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雑想日記

内容の信頼性はこれを保証しない

読書感想文:遠藤周作『沈黙』

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

  映画化をきっかけに読んだ。僕は文学が映画化された場合は必ず原作を読んでから観に行く。大体はそのほうがより作品を楽しめる。でも、今回は原作を読むだけで結局劇場には足を運ばなかった。僕としては原作だけで充分得るものがあったと感じたからだ。それを乱文で書き留めておいたので、例によって例のごとく、滞っている更新の誤魔化しとして、ここにアップしておく。ネタバレは考慮していない。よって注意してほしい。

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 神の沈黙というテーマは、サマセット・モームの『人間の絆』にも少し見ることができる。ただしあちらは本書に比べればはるかに軽妙なエピソードではある。もちろん、跛が治ってほしいという願いは切実ではあったろう。だけれど、フィリップは結局、信仰という絆を断ってしまい、それもモーム流のシニシズムで彩られているから深刻さはない。むしろ、絆から解き放たれた自由感が漂っている。


 それに対して本書での神の沈黙というテーマは深刻だ。布教のために訪れたはずの日本で、その願いとは反対に自らのせいで信徒たちが次々と責め苦に遭って死んでいく。そんな現実にもかかわらず神は救いの手を差し伸べるどころか沈黙したままである。そんななかで次第に、信仰の揺らぎ、神に対する懐疑、背教の観念が育ち始める。ついにロドリゴは踏み絵を踏むことになるが、それは果たして神に背く行為だったのか。

「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)」

 「『私はそうは言わなかった。今、お前に踏み絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから』」

 これらのキリスト教解釈が正しいものであるかは私にはわからない。しかし、聖書もまた言葉で織られたテクストであることを考えれば、万人が共有できる絶対的に正しいキリスト教などというものが存在するのかも私にはわからない。聖書を読んで解釈をするも千差万別。牧師の説く聖書解釈も千差万別。牧師の説教を聞いた信徒の解釈も千差万別。一体どこに確固たる教義などというものがあり得るだろうか。

 同じことが宗教それ自体について言える。もし世界を同一の神が創造したのであれば、それぞれの民族、文化に別個の神や神話や宗教があることは辻褄が合わない。世界を創造しておきながら、その世界の一部しか面倒を見ない神など全能ではない。だがこうも考えられるのではないか。同じ神が為した業であっても、異なる文化に属する人びとはそれぞれ別様に解釈し、それが世界に多数存在するてんでばらばらの宗教となったのだと。


 重要なのは、”痛み”そのもの、だろう。痛みに耐えられるかどうかは問題ではないのだ。キチジローが、世の中には生まれついて強い者と弱い者がいると言うのは恐らく間違っていない。だから、人は悪事を働くこともあるし誘惑に負けることもあるし、神を裏切ってしまうこともある。問題は、そこに痛みがあるかどうかだ。それらの行為に対してもはや痛みを感じなくなってしまったとき、その麻痺は致命的だ。そのときにこそ神は本当に沈黙するだろう。痛みの感覚を失ってしまった人間がキリストの教えを受け入れることなどできるはずもないのだから。あるいは、どんな宗教の教えですら。

「あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」