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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

梅の名所、京都の「城南宮」に行ってきた(写真2枚だけ)

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 梅が好きだ、桜よりも。

 梅の、地味さが好き。桜ほどにはたくさん花をつけないし、木も比較的こぶりだ。それから、木の形も好き。桜はどちらかと言うと、木の王道って感じの形をしている。根と幹が太くて、真っ直ぐに伸び、ほぼ円形に枝を広げる。けれど、梅は梅で、松の木みたいに、枝が細くて、くねくね曲がって伸びていて、実に雅だと思う。

 それにしては、今まで、いわゆる「梅の名所」とされている場所に赴いたことがない。ちょうど見頃だったから、今年は行ってみることにした。そういうわけで、京都で梅がきれいな場所をインターネットで探した。すると、城南宮という場所が一番有名で、写真で見ても一番きれいなようだった(城南宮についての説明は面倒くさいからwikipediaに譲ることにする)。

 ずっと行くつもりだったが、天候が芳しくない日々が続いて行きあぐねていた。花は、やはり青々と晴れ渡った空のもとで見るに限るのだ。しかし、花見というものは往々にして、今か今かと機会を窺っているあいだに時期を逃すもの。だから今日こそはと思っていた。午前中は晴天だったが、昼飯を済まして、さあ出かけようという段になって、先週とまったく同じように雲が垂れ込めて薄暗くなってきた。窓を開けて外に出てみると、かすかに雨が降ってすらいる。

 まただめだったか、と思い、諦めて、前日に借りてきていた『インターステラー』を見始めた。見るのは二回目だが、以前はTVのへぼいスピーカーだったのに対して、今回はそれよりは遥かにマシなスピーカーを用意した。宇宙船のエンジン音が腹に響く。しかしなかなか物語に入り込めなかった。出かけたいという気持ちを何日も持て余して、かなり煮詰まってきていた。それに、ちょっとした理由もあって、何としても今日、梅を見ておきたかった。無駄な1日が過ぎていく、と思って憂鬱になった。

 もう見るのをやめようかと思って、ふと窓外に目をやると、雲の切れ間に青い空が見え、春の日差しが差し込んできていた。考えるよりも先に身体が動いて、出かける準備を始めていた。

 

 地下鉄に乗って、たぶん20分くらい。竹田駅で電車を降りると、嫌な予感が的中して、家を出たときに温かく照っていた太陽は、どんよりとした雲に覆い隠されてしまっていた。それにしても、伏見はいつ行ってもどことなく陰鬱な雰囲気が漂っている暗い街だから、あまり好かない。晴れていても曇っているような気がする。

 駅からさらに歩いて、公式的には15分、しかし、たまにはスマートフォンに頼らずに行こうなどという気まぐれを起こしたせいで、恐らくはもっとかかった。途中で、明らかに道を間違ったという感覚があり、GPSで確かめると案の定、角を真反対の方向に曲がってしまっていた。軌道修正してからは、割りと早く着いた。

 灰色の鳥居をくぐって、境内に入る。さっそく、小振りな桃色の梅が一本、苔むした地面に植えられている。その周りには、当然のように、スマートフォンやら一眼レフカメラやらを構えた人びとが群がっている。一眼レフの青年などは、次から次と、ファインダーすら覗かずに撮りまくっている。これでは構図も何もあったもんじゃない。ご自慢の一眼レフも泣いているだろう。もはや何のために見に来ているのか、何のために撮影しているのか、何が楽しいのか、さっぱり分からない。

 しばらくそこにいて、それから有料の庭のほうに移る。受付の巫女さんに挨拶して、お金を払おうとすると、「ただいま100円玉が不足しております」という注意書きが眼に入った。ぜひとも協力したかったが、記憶が正しければ、今は100円玉はない。申し訳なく思いながら、500円玉を二枚出して机に置くと、「ちょうど頂きます……あっすみません。1000円お預かりいたします。……400円のお返しです」と言われ、(恐らく)なけなしの100円玉を4枚ももらってしまった。どうせ1000円なら札を出せば分かりやすかったのに、100円玉を探した勢いで小銭で払ってしまったのだ。罪悪感がさらに増した。だが、100円玉不足を補うどころか、むしろ不足を助長したのだから、反省して然るべしというものだ。

 チケットを受け取り、少し行ったところに設置してある机の上のパンフレットを取る。ただぼんやりと眺めて流れていくだけでは味気ないから、こういうものを手にとって読むのは大切なことだ。……結局、大して読まなかったけれど。

 

 先へ進むと、予想をはるかに凌駕する本数の、華やかな梅の出迎えを受けた。「春の山」と呼ばれている一角らしい。一面に桃色が充溢していて、ところどころに白色も滲んでいる。まるで桃色の絵の具を大きなバケツで空間に撒き散らしたかのようだった。そのとき、時機を見計らったかのように、再び太陽が顔を見せて、「春の山」を陽気に照らし始めた。何という恩寵。

 梅というともっと質素な印象を勝手に抱いていたが、なかなかどうして、ここの梅は、どちらかと言えば派手だ。桜並木にも匹敵する、と言ってそれが賞賛になっているかは分からないが。質素さのなかに落ち着きがある梅は素晴らしい、しかし、この梅も悪くない。

 狭い通路を聴衆たちが埋め尽くしている。皆、手にはスマートフォンかカメラを持っている。聞こえてくるのは、鳥のさえずりと、木々がそよぐ音……と言いたいところだが、ひとまずは、カメラのシャッター音と、直ぐ側の道路を通る車の音が聴覚を支配する。一旦落ち着いて、耳を澄まさなければ、心が洗われるような自然の音の数々を聴くことはできない。残念だが、それは仕方ないことだ。

 「春の山」というだけあって、大きく湾曲した通路のあいだが、少し高く盛り上がっている。そこに無数の梅が植わっていて、景色が桃色に霞んで見えるほどだ。向こう側の通路を行く人びとの姿が、盛り上がった土に遮られて、まるで顔だけが横滑りするように流れていくのが、何だかおもしろかった。

 突然、ひとつの梅の木の周囲だけを桃色の花びらが、まるでスノードームをひっくり返したみたいに、ひらひらと舞い落ちた。頭上を鳩と思わしき鳥が飛んで行ったのが、落ちてくる影で分かった。どうやらあの鳥が、枝から飛び立つときに花びらを雪と降らせたものらしい。そうか、花びらを散らすものは風だけではなかったのか。しかし、あの散り方は、風による散り方とはまた一味違って、ちょっと幻想的だった。

 何となく、全体の景色に見覚えがあった。はて何だろうと考えて、それがスキーに行ったときに見た雪景色であることに気がついた。高い山のてっぺんまでゴンドラで昇って、怯えながら、のろのろと滑り降りていったとき、急に周りに人がいなくなって、あたりに霧のような静寂が立ち込めた。見回すと、冬枯れの木々に、雪の花が満開に咲き乱れていた。それまで、スキーがつまらなくてすごく不機嫌だったのも忘れて、その景色のあまりの静謐さを恍惚として眺めた。あの満開の雪の花の木々に、似ていたのだ。

 

 それにしても、本当に、現代人のカメラ狂いというのは、どうにかならないものだろうか。彼らは、梅を見に来ているのか、カメラのファインダーや画面を見に来ているのか、まるで分からないほど、とにかくずっとシャッターを切り続けている。カメラを構えていないときでも、とにかく写真に撮って美しいかどうかというメガネでしか、景色を見ていないのではないかと思う。自分がいったいその場で何を見たのかというのは、ひょっとすると家に帰って、カメラをPCに接続して、撮影した写真を確認したときかもしれない。

 彼らにとって、美しい写真として還元できないものは、その場には存在しないも同然のだろう。そもそも、現代人は写真を評価しすぎている。結局、写真というのは、よほど上手に撮らない限り、文字通り「静止画」なのだ。しかし現実というのは、様々な要因によって刻一刻と表情を変える。たとえば、にわかに雲間から差し込んでくる日差し、可憐にさえずりながら喜ばしく飛び交う小鳥たちの群れの素早い動き、飛び交う小鳥たちが降らせる花びらの雪、小川を流れてくる泡沫と花びら、それからもちろん、小鳥のさえずりや木々のそよぐ音、梅の花の芳しい香り、などは、どれほど巧みな撮影技術を持っていたって、写真に収められるはずがない。追憶の引き金として、一二枚の写真を持っておきたいという気持ちは分かる。しかし、あれほどの写真の撮りまくりようでは、梅を見た思い出ではなくて、写真を獲った思い出しか残らないだろう。

 念のために行っておくが、写真愛好家の方々を侮辱する意図は、もちろんない。と言っても、たぶん説得力はないだろう。どう考えても、写真愛好家を攻撃しているとしかとれない文章だから。でも、ブログだし、好き勝手に愚痴らせてもらう。

 

 さて、梅を見に行ったのであるが、いちばん印象に残ったのは、実は、梅の景色ではない。――それは、椿だった。

 梅はもう十分見て満足したので、順路を先に進むことにした。でも名残惜しいので振り向き振り向きしながら歩いていくと、ふと、木漏れ日が差し込む苔むした地面に、数個の椿の花がぽつりぽつりと落ちているのが眼に停まった。「わざと落としたみたい」と他の客が言っていたが、まさにその通りだった。もちろん、それが自然に出来上がったものか、施設関係者がわざと作ったものかは定かではない。でも、たぶん自然に出来上がったものだったろうと思う。見上げれば、確かに木の枝から生えている椿があったから。

 苔に覆われた地面の緑色と、葉っぱが覆う空の緑色とに、椿がそっと艶やかな赤色を添えている。椿の花にとっては、枝につながっているか、枝から離れているかはこだわらないのだろう。彼女たちは、ただ緑色を背景にした自分たちの赤色の美しさのみを知り尽くしている。だからこそ、枝から切り離された、死んでいるはず花であっても、あれほどの生命感が漲っているのだ。それこそが椿にとっての生なのだ。むしろ、苔むした地面で赤く映えている椿の花のほうが、枝とつながっている花よりも、いっそう生き生きとしているように感じられた。

 

 椿の花と苔による、偶然できあがった芸術の鮮やかな印象を忘れられないまま、「平安の庭」と題された庭園へと移動した。こちらは、「春の山」の派手やかさと比べて、実に枯淡だった。目にうつるのは、灰色の砂利、松の木の黒い幹と深緑の葉、大きな池と散りばめられた岩、池へと控えめに流れ込んでいる小さな小さな滝、などなど。しかし、美しさという点では、少しも「春の山」に劣らない。

 庭というのは、まったくもって立体的で、なおかつ流動的だ。

 それはどの方向から眺めても、一幅の絵画を凌ぎ、けっして一定の構図に収めてしまうことはできない。もしそうしたら、庭から無限の広がりを奪ってしまうだろう。見るものが実際に入り込んで、自らが景色を造形することのできる、未分化の芸術空間、それこそが庭なのだ。そして、庭は常に、偶然にして必然の、自然の動きによって千変万化の表情を我々に見せてくれる。そこでは、天高く照る日も、垂れ込める雲も、突然降り出す小雨も、水の流れも、落ちた椿の花も、飛び交う小鳥も、鳥のさえずりも、木々の揺らぎも、すべてが芸術のひとつの要素として存在し、庭は、永遠に完成することはない。いわば、絶えざる創造が、そこにはある。

 

 見るべきものをすべて見終え、城南宮を後にした。太陽はもうすぐ山の向こうへ沈もうというころで、空気は段々と肌寒くなってきていた。しかし、心は温かい。

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