雑感など

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ライターズ・ブロックから考える、文章を書くことの意味

 ライターズ・ブロックという言葉がある。すでにご存じの方には、説明する必要はないと思う。ご存じでない方は、それはとても幸運なことなので、知らないままでいたほうがいい(日本人が肩こりになるのは、日本語に「肩こり」という言葉があるからとかいう話を聞いたことがある)。だからそのままブラウザバックしていただくか、自己責任で読んでいただきたい。その点をまずご了承ください。

 さて、ライターズ・ブロックとは何か。要するに「書きたい/書かなければならないのに、書けない」状態のことである。とはいっても、文章なんていうものは多くの人にとっては「書かなければならない」ものではないから、基本的には職業作家(物書き)に特有のものだ(ライター=職業作家なのだからアタリマエといえばアタリマエ)。締切が迫っているのに、まったく筆が進まない。新しい原稿用紙に変えてみたり、タバコを吸って一服してみたり、コーヒーを淹れ直してみたり、小一時間ほど散歩したり、なんやかんやと試みても、どうしても二、三行書くのが限界だ、そんな地獄のような状態なのだ。

 幸いにして、僕はライター=職業作家ではないから、「書かなければならないのに、書けない」という状態になることはない。もちろん、手紙などのちょっとした文書を書かなければならないことはあるが、その程度の文章すら書けないというのは重症すぎる。めったにあることではない。

 だが、趣味として文章を書く者にとっても、やはりライターズ・ブロックと言っても差し支えないであろう状態は存在する。「書きたいのに、書けない」のほうだ。ブログを書いている方なら、けっこう心当たりがあるのではないだろうか。というのも、一般の方が書いているブログのおおよそ半分くらいには、「書くことがない、苦しい」みたいなことを延々と書き連ねた記事があるのではないかという気がするからだ(もちろん、明確な統計はない)。そう、あれらの記事の原因こそがライターズ・ブロックである。

 よく考えてみれば、これはあまりにもおかしな話である。なぜなら、ブログなんて「べつに書かなきゃいい」からだ。言うまでもないことだが、ほとんどの場合、ブログというのは誰かに求められて書いているわけではない。そのうえ、アドセンス広告を載せていて、なおかつ、かなりのアクセス数があるとかいうわけでなければ、どれだけ書いたところで対価(報酬)が得られるわけでもない。

 もちろん趣味とは本来そういうものである。もしそこに対価(報酬)が発生するのであれば、それは趣味というよりも副業に近いものだ(といっても最近は儲かる趣味もたくさんあるように見受けられるが)。お金が手に入るわけではないけれど、それでも時間があればやりたい、というのが趣味の本質のひとつだ。

 だがなぜ? なぜお金が手に入らないのにやるのだろうか?

 実に簡単な話だ。お金は手にはいらないけれど、楽しみが手に入るからだ。

 そう、趣味とは、お金ではなく楽しみを稼ぐための営みだといっていい。世の中というのは厳しいもので、楽しく、かつお金が稼げる、なんていうことはあまりない(絶対にないわけではない……と願っている)。だから、けっして楽しくはない仕事を通じていただいたお金を使って、束の間、楽しい時間を過ごすことができる趣味をもつことはとても良いことなのだ。

 となると、やっぱりヘンだ、という話になる。というのも、文章を書くということを趣味にしているかぎり、「書けない、苦しい」という状態はほとんど不可避なものと言ってもいいからだ。というか、文章なんて、書けるときのほうが珍しいとさえ思える。うまくいくときのほうが異常なのだ。もちろん、たとえばスポーツだって上手にできる人ばかりではないけれど、あれはできないなりに楽しかったりするものらしい(僕はスポーツはあまりやらないので分からない)。だが文章というのは、書けなきゃゴミ、いや、ゴミですらない、無だ。サッカーグラウンドにいって、ドリブルしては敵にボールを奪われ、シュートをすればゴールを盛大に外す、というのとはワケが違う。なぜなら、それらは下手くそなりに「何か」を起こしてはいる。ところが、パソコンに向かってウーンウーンと唸っているやつは、何ひとつ起こしていない。ひたすら無為だ、徒労だ、ということになる。

 にもかかわらず、世の中には、「書きたいのに、書けない。苦しい」みたいなことで何時間も頭を抱えている人が少なからずいるのである。だとすれば、「文章とは表現したいことがあるから書くのである」という一般的に信じられている命題を今一度、問い直してみる必要があるように思われる。「書きたいのに、書けない」という状態は、少なくとも明確には「表現したいこと」があるわけではないのに、それでもやっぱり「書きたい」と思ってしまったときに陥るのだから。

 僕が思うに、文章を書く理由は、表現したいことがあるからというただ一つではない。理由は上に書いた通りだ。でも、これは、わかる人にはわかるだろうけれど、わからない人にはとことんわからないと思う。僕も、書いていて、ややこしくなってきた。書くのをやめたくなってきた。でも、書きたいという気持ちだけは僕をほったらかしにして数メートル先を突っ走っていく。どういうことなのだろう。なぜ、表現したいことがあるわけではないのに、文章を書きたいのだろうか。自己顕示欲だと考える人もいるかもしれないが、僕は違うと思う。もし自己顕示欲なのであれば、自己そのものが「表現したいこと」になるわけだから、ちゃんとした理由になっている。それに、ブログを書けば自己顕示欲が満たされる、などと素朴に信じ込んでいる人がいるとしたら、なんともまあ、甘い。

 文章を書くということは周知のとおり一種の表現行為であり、表現行為とは一種の芸術だといえる。とすれば、芸術とは自己目的化した営みだと考えられているから、「表現したいことがないのに、書きたい」という状態もそれほど奇妙なものではなくなる。要するに、「書く」ことそのものが目的なのだ。だが、だったら絵画や音楽においても同じことが起こるはずである。実際、似たようなことは起こるのだろう。しかし幸いなことに、美術は、少なくとも写実的な絵画を描くのであれば、モチーフはそこらじゅうに溢れているし、音楽は、自分のこれまでの作品を演奏というかたちで再生産すればいい。その点、文章というのは絵画みたいにモチーフを扱うことはできないし、一度書き上げた文章を自分で読み返したり音読したりしても(あんまり)楽しくない。

 文章には、絵画と音楽のそれぞれの強みがない(特に、ライブという活動形態がある音楽は少しうらやましい)。だから、ライターズ・ブロックみたいなあほくさい現象に悩まされやすいんじゃないだろうか。そんな気がする。気がするだけ。

 それでは文章の魅力は何かというと、技術と道具がそれほど必要でないということだ。日本人であれば、ほぼ間違いなく日本語は書ける(巧拙はともかくとして)。それに、いまどき文章入力機器を持っていない人などいそうもない。だから、敷居の高さという点では、ひとまとまりの道具を買い揃えて継続的に技術を習得していかなければ話にならない絵画や音楽に比べれば、はるかに優秀である。でも、そこが罪深いのだと思う。だれでも参入できてしまうということは、(酷な言い方かもしれないが)それほど才能のない人でも夢を見ることができてしまうということだ。だからこそ、いわゆる「ワナビ」と呼ばれる人たちの出現が後を絶たないのであろう。それ自体は悪いことではないけれど、中途半端に夢を見せられることの苦しさといったら、想像以上に酷いものだから、なんだかなあ、という気もする。ちなみに、これは僕自身が痛切に感じていることだ。