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雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

自信がないなら死ぬしかない

 僕は長いあいだ自分に自信がなかった。

 人生においてなにかを継続したことがほとんどないせいだったと思う。小学生ころは友だちと遊ぶことばかりしていたし、中学生はみんな部活に入るなか僕だけ帰宅部だったので、友だちと遊ぶことすらなくなった。それで何をしていたかといえば、別に何もしていなかったと思う。そのときに読書と巡り合っていれば現状もずっとマシになっていたのではないかと思うが、後悔しても惨めになるだけなのでやめておく。

 何かしら始めてみようと思ったことはあった。野球とか。だけど、体験に行ってみて、これはどうしても肌に合わない、と思ってけっきょく始めなかった。となると時間は有り余るばかりで、そういう人はたぶん、ふつう勉強するのだろう。そうすれば、別に部活に入っていないことも大した問題にはならない。もちろん、ガリ勉扱いはされるだろうが、それでも、ほんとうに何もしていなかった僕よりははるかにマシだ。僕は勉強すらまともにやったことがない。大学受験も、ほとんど手を付けず、努力しないでもいける大学にいった。

 自業自得なのだが、何にも打ち込んだ経験がないというのは、僕にとって相当な劣等コンプレックスだった。劣等コンプレックスが唯一の特技だったと言ってもいい。

 当たり前だが、ある分野でそれなりに活躍しようと思えば、始めるのは早ければ早いほうがいい。ピアニストというのは遅くても5歳までには練習を開始していなくてはならないとよく言われる。ギターとかだと大学生から始めたという人も聞くけれど、そういうのは稀だと思う。スポーツ選手も、たいていは小学生からずっとやっているものだ。作家も、さすがに小学生のときから書いていたという人は少ないだろうが、読書量は早い段階からかなりのものだったという人は多い。どういう生まれだったら小学生のときから読書家になれるのだろうか、などと思ってしまうが、それはまた別の話。

 しかしながら、僕は何もできないくせに自尊心だけは高い奴(ありがち!)だったので、高校生や大学生にもなってまったく新しいことをイチから訓練するなどということは、できない相談だった。こうなると悪循環がずっと続く。何もできない自分→何かしたい→でもいまさら遅い→時間だけが流れる→さらに何もできない自分、という具合に。「何かを始めるのに遅すぎるということはない」という言葉がどれほど真実なのかは分からないが、少なくとも、何もできない自分というセルフ・イメージに死ぬほど苦しんでいたころの自分には何の説得力もない理想論に過ぎなかった。

 それでも、自分に自信がないということは悪いことだとは思っていなかった。むしろ、なぜ自分に自信がもてる人間が存在するのか、不思議で仕方がなかった。正直、自分に自信がある奴=驕り高ぶっている奴というくらいに思っていたほどだ。だから僕は、いっこうに自分に自信をもとうとは思わなかった。これは、自分に自信をもつためには、何かを成し遂げる→自分に自信をもつ、という順序でなければならないと思っていたせいもあるだろう。

 だが、今は、必ずしもそういう順序ではないのかもしれないと思っている。むしろ、自分に自信をもつ→何かを成し遂げる、という順序こそが王道なのかもしれない。というのも、たとえばこういうふうに考えると分かりやすい。物騒な話だが、あなたに誰か殺したくて仕方ない人がいたとして、あなたはどういう道具を用意するだろうか。もちろん、日本だったら刃物がいちばんオーソドックスだ。アメリカなら銃かもしれない。いずれにせよ、少なくとも、人を殺すためにペラペラのコピー用紙を準備するようなマヌケな奴はいない。つまり、あなたは、刃物でなら人が殺せるが、コピー用紙では人は殺せないと判断したからこそ、刃物を手に取ったのだ。刃物に対して、殺人という機能を期待したのだ。

 自分に自信をもつということも、見方を変えれば、自分に何かしらの機能を期待するということにほかならない。たとえばあなたがロックスターになりたいと思ったとき、まず最初に選びとる道具は、ギターでもベースでもドラムでもなく、自分自身なのだ。だが、自分自身という道具に対して、ロックスターになる(可能性がある)という機能を期待していないのならば、人を殺すためにコピー用紙を選択しないのと同じように、自分自身を選択しようとしないだろう。

 つまり、自分に自信がないということは、自分に対して何の期待もしていないということだ。何の使いみちもない道具同然に見ているということなのだ。この道具には使い道がありません、などというキャッチコピーの商品を、誰が購入するだろうか。であれば当然の帰結として、自分に自信がない人間は、何ひとつ挑戦しようとは思わないだろう。

 もちろん、何を始めるにあたって必ずしも自信が伴っているわけではない。ひょっとすると成り行きでやってみたらできた、という場合のほうが一般的なのかもしれない。だとすれば、やはり、何かを成し遂げる→自分に自信をもつ、という順序のほうが王道ということになるのだろう。だが、ある程度、年齢を重ねてしまうと、もはや成り行きで何かを始めてみるということがめっきり少なくなっていくのがふつうだ。とくに、子どものころに何かに夢中になって努力したような経験がない僕のような人間にとっては、何かを成し遂げる→自分に自信をもつ、という構造に則っている限り、いつまで経っても何も始めないし、したがって何も成し遂げられないというループから抜け出せないまま一生を無為に浪費してしまいかねない。

 そこで、僕はとりあえず自信をもってみることにした。具体的に何をやってみるのかということはここでは触れないが、何にせよ、自信がないということは言い訳にすぎないということを自覚しようと思っている。そして、それは何よりも自分のためにならない。言うまでもないことだが、人生は一度きりで、なおかつ、ほかでもない自分のためのものだ。自分がどうにかしなければ、どうにもならないまま過ぎ去っていくものだ。やはり、やりたいことをとことんまで追求してみることは、とても大事なことだと思う。死ぬ気でやってみて、それでもどうしても無理だったというのであれば、そのときは清々しく諦めることができるような気がする。でも、やりたいことが何なのか分からないまま、あるいは、分かっていたのにそれを極めてみようとせずに、社会に出てしまったら、居酒屋で愚痴を垂れ流し続けるだけの人間になってしまいそうだ。だから、僕は、人間として生まれたのなら一度は自分の人生について吐き気がするほど真剣に考えてみるべきだと思うし、そういう機会をすべての人に与えるのが社会の使命だと思う。そして、やりたいことが見つかった人に対しては、潔く諦められるようになるまでは挑み続けさせてやれるような社会になってほしいとも思う。

 今、何かやりたいことがある人は、あなたがそれをやりたいというそれだけでもう、そのことには人生を賭けて取り組む価値のあることなのだと言いたい。もし、やりたいことがまだ見つかっていない人は、その状況が割りとのっぴきならない事態なのだと言いたい。しばらくまとまった時間をとって、頭痛がするまで考えてみたほうがいい。そして最後に、かつての僕のように自分に自信がない人に言いたい。根拠がなくてもいいから、まずは自信をもってください。何かを始めるのに遅すぎるということはない、というのは真っ赤なウソだと思ったほうがいいです。むしろ、いつだって遅すぎるのです。いつ始めても遅すぎる。だったら、今がまだマシです。さあ、始めましょう。