雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

名文とはなんだろう

 読書の楽しみについて語られる文章においてよく目にするのが、「文章(文体)を味わう」というものだ。その意味するところは、なんとなく「感じる」ことはできても、「理解する」までたどり着くことは難しいのではないだろうか。

 「文章を味わう」というのは、いうまでもなくレトリックである。本来、「味わう」ことができるものは食物であり、文章ではない。したがって、「文章を味わう」という表現は、「まるで食物を舌で味わうかのように、文章を読む」くらいの意味なのだろう。だが僕に言わせれば、このレトリックはいささか強引ではないだろうか。

 というのも、私たちは文章を第一次的には目で読んでいるのだが、もちろん白い紙のうえに印刷された黒いインクを目でなぞるだけでは、ほんとうの意味で文章を「読む」ことはできない。第二次的に、頭で読む(あるいは心で、でも構わないが)というプロセスを経て、ようやく文章を「読む」という行為が完結するのである。

 ひるがえって、味覚の場合、これはなんの疑いもなく、舌で味わうのである。ある食物を味わうためには、単に口のなかに含み、舌のうえに乗せればいいのであって、それが美味しいか美味しくないかといったことは考えるまでもなく、感じる。もちろん、人間に脳みそがなければ(つまり考えることができなければ)美味しいか美味しくないかの判断すらできないだろうが、いずれにせよ、食物の美味しさを頭で理解する、などという考え方は私たちには不自然に感じられるのだから、つまり、美味しさは理解するのではなく味わうのだろう。

 さて、これを踏まえて僕は、やはり「文章を味わう」などということが果たしてできるだろうか、という疑問に帰着する。「文字を味わう」ことはできるだろう。掛け軸に記された文字を見て、その筆致の勇猛さあるいは繊細さ、とめはねの精緻さ、かすれの具合などを味わうのだ。これらは概ね純粋に感覚的なものだ。だが、文章とはそういうものではない。文庫本のページに連なっている無個性的な活字の数々を見て、そこに美しさを感じられる人がいるだろうか。

 日本文学の名文というと、よく挙げられるのが、「国境の長いトンネルを超えると雪国であった。夜の底が白くなった。」(川端康成『雪国』)という一節である。さて、これが名文とされる理由の代表的なものを勝手に要約すると、①「国境の長いトンネル」によって隔絶されている「雪国」というイメージが、作品世界を凝縮して表象している点、②単に「夜の街に真っ白な雪がうっすらと積もっている」などと書くのではなく、「夜の底が白くなった」という(新感覚派的な)読者の想像力を刺激するような表現を用いている点、である。もちろん僕としても、これらの意見に対しては人後に落ちない。

 だが、これが「文章を味わう」行為なのだと言われると、たいへん困惑してしまう。ある一文を読んで、このレベルの思考を瞬時に展開できる人がいるとすれば、その人はかなりの文学通といえる。大半の人は、最初「なんか妙な文章だな」と思って立ち止まり、そこから徐々にその魅力を「理解」していくのではないだろうか。

 くわえて、先ほどの、①「国境の長いトンネル」によって隔絶されている「雪国」というイメージが、作品世界の構造を凝縮して表彰している点、②単に「夜の街に真っ白な雪がうっすらと積もっている」などと書くのではなく、「夜の底が白くなった」という(新感覚派的な)読者の想像力を刺激するような表現を用いている点、というのは、どちらも対象とする一節のみをつぶさに鑑賞して得られる結論ではない。説明すると、まず①は、第一に作品を通読してそこで演出されている世界を把握したうえで、「よくよく考えてみれば」この作品世界のエッセンスは最初の一節に濃縮されていたのだと気づく。そして②は、川端自身が書いた「夜の底が白くなった」という一文に対して、それが表現している客観的事実をできるだけ日常的な言語で表現した一文を仮構し(たとえば、「夜の街に真っ白な雪がうっすらと積もっている」というように)、両者を比較検討することで成り立つ。つまり、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」という一節単独だけでは、それが良いとも悪いとも言い難いのではないかということである。

 ここまで書いてきてなんだが、正直なところほとんどの人にとっては、「味わう」のだろうが「理解する」だろうがどっちでもいいのだろう。いや僕にとってもどうでもいい。ではこのような文章を書くことで何を考えたかったのかというと、そもそも名文とはなんだろうということである。経験的事実として、たしかに名文なるものは存在すると考えざるを得ない。しかしながら、僕は自分で「これは名文だな」と思うような文章に出会ったことはあまりないし、あっても、なぜそれが名文なのかと言われても言葉に窮するばかりである。ということは、やはり私たちは文章を「理解する」のではなく「味わう」のかもしれない。もし「理解した」のであれば、それを他人にも論理的に説明できるはずだからである。この堂々巡り、はたしてこのような文章を書く必要があったのだろうか。