分を引っ張ってみる。

ぼくが音楽を好きだというのは、意味がないから好きなんですね。

小学校の3年生ぐらいのころのことを、いまでも思い出すんだけど、教室で誰かの書いた文章を読んでいて、先生が「さて、この作者は 何を言いたかったんでしょうか?」と聞いたんです。え? 言いたいことはすべてここに書いてあるじゃない……そういう質問は、今でも、不思議に思うんです。(中略)作者は、別にそれほど言いたいとは思っていないかもしれないし。たとえば、ただ、おもしろいものを書きたいだけで。

大島渚さんがお元気なころ、若者と討論があって……。『戦場のメリークリスマス』のときに若者が質問したんです。「大島監督は、この映画を通じて、反戦ってことを言いたいんですか?」そしたら大島さんは激怒して、「そんなことは思ってません!ぼくは顔も売れてますし、文章も書くから、反戦なら、反戦!大きく紙に書いて出しますよ!」

すべての人間は意味の世界にいるわけでしょう?もうなんでもかんでも、意味の連鎖性の中に生きているみたいで……それに、我慢ができないんです。

  最後の発言は糸井重里さんによるもので、あとの3つはすべてタモリさんによるもの。

 まあ、そもそも”意味”とは何かという定義をしなければ、”音楽に意味があるか”という問いも不毛なものになりそうだが、少なくとも、言語化できる、どことなく道徳的というか、分かりやすいメッセージ性とか物語性といったものは、クラシックやジャズなどのいわゆる「純粋音楽」にはないと言ってもそう的を外してはいまい。(もちろん、クラシックのなかには、リート(歌曲)やミサ曲、オペラなど、わりかし明確な意味性をもった形式もあるが、それはとりあえず度外視しよう。)

 僕がクラシック音楽を愛好している理由も、まさにその意味性のなさにあると言って良い。ベートーヴェン交響曲やピアノ・ソナタに、万人が共有する絶対的な”意味”があるなどという意見に、誰が同意するだろう。僕にとって音楽とは、糸井さんの仰る「意味の連鎖性」から逃げ込む避難所のようなものなのだ。

 同じようなことが、文学についても言えると思っている。当該記事でも、「誰かの書いた文章」の「作者」が「何を言いたかったのか」という問いが、それこそまさに”無意味”なものであると指摘されている。とはいえ、文学から一切の”意味”を排除することもまた不可能なことであり、かつ”無意味”なことであるのは否定しない。だが、文学(あるいは映画でも良い)に、性急に”意味”を求めてしまうこと、そして、その”意味”が往々にして陳腐な道徳・教訓(たとえば「反戦」など)に堕してしまうところに嫌悪を感じるのである。

 「で、結局何が言いたいの?」「この作品は何を意味してるの?」これらの問いはすべて無意味の墓場へと埋葬されてしまえばよい!

 たった数行で言い尽くせてしまうような道徳・教訓のメッセージを送るために、数万や数十万の文字、あるいは数時間の映像を用いる必要などどこにあるのだ? それこそ「反戦」というプラカードを掲げて国会前にでも出向くほうがよっぽど良いではないか。

 道徳・教訓的な価値判断では決して割り切ることのできない、曖昧模糊にして複雑怪奇な現実を、できるだけその混沌を保ったままでどうにかこうにか表象しようという試みこそが文学であり、映画ではなかったか。それを安直な”メッセージ”に還元して、受信して、感動して、家に帰ったらスッカリ忘れてしまうような輩は二度と文学や映画になど触れぬが良い。

 混沌を混沌のままで、混沌によって描ききらない。名状しがたいことを言い尽くさないように努力する。神がもたらす唯一絶対の答えに否を突きつけて、常に意味を横滑りさせていく。これらの試みに理解を示せぬようなら、いっそ関わらないほうがマシだ。