雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

習慣についての覚え書き

 習慣の大事さについての議論は各所でたいへん喧しく行われている。同時に、習慣をもつことの難しさについても、そこかしこで論じられている。習慣というものがもつ意味がそれだけ大きいということだろう。僕もいくつか習慣をもっているが、それらの習慣がなんとか定着するまでに、けっこう時間がかかった。定着せずにやめてしまった習慣もたくさんある。続いたけど効果がなかったものもある。そうした試行錯誤のなかで少しずつ分かってきたことを、覚え書き程度にまとめておこうと思う。なにかの役に立てば幸いである。

 私見では、習慣をもとうとして挫折する原因は、だいたい似たり寄ったりだ。最初に断言しておくが、意志の欠如ではない。強い意志をもたないと継続できないのであれば、そもそも、その行為は習慣として不適切なのだ。少なくとも僕やあなたにとっては。習慣の例としてよく歯磨きが挙げられる。この例はあまり適切ではないと思っているが、ひとまず採用しよう。歯磨きを継続することに意志が必要だろうか。まったくそうではない。もちろん、ひどく疲れているときなどは、歯磨きをせずに就寝してしまうこともある。だが、疲労による中断はけっして問題ではない。

 ほんとうの原因として第一に考えられるのは、習慣の内容がぼんやりしていて明快でない場合だ。たとえば、「3日に1回ランニングをする」という習慣をもつと決めたとしよう。一見すると、非常によい習慣に思える。だが、これでは不十分だ。「3日に1回、夕食のあと30分してから、疲れない程度の早さで、近所の川沿いを3往復、ランニングする」と、こんな具合に、できるだけ具体的かつ詳細であるほうがいい。ひょっとすると僕だけかもしれないが、こんなふうに微に入り細に入り条件を課しておいたほうが、なんとなくやる気がでないときでも実行できる。「ランニングするぞ!」と思うとなかなか腰が上がらないが、「近所の川沿いを、疲れない程度の早さで、3往復走るぞ!」と思うと、不思議とそれほど面倒に感じない。なぜだろうか。

 さて、挫折する第二の原因は、その習慣をもつことに対する意志が強すぎる場合だ。上でも触れたように、一般に、習慣をもつためには強い意志が必要だと考えられている。しかし、強すぎる意志はむしろ邪魔である。というのも、僕やあなたが「強い意志」だと思っているものは、単なる「その場の思いつき」であることが多いからだ。「ヨッシャ、これから3日に1日ランニングしたるで!(なぜか関西弁)」という「その場の思いつき」を、とかく私たちは「強い意志」と混同しがちだ。お察しの通り、「その場の思いつき」による行為が長続きするはずもない。

 「強い意志」の弊害のふたつ目は、なんらかの事情で習慣を実行できなかったときに、一気に挫折してしまうおそれがあることだ。ありがちな話だが、習慣を完璧に実行し続けることに闘志を燃やしすぎると、完璧さにほんのわずかな傷がついただけでもう意味がなくなるように思い込んでしまう場合が多い。こういう人は、手段が目的化しているのだ。習慣とはなにかをなしとげるための手段にすぎない。だから習慣を実行し続けることそれ自体にはなんの価値もないのだが、まじめな人ほど、とりあえず欠かさず継続するということが第一目標だと勘違いする。もちろん、継続は習慣には欠かせない要素だが、たった一回や二回、あるいは五回やらなかったからといって、それは全体としての継続性を失うことを意味するわけではない。だから、実行できなくてもまったく気に病む必要はない、というよりも、気に病んではいけない。まあいいか程度に思っていれば構わない。

 手段の目的化が引き起こすもっとも悪い事態は、気休め程度に実行して、それで継続している気になってしまうことだ。たとえば、「3日に1回ランニングをする」という文言にこだわりすぎるあまり、ほんの数分程度走って、「よし、今日も実行できたゾ」などというインチキしをしだしたら最悪だ。一回そういうインチキを覚えると、その後また正常に戻すことはなかなか難しい。そうやってインチキを繰り返すうちに、けっきょく、やらなくなるのがオチだろう。この事態を防ぐためにも、できるだけ細かいルールを設定しておくのがいい。そのルールを守れないようだったら、思い切ってその日は休む。で、次回からまた愚直なまでにルール通り実行する。逆もまた然りで、調子がいいからといってやりすぎるのもよくない。それから、よほどのことがないかぎりきちんと実行できる程度のルールを設定しなければならないのは、もちろん言うまでもない。

 最後に、習慣とは身につけるものではなく、発掘するものだと、最近の僕は考えるようになった。少し分かりづらいかもしれない。たとえば、「3日に1回ランニングする」という習慣を身につけようとして、失敗したとする。ところが、「2日に1回」あるいは「4日に1回」なら継続できるということがあるかもしれない。というか、僕の場合、こういうことがけっこうあった。同じ「ランニングをする」という行為であるにもかかわらず、ほかの、一見すると些細な条件によって、継続できるかどうかが変わってくるのだ。こういった場合を踏まえて、僕は、習慣とは身につけるものではなく、発掘するものだ、という表現を考えついた。つまり、「3日に1回ランニングをする」という行為を継続することができた人は、最初からその人の身体に内蔵されて眠っていた「3日に1回ランニングをする」という習慣を発掘したのであって、買ってきた衣服を着用するようにどこかからもってきた習慣を身につけたのではないということだ。

 もちろん、これは純粋に表現上の問題なので、実際は「身につけた」のだろうが「発掘した」のだろうがどっちでも構わない。しかし僕が言いたいのは、自分と相性のいい習慣でなければ身につけることは不可能に近く、だからこそ、なにかひとつの習慣が身につかなかったからといって習慣化が下手なのではなく、したがって気落ちすることなく試行錯誤を続けるべきだということだ。「3日に1回ランニングをする」ことには向いていなかったとしても、「4日に1回ランニングをする」ことには向いているかもしれないのだ。あり得る可能性すべてを試してみて、それでも続かなかったのなら、それは仕方ない。その行為を習慣化しようとするのは諦めよう。

 でも、この記事に書いたような思い込みを捨ててしまえば、たぶん、割にたやすくいろんな習慣を身につけることができるようになると思う。肩肘張らないことだ。気張りすぎないことだ。なんといっても、習慣というのは一生付き合っていくものなのだから、一生を連れ添う伴侶を選ぶように、慎重に選ばなければいけないのだ。