雑感など

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気が利くひと

 あなたにも、気が利く人と聞いてすぐに思い浮かぶ知人が何人かいると思う。僕もそういうひとが何人かすぐに思い浮かぶ。気が利くというのはどういうことか、ちょっとあいまいだけれども、たとえば、食事の席で空いたグラスを見つけて飲み物を注いであげるとか、街中で観光客がカメラをもってキョロキョロしているのを見て、撮りましょうかと言ってあげるとか、なにかしらの機械の前で戸惑っている老人がいたら操作を教えてあげるとか、そういうことをするひとは、たぶん気が利くひとだと言われる。共通しているのは、困っているひとを、助けを求められる前に自分から助ける、ということだろうか。

 僕は気が利かない。自分のお世話をするのにも精いっぱいなのに、どうして、かいがいしく他人の世話を焼くことができるというのか。自分のグラスが空いても、飲み物が近くになければ注がないし、自分が写っている写真など撮りたくもないし、機械の操作がわからなかったら諦めて家に帰る。面と向かって気が利かないと指摘されたことはないけれど、まず間違いなく思われているだろう。それは自分でも認める。

 気が利くひとの周りには、僕みたいなひとが集まる。なにか必要がものがあるんだけどそれの名前がわからないとき、「あれがほしいんだけどなあ……」と言うと、それだけでなにが必要かを察して、もってきてくれるひとがいる。そのときいる場所や会話の文脈、話し手の仕草などから推察するのだろうけれど、もはや名人芸といってもいい。そういう、名人級の気が利くひとの周りにいると、甘えてしまって、ますます自分でなにかをすることがない人間になっていってしまうのだろう。だから、気が利くひとの周りに僕みたいなひとが集まるというより、気が利く人の周りにいると僕みたいになってしまうのだろう。

 でも、あるとき、ふと気がついた。「あぁ、このひとは、気が利くなあ」と思っているとき、それは、そのひとに気を遣わせているとき、なんじゃないだろうかと。もちろん、気が利くひとのなかには、それが好きでやっているというひとも少なからずいた。けれど、いくら好きでやっているからといっても、他人に気を利かせているあいだ、そのひとが自分の人生の貴重な時間をほんのわずかでも削っていることは紛れもない事実としてあるわけで、ということはやっぱり、気が利くひとにたいして私たちは、気を遣わせているのだ。

 そのことに気づいてからは、「あぁ、このひとは、気が利くなあ」と思うたびに、なんだか罪悪感を覚えるようになった。自分がどれほど周りに気を遣わせているのかを思い知らされた。とはいっても、気が利くというのは付け焼刃の技術ではないから、僕がいまから気が利く人間になろうと思えば、けっこう時間と労力がかかる。それでは仕方がない。今すぐにできることをしなくてはいけない。

 たどり着いた結論は、とてもありきたりだけれど、気を遣ってもらったひとに対して感謝をするということだ。いや、感謝をするだけでは不充分で、それをしっかり言葉にして伝えなくてはいけない。素朴なことばでいい。ありがとう、でいい。すみません、ごめんなさい、よりはずっといい。日本語では、謝罪も感謝の言表にふくまれているけれど、僕は感謝の気持ちを表明するために謝罪したくはない。ありがとうならありがとう。すみませんならすみません。そういう部分は、”正しい言葉”を使うべきだ。”ら抜き言葉”なんかより、もっとずっと大切なことだと思うのだけれど。

 だれかに気を遣ってもらったとき、すみませんではなくて、ありがとうを言えるひとでありたいと、そう思っている。そして、ゆくゆくは、自分も気が利くひとになりたいとも、たぶん思っている。

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