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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

部分と全体--人生の算数についての一考察

 ”全体は部分の総和にあらず”という言葉をたまに目にする。たしか、外山滋比古『思考の整理学』で紹介されていた言葉だ。インターネットでもよく見かけ、”全体は部分の単なる総和以上のものである”とか、バリエーションはいろいろあるけれど、どれもだいたい同じことを言っている。検索すると、アリストテレスとかゲシュタルト心理学とかホーリズムとかいっぱい出てきて、けっきょくこの考え方のオリジナルがだれ/なになのかはわからない。けれど、気に入っている言葉のひとつだ。

”1”を100回足しても”100”にはならない算数

 全体は部分の総和にあらず。けだし、そのとおりだ。

 学校で教わる算数では、”1”を100回足せば”100”になると教わる。これはもちろんウソではない。もし”1”を100回足した和が”100”ではなくなったら、いままで人類が築き上げた数学のすべてが根底から崩壊する。そんなことは当然あってはならない。だから、算数の世界では、全体は部分の総和であるとみてもよい。

 ところが、人生の算数においては必ずしもそうではない。”1”を100回足したからといって、”100”になることばかりではない。というよりも、絶対にならないのではないか。どれほど頑張ったところで、せいぜい”99.8”とか”99.9”が限界で、けっして”100”にはならないのではないか。たかだか”0.2”や”0.1”だが、それでも間違いなく”100”ではない。限りなく”100”に近い”99”に過ぎない。それを”100”だと言い張っても虚しい。身長169cmの人が必死で170cmと同じようなものだと言い張るのと同様に。

幸せになりたい

 議論がすこし抽象的すぎたかもしれない。卑近な具体例で考えてみよう。僕の経験を基にした、「人生の算数についての一考察」である。

 僕は、いままでの人生において、あるひとつのことを常に悩み続けてきた。それは、人生が幸せだとぜんぜん思えないということだ。「あるひとつのこと」と言い切ってしまうにはあまりにも大きすぎる問題かもしれない。もちろん、人生とはそういうものだ。人生とはつまらない。人生とはくだらない。そんなふうに一刀両断してしまえるなら、晴れてこの問題は解決する。しかし、僕はそんなタフな人生論で生涯を送ることができるほど強くはない。

 幸せの定義などについてあれこれ議論するつもりもない。あえていうのならば、心が満ち足りた状態であることは間違いないだろう。なにによって幸せになるかというのは人それぞれ、千差万別だろうが、心がなにかを渇望している状態で幸せになれる人がいるとは思えない。だからこそシッダールタは、そもそも欲望をなくしてしまえばいいじゃん、と説いたのだろう。

 だが残念なことに、現代において渇望をなくして生きていくことは大仕事だ。一般に、欲望を抑えることは美徳だとされている。しかしそれは真っ赤なウソである。酒もタバコも風俗も興味がない、ご馳走なぞめったに食わず、車も必要としない。たまの休みにはカラオケやボウリング、ディ□ニーやUSJに行くよりも家で静かに本を読んでいる。海外旅行よりも近所を散歩することに歓びを見出す。そんな人間がどういう目で見られるかを考えてみれば充分ではないか。もちろん、性欲を抑えきれずに強姦するとかはとんでもないことだ。だが、もし欲望を完全に抑える(あるいは火を吹き消すようになくしてしまう)ことができる人がいたとしよう。その人は、きっと、いっさい社会の役に立たないゴミクズとして処分されるか、すくなくともキチガイとして軽蔑されるだろう。物欲がないから金はいらない。出世欲もないからへーこらしない。性欲もないから結婚しない子ども作らない。こんな人間は、欠陥品扱いされるのがオチである。

 むしろ、とにかく強い欲望をもった人間を、現代は歓迎する。凡人ではありたくない、人と違う存在でありたい! すこしでもいい大学に入って、すこしでも大きな会社に就職したい! 祖国に閉じこもってはいたくない、グローバルに活躍したい! 一銭でも多く金を稼いで、その金で遊びまくりたい! そういう人間こそが、現代社会が求めるところの人材である。もちろん、あまりに強すぎる欲望を抱えている人間は、それはそれで、出る杭はうんたらで忌避されるかもしれないが。

 というわけで、欲望を断ち切ってしまうということは、どうもできそうにない。だったら、欲望を満たすために、とりあえず何か活動をしていく以外に道はなさそうである。幸せになるための活動、といえば、まずは”楽しいこと”をするに限る。幸せになるために”苦しいこと”をする者はいないだろう。たしかに、大きな目標を達成するために苦しいことでもコツコツとこなす、というようなストーリーはあるけれど、それは必ずしも”苦しいこと”と言えるのか、疑問の余地がある。それに、人間、易きに流れるのが性というものだ。できるなら苦しいことなどしたくない。楽しいことだけしていたいではないか。

楽しいことをいくら積み重ねても楽しくない

 さて、それでは、楽しいことをコツコツこなしていくと決めたとする。楽しいこととはなんだろうか。まあ、たとえば友だち(恋人)と遊ぶとか、本を読むとか、映画を見るとか、音楽を聴くとか、旅行をするとか、スポーツをするとか、登山をするとか、それこそ十人十色とまではいかないにしても、いろいろあるわけだ。

 そこで代表例として、友だちと遊ぶことを例に取ってみよう。

 友だちと遊ぶのは実に楽しい。とくに、友だち数人を自宅に招いて散々ぱら喋り散らすことほど、時間が早く過ぎ去っていくこともなかなかない。

 駅まで迎えに行って、帰りにコンビニでスナック菓子とかジュースとかをたくさん買い込む。家に着いたら、さっそくお菓子をむさぼり食いながらいろいろなことについて話しまくる。近況報告、世間話、将来について……などなど。それはとても面白い。気心の知れた友だちどうしであるから、一から十まで話さなければいけないということもない。そういう気楽さがいい。何より、自室という本来孤独なはずの空間が人で満たされるのが心地よい。自室はさまざまな活動の拠点にはなるが、勉強するにしても読書するにしてもネットサーフィンをするにしても、みんなひとりでやる。だから自室と静寂はセットみたいなものだ。その自室に友だちと自分の笑い声が響くというのは、いかにも非日常で、愉快だ。

 ところが、光陰矢のごとし、楽しい時間ほど、驚くべき早さで駆け抜けていくものだ。時計が針を進め、日が遠くの山へと沈んでいくにつれて、お開きムードになっていく。もちろん泊りがけで語り明かしても構わないわけだが、学校や会社があるとなかなかそうもいかない。ほんとうに束の間の非日常から、日常へと帰っていかなければならないときがやってくる。宴もたけなわで、重い腰を上げて、それぞれの帰路につく。駅まで送っていくあいだも、会話は絶えない。

 しかし、友だちみんなが乗り込んだ電車が発進していく。その車窓の灯りが見る見るうちに小さくなっていって、夜のとばりの向こう側へと消えてしまったら、途端に寂しさが押し寄せてくる。いったいこの寂しさはなんだ。さっきまであれほど楽しかったのに、まるで夢から覚めたようだ。とぼとぼとした足取りで家路をたどる。ぼんやりとにじんでいる街灯も、いかにも寂しい。

 家までたどり着いて、自室の部屋を開けたとき、そこに残っているのはいったい何だ。食べ散らかしたお菓子のゴミ、空っぽになったジュースのペットボトル、友だちが座った跡を留めている座布団、いつもと違う自室のにおい……それから、ふだんは気にならなかったはずの、静まり返った自室、それだけだ。

 もうすでに、ついさっきまで”楽しいこと”をしていたなどとは夢にも思われないようになっている。すこしも幸せに近づいてなどいないようだ。何がまずかったのか。そのときの僕は、回数の問題だと思った。1回では足りないのだと。こうやって楽しいことを、できるだけ高い頻度でしなくてはいけない。そうすれば毎日のうち楽しいことをしている日のほうがだんだんと多くなって、いつかは幸せになれるかもしれない。そういうふうに考えてしまったのだ。

 それで、楽しいこと”1”をどんどんと足しまくった。友だちと遊ぶだけではない。読書をしたり、映画を見たり、音楽を聴いたり、たまには外に遊びに行くこともあった。しかし、どれだけ楽しいことを積み重ねていっても、”100”の楽しさを得ることはできなかった。むしろ、足していくそばから引かれていって、プラスどころかマイナスになっているような感覚すらあった。

 当たり前のことだが、楽しいことはいつか必ず終わる。それもかなり早く。友だちと会って話すのは、長くてもせいぜい2日か3日ぐらい、読書もほとんどの本は3日あれば読み終わることができる。映画はたった2時間程度、音楽など5分で終わるものもたくさんある(僕の好きなクラシック音楽は2時間くらいかかる作品もあるけれど)。これらはもちろん、やっている最中はとても楽しい。よく、一日幸せでいたければ云々ということわざめいた言葉を目にする。まさに、三日幸せでいたければ読書をしなさい、である。その作品を読破するまでは、読んでいないときでも、続きが読みたくてウズウズする気持ちを楽しむことができる。ただし、読み終わったあとのことは保証できない。

 僕の生活は、次第に楽しいことで満たされていったけれど、どうしても空いてしまう隙間を埋め尽くすことはできなかった。当然だ。人間は常に何かの活動をし続けることなどできはしない。だが僕の悩みはまさにそこだった。何かをしているときはいい。しかし、何もすることがなくなって部屋の床に寝っ転がると、途端に虚しさが覆いかぶさってくる。膨大な材料を用いて、大きく豪華な家を建てたけれど建て付けが悪く、そこかしこから隙間風が吹き込んできて、どうしようもなく寒いのだ。

 全体は部分にあらず。言い換えれば、部分を足し続けても全体にはならないということだ。

経験よりも大事なこと

 さて、僕はこの問題についてひとつの解答を得ることができた。個人的にはとても納得しているので、せっかくだから記事にすることにした。

 結論から言うと、解決策は、”ライフワークをもつ”ことだ。

 ライフワークというのは、端的に言えば、一生涯をかけた仕事のことである。といっても、単なる仕事というだけの意味ではない。自分がそれにやりがいを感じられるような、それが生きがいだと思えるような、自分の人生に深く根ざしていて不可欠な、そしてなによりも、それをすることが歓びであるような、そういう仕事というニュアンスがある。だから、一生涯をかけた仕事をせずに済む人間はいないけれど(稀にいるかもしれない)、ライフワークをもつことができずに一生涯を終えてしまう人はたくさんいるだろう。(反対に言えば、上に言ったような条件さえ満たしているなら、ライフワークは趣味的なものである必要はなく、会社勤めでもいっこうに構わない。)

 重要なのは、”ライフワーク”と”趣味”とは似て非なるものということだ。趣味は受け身でもできる。たとえば、読書や映画/音楽/美術鑑賞、スポーツ観戦、ほかにもいろいろあるが、それらは原則的に受け身の趣味である。だれかが作ったものや、だれかが何かをしているのを、受け身で楽しむ。読書好きのほとんどは本を書かないし、スポーツ観戦が好きな人みんなが選手を兼ねているわけではない。趣味とはそういうものだ。

 対して、”ライフワーク”は、能動的な営みだ。何をライフワークにすればいいか考えるときに手っ取り早いのは、趣味を受動から能動に反転させてしまうことだ。たとえば読書なら、文章を書くことに。音楽鑑賞なら、楽器演奏に。スポーツ観戦なら、スポーツをすることに。いずれにせよ、オーディエンス(鑑賞者/消費者)であることはライフワークにはならない。必ず、プレイヤーでなければならない。もちろん、得意不得意というものがあるから、必ずしも趣味と一致させる必要はない。スポーツを見るのは好きだけれどやるのは苦手だ、という人は、楽器演奏をライフワークにしてもいい。ただし、肝心なのはやはり得意であることより好きであることだ。そういう意味で、趣味を反転させてライフワークにするのがいちばん確実なのだ。

 さて、ではなぜライフワークをもつことで幸せになれるのか。それは、単に楽しいからではない。隙間を埋めることができるからだ。ではなぜ隙間を埋めることができるのか。呆れるほどに簡単なことだ。理由は、ライフワークに隙間などありえないからだ。

 ライフワークとは、自分の人生に深く根ざしていて不可欠な仕事だと書いた。これをもうすこし展開すると、ライフワークとは、自分の人生における諸々の経験を動員して取り組む仕事だということになる。だから、ライフワークをもつと、楽しかったこともつまらなかったことも、嬉しかったことも悲しかったことも、辛かったことも報われたことも、すべての経験に意味を見出だせるようになる。

 経験とは、つまりは部分のことだ。最近は、やたらと経験をもてはやす風潮がある。僕はこれがよくないのではないかと思っている。その考え方を、勝手に、”経験ベースの人生観”と呼んでいる。経験ベースの人生観は、ただひたすら目新しい経験の数を求める。変わらない日常を継続することよりも、「ここではない、どこかへ」飛躍しようとする。とにかく人とは違うような経験をひとつでも多くしているということが至上の価値となる。だが、日常のなかで、ライフワークによって経験を反省し、そこに意味という一貫性をもたせることができなければ、ひとつひとつの経験はいいものでも、無意味な散らばり以上のものになることはない。部分を足し続けても全体にはならないのだ。

 ライフワークのもうひとつ重要な点は、それが一生涯に及んでいるということだ。読書にしても旅行にしても人と会うことにしても、経験というのは、基本的に一日を単位としている。だから、経験によっても、一日幸せでいることはできる。だが一生涯幸せでいるためには、経験だけではぜったいに無理だ。ライフワークは、一生涯、常住坐臥(座っていても寝ていても)続いている。だから隙間がない。日常の、ほんとうに取るに足らない、ほんとうにつまらないことからも、ライフワークのための着想を得ることはあり得る。それは、長い長い生涯に、意味という一貫性をもたせることにほかならない。

意味という接着剤

 ちなみに、僕のライフワークは、もちろん文章を書くことである。そして、文章を書くことはライフワークとして極めてふさわしい。なぜなら、文章には意味が不可欠だからだ。一見すると無意味に思えるような脈絡のないできごとの数々を、文章として再構築する過程で、意味という一貫性で繋ぎ合わせていくことができる。そして、文章を書くためには、砂粒のように些細な着想だって取り逃がしてはならない。物書きがライフワークの者にとって、ほんとうの意味でまったくもってどうしようもないほど無意味なことなど、存在し得ないのだ。これ以上に幸せなことはない。

 ライフワークとして文章を書くようになってから、僕は人生に対して見違えるほど意欲的に、貪欲になった。以前は、できれば何も経験したくないなどと思っていた。趣味もこれといってなかった。読書もしなければ映画も見ない、音楽も聞かないという生活を送っていた(いったい何をしていたのだろう)。とにかく、自分という存在に何かが入り込んでくることが嫌だった。今なら、それがなぜだったかわかる。入り込んでくるばかりでは、いつかパンパンに膨れ上がって爆発してしまいかねないということを、本能的に恐れていたのだ。経験を取り入れるばかりではいつか飽和する。そして、それは思っている以上に危険なことで、ひょっとすると廃人みたいになってしまうかもしれない。

 しかし、文章を書くことを覚えた僕は、自分という存在に何かが入り込んでくることは、けっして恐れるべきことではないと知った。むしろそれは歓迎すべきことなのだ。今の僕は、際限なく入り込んでくる経験をそのまま放ったらかしにすることはない。それは僕によって受け止められ、解釈され、整理され、再構築され、そして再び世界へと還されていく。世界と僕は今、とても有意義な繋がりをもっている。世界と自分に確かな繋がりをもてること、世界と自分のあいだで循環ができること、これはとてもすばらしいことだ。これからも、ライフワークとしていつまでも続けていきたい。というより、そうしなければ僕はもう幸せになどなれない。満足できない。

 部分を足し続けても全体になることはない。部分を、意味という接着剤で繋ぎ合わせ、全体としてまとめる営みをしなければならないのだ。

 みなさんも、ぜひライフワークをもつべきだ。僕のおすすめは、やはり文章を書くことである。なんでもいい。小説でもエッセイでも。あるいはなにか詳しいことがあるのなら、それについて書いてみてもいい。あなたの文章を読みたいという人は、必ず世界のどこかにいる。そして、それがあなたと世界との繋がりをつくる。思えば、私たち一人ひとりもけっきょくは部分である。部分だけでは幸せにはなれない。部分は、意味という接着剤で繋ぎ合わされ、全体としてまとまらなければならないのだ。