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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

芸術が人を救うわけないじゃん、という話のはずだった

 これまで、僕は、生活のありとあらゆる領域で、感情というものの価値を認めていなかった。たとえば、映画を見てに”泣けた”という人や、小説を読んで”共感できた”という人たちが、どちらかと言えば気に入らなかった。

 僕は、むしろ思考を重視していた。映画を見て、小説を読んで、何を考えることができたか、あるいはこれから考えることができそうか、それが僕にとっての評価基準だった。それは今でも、もちろん、変わらない。だが、以前よりは、感情的なものを過小評価する偏りは正されてきた。

 それには、乏しいながらも色々な経験が必要だったし、今でも、過度に感情的な人や集団を見ると、ぞっとしてしまうのは抑えがたい。ある集まりが、段々と感情を共有し、そして熱狂へと昇華していくとき、僕はやはり、いつまでも地上にへばりついて、高みへ昇っていくかつての仲間たちを見上げていることしかできない。

 

 よく、”芸術は人を救う”というようなことを言うアーティストがいる。僕はそういう連中を好まない。そういうアーティストは、紛い物か、控えめに言っても、あまりにも傲慢だ。なぜなら、”芸術は人を救う”という発言は、より正確に言うのであれば、”(私の)芸術は人を救う”という発言に他ならないからだ。それは、自分を神にも等しい存在だとする、甚だしい思い上がりだ。

 芸術家は、けっして神などでないし、また、芸術は人を救ったりしない。

 こう言うと、たぶん、”いや、自分は辛いとき芸術に救われた”とおっしゃる向きもいらっしゃるかと思う。それはそれで、結構なことだと思う。しかし、僕に言わせれば、それは”救われた”のではない。ただ、”気分を晴らしてもらった”だけだ。辛いことがあって落ち込んでいるとき、芸術を見て少しだけ心が癒される。そういうことは、当然ある。そしてすばらしいことだ。だが、それは”救い”ではない。

 僕自身、長いあいだ、自分は”芸術に救われた”人間だと思ってきた。(個人的には)いちばん辛かった時期に、クラシック音楽を聴いて、癒やされたり、慰められたり、鼓舞されたり、叱咤されたり、そういうことは、よくあった。そして、それがあったからこそ、生き永らえてこられたと、そう思ってきた。しかしよくよく考えてみれば分かることだが、音楽を聴いて癒される程度の傷は、ほんとうは、大したことはないのだ。芸術という”第三類医薬品”に頼らなくても、じゅうぶん自然治癒していく傷だ。そんな傷で、死んでしまうほど人間は弱くもないし、また強くもない。

 では、芸術が”第三類医薬品”だとすれば、”第一類医薬品”はなんだろうか。僕が思うに、それは”愛”だ!……

 と、言いたいところだが、違う。

 それは、あくまでも、やっぱり、またしても、どう考えても、残念ながら、”金”だ。

 芸術がなくても、愛がなくても、友がなくても、生きていける人間はいるだろう(もちろん、それらがないことを苦にして死ぬ者もいる)。しかし、金がなくて(つまり、まったく無一文。すかんぴん。すっからかん)、それでも生きている人間は、ほんとうにごくごく少数だ。少なくとも、今の先進国社会では、そういうことになっている。もちろん、物々交換による社会システムを維持している(遅れているのではない)社会が世界にあるとすれば、そこでならば金なしでも生きていけるだろうが、幸か不幸か、先進国の一員とされてしまっているこの日本では、苦しんでいる人を救えるのは、金を置いて他にはないのだ。

 しかし、それは絶対に、悪いことでも、汚いことでもない。

 金は、多くの人が思っているのと違って、実は、かなり無色透明なのものだ。

「買うとは、選択の自由のひとつのかたち、無限定の可能性の一形態だ。買うのを見あわせるという自由をも含めた可能性である。/だから、金は現実よりも清潔で、まぶしく美しい。それなのに私たちは、金は不潔だ、金はきたならしい、と感じることがある。もっとも、それはべつだん驚くべきことではなかろう、金もまた、私たちが手を触れるすべての記号――とりわけ言語――と同様に、美しかったり、みにくかったりする。」―佐藤信夫『レトリックの記号論』(p.142)

 貨幣経済を基盤としている社会では、金とは、その社会に存在するほとんどありとあらゆるものを意味している記号である、ということだ。そこには、「買うのを見あわせるという自由」も含まれている。ある意味では、金とは、持ち主の”ほしいもの”を意味する記号だとも、言えるかもしれない。もちろん、何かを買うためには、提示されているだけの代金を用意する必要があるし、結局は金で買えないものも、やはりあるだろう。(……いや、ないかもしれない。金で買った愛を、金で買った友達を、それでも愛や友達だと、心から信じることができる人間が仮にいたとすれば、それはきちんと、愛や友達を金で買ったことになるのではないか?)

 金は、万人にとって”救い”となることができるということだ。その意味内容には、”救い”の可能性もしっかりと、含有されているから。

 反対に、芸術とは、人びとから金を奪う。金を払わない客に演奏するミュージシャンや、物語を楽しませる小説家/映画製作者/マンガ家などは、なかなか想像もつかない。チャリティー・コンサートだって、一旦は、客から金を取り上げて、ちょっとした罪滅ぼしのつもりで、寄付するだけにすぎない。チャリティ・コンサートの寄付の対象になるような、ほんとうに”救い”を求めている人びとは、絶対に、チャリティー・コンサートに足を運んだりしない。というか、できないのだ。

 だからこそ、僕は、”芸術は人を救う”などというようなことを、軽々しく言ってのけるアーティストを好まない。というより、憎んですらいる。

 特に、天変地異が起こって災害が発生すると、欣喜雀躍として飛びついてきて(そう僕の狂った眼には見える)、”今度の作品は、災害をテーマにしました”とか、”被災者の救いとなるような作品を目指しました”とか、”災害をきっかけに自分の創作を見つめ直しました”とか言う奴ら、あいつらは、ほんとうに、許せない。腹が立つ。憤りを抑えきれない。そんなもの、食い物にしてるだけじゃないか。芸術なんて、ほんとうは下らないってこと、分かってるのか。災害の現場で、文字通り命をかけて戦っている方々に比べて、家でのんきにテレビを見て、創作なんかをのうのうとやっている人間は、絶対に、アーティストではない。アーティストで、僕と同じようなことを言ってくれるのは、せいぜい甲本ヒロトくらいしかいない。嘆かわしいことだ。

 (ちなみに、言わないほうがいいのかもしれないが、僕はここで、明確に『君の名は。』という作品と、新海誠について述べている。あれは、ひどい作品だと思う。作品だけなら、まだエンターテイメントとして上出来なものだったかもしれないが、新海は、震災の影響を明言してしまった。非常に罪深いと思う。その発言も、”入れ替わり”を駆使して、なかったことにできればいいですね、監督。)

 

 さて、感情の話から、ずいぶん脱線してしまったものだ。だが、そろそろ伏線を回収しなければいけないだろう。物語に登場した拳銃は発砲されなければならないと、ソクラテスだったかトマス・アクィナスだったかトルストイだったかチェーホフだったかが言っていたのだし。

 僕は、このブログを書いているとき、これっぽっちも、”救い”などということを考えていない。(もちろん、このブログは誰が見ても芸術ではない。僕だって、芸術作品のつもりで書いているわけではない。だが、形態は小説と変わらない。文字媒体だから。)僕のブログを読んで、お金儲けの作戦を立案できる人など、間違いなく存在しないからだ。(そもそも、書いている人間にも、一銭も入ってこない。)

 では、僕はどんなことを考えて、こう言ってもよいならば、目的にして、このブログを書いているのか。自分のため、というのは当然あるとして、数少ない読者に対してはどういう姿勢をもって臨んでいるのか。

 それは、僕の記事を読むためにかけた数分を、無駄ではなかったと思ってもらうこと、ただそれだけだ。

 僕はその程度の、カスみたいな目的が、アーティストのもつことができる、ただひとつの目的だと、そう信じている。少なくないお金を払って、少なくない時間を割いて(どちらも、人生においてあまりにも貴重なものだ)、自分の芸術作品を鑑賞しようと思ってくれた人に、少なくとも、少なくとも、少なくとも……、”無駄ではなかった”と、そう思ってほしい。”あーあ、時間と金が、もったいなかったなあ”、なんて思わせたくない。ほんとうに、それだけだ。

 それから、できれば、あくまでも、できれば、わずかでも、僕のブログから、読者が何かを得られたら、それは、比喩ではなく、飛び上がって喜ぶ。涙も流すかもしれない。どんなことでもいい。癒やしでも、慰めでも、励みでも、元気でも、勇気でも、やる気でも。たった一行でも、共感できる文を見つけてもらって、その文に出会えてよかった、と一瞬思えて、たとえ明日には忘れてしまっていても、一向に構わない。でも、僕は”あなた”のことを、いつまでも覚えている。

 そして、もし仮に、僕のブログが、誰かを”救う”ことができたのなら、そんなことは絶対にできないと、口を酸っぱくして言ってきたけれど、間違いと間違いの乗算が起こって正しいことになって、僕のブログで、誰かが”まだ1日くらいは生きていよう”と思えたのなら、”明日も頑張ろう”とだけでも思えたなら、僕は、”あなた”のために、あなたがそう思うためだけに、膨大な時間と、僅かな経験と、乏しい才能を削って、必死になって言葉を紡いできたのだと、そう断言してもいい。