雑感など

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「さて……」

 以前、ある人がこのようなことを言っていた。

「歴史の授業ってよくよく考えてみるとすごく残酷だよね。だって、ものすごい数の人が死んでるのにどんどん先々進んでいくんだから。~~年に~~事件があって~~という人が殺されました。ハイ、それで……って、ハイそれでじゃねえだろと」

 冗談めかした口調で言っていたけれど、たぶんその人はけっこう真剣にそう考えているんじゃないかと感じた。こういうことを大真面目に語ると、社会と折り合うことを知らない頭でっかちだというふうに見られてしまうから、冗談っぽく言ったのだろうと思う。でも僕はこの発言に激しく共感したので、決して冗談としては受け取らなかった。

 このあいだニュースを見ていて、ある言葉が妙に気になった。

 外国で起きた殺人事件を報じるVTRが流れて、カメラがスタジオに戻る。コメンテーターたちが各々ちょっとずつコメントをして、それをメインキャスターがまとめる。それが終わるや否やキャスターはこう言った。「さて……、次のニュースです」。

 今まで何十年も生きてきて、そのあいだ何百回あるいは何千回とニュースを見てきたわけだが、この「さて……」という言葉に引っかかりを覚えたのは、言うまでもなくそのときが始めてだった。そして同時に、冒頭で紹介した、ある人の発言を思い出したのだ。「ものすごい数の人が死んでるのにどんどん先々進んでいく」歴史の授業と、人ひとりが殺されたという事件を「さて……」で片付けてどんどん先々進んでいくニュース番組が、とても似ているものに思えた。

 そこでは、40年なら40年、月で言えば480ヶ月、週で言えば2,087週、日で言えば14,610日という人生の重みみたいなものは、一切切り捨てられて、考慮されることはないのだ。その長い長い人生において、どのような歓びがあり、悲しみがあり、出会いがあり別れがあり、いかに愛され、いかに憎まれ、何を愛し、何に命を賭けたのか……そんな大それたことは当然、たとえばリンゴよりはバナナが好きだったとか、実は薬指が中指よりも長かったとか、そういう生きているあいだでさえどうでもいいことはなおのこと、取り上げられない。

 歴史の授業はまだわかる。それはあまりにも遠い時代の出来事だからだ。遥か昔の「死」を生々しい「死」として感じろというのは、無理がある。せいぜい、第ニ次世界大戦ぐらいまでが限界で、第一次世界大戦になると急にもう厳しくなってくるのがふつうだろう。13世紀とか、まして紀元前何世紀とかになると、もはや小説に描かれている「死」のほうがよほど現実感を与えるくらいだ。

 ニュースで報じられるのは、紛れもなく、「今」というこのかけがえのない時に、共に生きている人間たちの「死」なのだ。もちろん、親類縁者などの死とはワケが違う。とはいえ、それは決して遥か昔の「歴史」の出来事ではない。もし、「死」がその人のもとを訪れるよりも、私たちのほうが先にその人のもとを訪れたのなら、たとえばリンゴとバナナのどちらかより美味しいかということについて、親しく会話を交わすことができたかもしれない、そういう人が死んだのだ。それをニュースは、「さて……」という言葉で、あっさりと「歴史」の一頁として過去へ送ってしまう。

 こんなのはナイーヴすぎる意見だと、自分でもよく分かっている。だが、僕は、世の中の人すべてがこのような感覚を忘れてしまったら、もう人間が生存し続けることに意味を見いだせなくなると思う。たしかに、世界で起こっている「死」のすべてにいちいち反応していては、日常生活を送ることはできない。とはいえ、すべての「死」を、「さて……」で過去のものとしてしまっていいものだろうか。

 ただの一度も会ったことがない、たとえ会ったとしてもきっと通じ合うことなどできなかっただろう、そんな遠い遠い異国の地の、しかしそれでも、誰かにとってのかけがえのない大切な人であり、二度とこの世に戻ってくることのない、そんなひとりの人間の「死」に、つい口をついて出てきそうになる「さて……」をぐっと押し殺して、静かに思いを馳せる、そんな機会を、そんな素朴な、あまりに人間的な感情を、僕はたまにでいいから、ふと思い出したい。

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