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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

責任について―恩寵としての責任、責任としての恩寵

 人が生きていくうえで、責任というものはぜひとも必要だろうか。

 それとも単なる重荷に過ぎないのだろうか。

 そもそも責任とはなんだろうか。

 僕のお気に入りの辞典『学研国語大辞典』は次のように定義している。

①まかされて、しなければならないつとめ。任務として負うべき義務。「主将としての―を果たす」類:責務

②〔ある事を行って生じた悪い結果に対して〕負わねばならない責め。償いとしてしなければならないつとめ。また、それを自分が引き受けねばならないという意識。「事故の―をとって辞職する」「―ある地位」「政府は誠意と―をもって、国内の周到な討議をつくすよう、さらに努力を続けることを要望する〈四三・六・一二・朝日朝・社説〉

 もうひとつ、『大辞泉』からも引用しておく。

1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての―がある」「―を果たす」

2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の―をとる」「―転嫁」

3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。

 大辞泉が法律上の責任についても触れているのを除けば、言わんとするところはほぼ同じである。学研の①と大辞泉の1とを折衷して、僕なりの定義を作ってみる。

 責任とは〈ある個人ないしは集団が、その立場や能力などの条件によって、他の個人ないしは集団に対して、果たすことが要求される任務〉のことである。

 用例として、学研は「主将としての責任を果たす」、大辞泉は「引率者としての責任がある」を挙げている。共通しているのは「としての」という部分である。この「としての」の頭にひっついているものがすなわち、「立場や能力などの条件」である。大辞泉は「立場」のみを挙げているが、単に立場というだけではなく、その人が主将ないしは引率者として選ばれた理由、すなわち「能力」も考慮すべきだ。

 ところで、「無責任」という言葉もある。学研は次のように定義している。

①責任がないこと。②《形動》自分の言動に責任を感じないこと。責任感に欠けること。「―に事実を脚色するのが平気な人もいます…〈宮本・伸子〉」「仕事を途中でほうり出すとは、何て―な奴なんだろう」

 大辞泉は次のとおりだ。

1 責任がないこと。「事故についての―を主張する」

2 責任を自覚しないこと。責任感がないこと。また、そのさま。「―な発言」

 こちらもほとんど違いはない。しかし、無責任という言葉にはすこし問題がある。なぜなら、この言葉が「責任がないこと」に対して使われることは極稀か、もしくは皆無と言ってもいいからだ。だが、実際には、ほんとうに「責任がない」事態だってあり得るのだから、ここは厳密に区別しておくべきだ。そこで、僕は「責任がない」という意味だけを表すあらたな言葉、「非責任」を提案したい。対義語として、「責任がある」ことを意味する「有責任」も同時に提出しておく。

 たとえば、パトカーで街をパトロールしている警察官がいたとする。怪しい人物がいないか目を光らせていると、歩道から手を挙げて合図を送ってくる市民がいる。車から降りて何があったのか尋ねると、「すみませんが、駅までお願いできますか」と言う。大事な用事に遅れそうなのだそうだ。この市民に対して、警察官は有責任だろうか。いや、まったくそうではない。警察官は非責任だ。もし彼がとても親切で、なおかつ上司にひどく叱られることを気に留めない鷹揚な人物であれば、ひょっとすると乗せていってくれるかもしれない。だがそれは期待できないだろう。

 警察官のご乱心を買った、約束の時間に遅刻しそうになって慌てている市民は次に、遠くのほうに見えてきたタクシーめがけて手を振り上げる。ところが、タクシーはものすごいスピードで彼の目の前を無慈悲に通り過ぎていった。このタクシーの運転手は市民に対して非責任だろうか。いや、まったくそうではない。タクシーの運転手は、目的地へと一秒でも早く到着したい市民たちに対して、かなりの程度で有責任だ。それが、タクシー運転手という「立場」および自動車の時速50kmで移動できる「能力」によって発生した責任である。その責任を果たさなかった運転手は、まぎれもなく無責任な人物ということになる。

 さらにいろいろな具体例で考えを深めてみたい。

 たとえば、あなたが特に用事もなく街なかを逍遥しているときに、二十段以上もある階段を見上げて力無げに佇んでいる、ベビーカーを押した女性に出会ったとする。あなたは助けるだろうか、それとも見て見ぬふりをして散歩を続ける? 選択は自由だ。問題は、あなたが女性に対して、非責任なのか有責任なのかということだ。これはさきほどのパトカーの警察官とタクシーの運転手という例よりは判断がやや難しい。だが多くの人は、あなたは女性に対して、非責任だと答えるだろう。もし仮に、その女性があなたの配偶者あるいは親類縁者であったとしたら、有責任だと答える人の割合はずっと多くなるだろうが、赤の他人の場合はきっとかなり低いはずだ。助けるべきだと答える人も、助ける責任があるとは答えまい。

 そのとおり。あなたは、二十段以上もある階段を見上げて力無げに佇んでいる、ベビーカーを押した女性に対して、何らの責任もありはしない。混じりけのない非責任だ。だからこの女性は、あなたが責任を負うべき範囲の外にいる。この、「あなたが責任を負うべき範囲」のことを、そっくりそのまま「有責任範囲」と呼ぶことにする。

 似たような例をもうひとつ。困っている女性を後にして楽しい街歩きを続行したあなたは、ずらりと並んだ自転車がことごとく将棋倒しになっている自転車置き場に行き当たる。さて、あなたはこれらの自転車をひとつひとつ起こしていくだろうか。きっとそうはしないに違いない。なぜなら、それらの自転車はすべて、あなたの「有責任範囲外」にあるからだ。あなたは何ひとつ間違った行いはしていない。そのことを自覚してもいるので、すこしの罪悪感もない。もちろん、僕はそのことであなたを非難しようとはみじんも思わない。

 議論をもう一歩だけ前進させよう。

 ずばり、責任とは、あったほうがいいのか、それとも、ないに越したことはないのか。

  多くの人はこう答えるだろうと推測する。責任なんて、なければないほうがいい、と。なぜなら、負わされる責任が増えれば増えるほど、自分のために使える時間と労力が減っていくし、もしその責任を果たすことができなければ、無責任だとの誹りを免れないし、無能だと罵られるかもしれないし、クビにされることもあるかもしれない、そんなことはまっぴらごめんだから、最初から責任なんてないほうがいいからだ。実に当を得た意見だと言える。

 とはいえ、それでは、まったくの非責任(無責任ではない)という状態を想像してみてほしい。あなたは、いかなる個人からもいかなる集団からも、何ひとつ果たすべき責任を負わされることはない。任務もなく、義務もない。自分がやりたいことを、自分がやりたいときに、自分がやりたいだけすればいい。それでだれにも咎められることがない。好きなときに好きなことができる。好きなところへ行ける。なんて自由で、なんて素晴らしいのだろう、あなたはそう思うだろうか?

 もちろん、そう思う人がいてもおかしくないし、あるいは大多数がそう思うのかもしれない。しかし、僕はそうは思えないのだ。いかなる個人に対しても、いかなる集団に対しても、まったくもって絶対的に非責任という状態は、この世界から何ひとつ期待されていないことと同じである。そしてそれは、もはや生き続ける理由などないことと等しいのではないだろうか。そう言って言い過ぎなのであれば、すくなくとも、世界から一切の責任を負わされていない自分の存在に、重さを感じることなどできないのではないだろうか。重さとはすなわち価値のことである。非責任とは、私たちに「存在の耐えられない軽さ」をもたらす災厄なのではないか?

 確かに、責任は容易に耐えがたい重荷となり得るものでもある。というより、多くの責任は私たちにとっては重圧であり、軽やかに人生を生きることを妨げる障害以外の何でもない。しかし、完全な非責任というのもまた耐えがたいものである。となれば、私たちが幸福に生きるためには、恩寵としての責任という可能性を探求しなければならないだろう。恩寵としての責任は、同時に、責任としての恩寵でもある。なぜなら、恩寵とは獲得するものではなく与えられるものであり、私たちはそれに対して報いなければならないからだ。恩寵としての責任、責任としての恩寵は、僕やあなたが現世という牢獄に留まり続けるただひとつの理由となることができる数少ないものだ。

 責任が発生する場面としてもっとも一般的なものは、職場である。そこではひとりひとりに仕事が割り振られ、遂行することが求められる。また、部下をもつ上司や、会社を担う社長などの責任はさらに大きくなる。だが容易に想像できるように、この責任が恩寵となることは期待できない。純然たる重荷である。なぜか。単純にきついからかもしれないが、きつさの伴わない責任というものはない。そのきつさこそが責任を責任たらしめ、また恩寵たらしめるのだ。では、なぜ職場の責任は重苦しいのか。それは、能動的に背負う責任ではなく、受動的に背負わされる責任だからだろう。必ずしも望んだわけでもなく背負わされた責任を、膨大な時間と労力を費やして、全人的に果たしていかなければならないことが重荷でなくて何だというのか。まるで、永遠に山頂まで岩を運び続けなければならないシジフォスの神話ではないか。

 しかしはたして、受動的に背負わされるのではなく、能動的に背負う責任というものかつてあっただろうか。いや、あったのである。それこそ私が恩寵としての責任、責任としての恩寵と呼ぶものなのだ。本来は非責任であったところのものを有責任へと積極的に転化させ、それを恩寵として享受するという行為があったのである。

 間違うはずもない。愛こそがそれである。

 いちおう、愛の定義も確認しておこう。学研、大辞泉の順番で引用する。

①人、物に対して、報酬がなくても尽くしたいと思ったり、自分の手もとにおきたいと思ったりする、暖かい感情。いつくしむ心。たいせつに思う心。

②ひとをしたう心。特に異性をしたう心。恋。

〔用例および以下省略〕

1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「―を注ぐ」
2 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。「―が芽生える」
3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する―」
4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への―」

〔以下省略〕

 今日的な観点からすれば、対象が「異性」にしぼられているという点で問題があるが、最新版ではおそらく改善されていると思われる。それはともかく、「責任」「無責任」と比べて、かなり語釈に違いがあるのが興味深い。愛とはそれほど定義が難しいものだということだろう。それぞれの語釈で注目に値するのは、まず学研の「報酬がなくても尽くしたい」という部分、それから大辞泉の「個人的な感情を超越した」という部分だ。「個人的な感情を超越した」の語釈は、用例が「人類への―」となっていることからもわかるように、異性ないし同性の個人に抱く心としては捉えられていないようであるが、僕としては、個人に対する愛もある程度、個人的な感情を超越したものであるし、あるべきだと思っている。

 こう言うと理想論もはなはだしいと思われるかもしれない。だが、みずからをより崇高な存在へと高められるような愛でなければ、もはや追求する必要もあるまい。ただ欲望を満たすだけであれば愛など必要ない。自分に都合よくふるまってくれる都合のよい他者を探せばいいだけのことだ。そんなものが見つかるとしてのことだが。

 話がやや抽象的になりすぎた気がする。ふたたび具体例を基にして考えてみる。

 たとえば、クラスメートとか職場の同僚とか、何にせよあなたの身の回りに、とても苦しそうで辛そうな他者はいないだろうか。きっといるはずだ。彼ないし彼女がどのような苦悩に打ちひしがれているのかはまだわからないが、いずれにせよ、まるで今まさに地獄を生きているというような表情で、とにかく一刻も早く一日が終わってほしいというただそれだけのことを望んで生きているように感じられる人だ。彼/彼女にとっては、どんな場所にいようが、周りにだれがいようが、まったく関係はない。いつどこでも、深く暗い穴の底にうずくまっているのも同然な心地なのだ。はるか上方から楽しそうなにぎわいが聞こえてきたところで、それはなんの励みにもなりはしない。

 さて、あなたは彼/彼女に対して何かしらの責任はあるだろうか。残念なことに、まったくありはしない。完全に非責任である。だから、彼/彼女に対して手を差し伸べる必要も義務もない。だが、その自由はある

 考えてもみてほしい。先進諸国に生まれ、けっして完全に満ち足りていて幸せというわけでもないが、少なくとも雨風をしのぐ住居と、あすの仕事と食事に困ることはない人物であっても、わざわざ危険を犯してアフリカやアジアの発展途上国へ支援におもむく人のことを。彼/彼女らは、アフリカやアジアの人びとに対して、何かしらの責任があったのだろうか。日本やアメリカやドイツ、フランスに生まれた人びとにとって、アフリカやアジアの発展途上国の人びとは有責任範囲内にいるのだろうか。断じてそうではない。だが彼/彼女らはおもむくのだ。その根底には、有責任範囲外すなわち非責任という思考の無責任さに対する苛立ちがあるのではないかと思える。

 もちろん、だれもが国境なき医師団国境なき記者団のように活動しろと言いたいわけではない。というか、僕自身、国境なき……どころか、県境にすらがんじがらめに縛られているような小ぢんまりとした人間に過ぎない。だから、有責任範囲を、世界中あまねく広げるべきだとは思わないし、思えない。けれどやはり、有責任範外すなわち非責任という思考の無責任さに対しては、なんだか無性にイライラして仕方がないのだ。腹の虫が収まらない。苦境に追い込まれている他者に対して、彼/彼女は努力が足りなかったのだから自己責任だ、といって視界から消してしまう。有責任範囲の外にいる他者はいないのと一緒。そんな生き方はもうやめにしたい。

 キリスト教は隣人愛を説くが、けっして人類愛は説かない。それはきっと、私たち人間はあまりにもちっぽけな存在なので、人類全体を愛することなどできはしないからだろう。人類全体を愛することができるのは、それこそ神を除いて他にはいないのだ。だかこそ私たちは、隣人を愛さなければならない。隣人を愛することならば、人間の分際にも許されているのだから。親類縁者が助け合えばそれでいい? 絶望に支配されている彼/彼女が親類縁者に見放されていないなどとどうして言い切れるのだろう。自己責任論は勇ましくて大いに結構。だがそれを他者に押し付けるべきではない。

 恩寵としての責任は、有責任範囲外にこそ現象するものだ。本来であれば非責任であるから、したがって手を差し伸べる必要も義務もない、そんなところにまで積極的に飛び込んでいく。これこそ、受動的に背負わされるのではなく、能動的に背負う責任だ。実存主義者ならばアンガージュするとでも表現するかもしれない。私たちの実存は、この世に生を享けると同時に何らかの責任を負うわけではない、もともとは、だれにたいしても非責任なのだ。私たちは「存在の耐えられない軽さ」とともに生まれてくる。それは宿命だ。だが、苦しんでいる他者という恩寵を授かることで、私たちはみずからの実存に責任という要素を織り込むことができる。他者に対する責任こそが、この世界と私たちとを結びつける唯一の、人間の絆である。

 国境なき医師団国境なき記者団のように、広大な愛をもつ必要はない。ただ、僕やあなたの隣で苦しんでいる彼/彼女に対して、自分は非責任なのだという思い込みを捨てることだ。隣人愛をもたなければならない。

 物体同士の引かれ合う力を重力という。物体がただひとつしかないとき、重力は現象しない。となりに他者がいることで初めて物体同士は引かれ合う。人間も同じことだ。ひとりきりで生きている限り、私たちは無重力状態で浮遊している存在なのだ。「存在の耐えられない軽さ」。重力の力で引かれ合い惹かれ合うふたりの人間同士のあいだには、お互いのお互いに対する、人生をかけて果たしていかなければならない責任がある。そして、たったひとりにでも果たすべき責任をもっている人間は、この世界に対しても、けっして断たれることのないつながりをもっている。僕やあなたがこの世界と結び合わされるためには、他者の力を借りなければならない。ふわふわと宙を漂っているに過ぎなかった非責任的実存が、人生のなかで責任を果たしていくことで、他者を結び目にして世界に繋ぎ止められていくのだ。だからこそ、私たちは、非責任的実存に甘んじ続けていないほうがいい。自由は必ず、軽さという呪いを伴っているのだから。