雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

オリジナリティとリーダビリティの境界で

 ブログの記事の内容というのは、個性的でブッ飛んでいるのが良いとよく言われている。僕としても、時事問題や文化芸術などについて調べた情報を整理してわかりやすくしてある記事よりも(もちろんこれはこれですごく便利)、たとえば時事問題なら具体的な出来事などについて、文化芸術なら具体的な作品などについて、その人がどう思ったかができるだけ率直に記されているもののほうが読んでいて面白いし、その意見が極端に個性的な場合には、情報まとめ系のものよりもタメになるとすら思う。

 とはいえ、個性的でブッ飛んだ意見というのは、その内容において少なからず(あくまで少なからずである)、「歴史上これまでだれも口にしなかったこと」を述べようとしているのだ。もちろん何から何まで完全に真新しい意見などというのはそうそう言えるものではないし、というか21世紀にもなってそんな意見が言える余地がまだ残されているとは思えない。だが、情報まとめ系の記事に比べれば、意見ぶちまけ系の記事は多かれ少なかれその人にしか書けない何かを孕んでいるのである。だからこそ面白い。

 だが、「歴史上これまでだれも口にしなかったこと」を言語化することが非常に難しいのは容易に想像できる。それは情報まとめ系の記事の場合と比較すれば明快だ。情報まとめ系は、調べ物を広範に詳細にしなければならないが、その結果を表現するのはそこまで難易度の高い作業ではない。ハッキリ一次情報を引用してしまえば話は早いし(もちろん典拠を記したうえで)、自分なりに言い換えるにしても元の文章が確かな方針となるからやりやすい。ところが、意見ぶちまけ系の記事を書くなら、元の文章というものは存在しない。あるとすれば自分の頭のなかにあるわけだが、それは文章の形を成していない、言語化以前の想念であり、往々にして、雨をたっぷりと含んだ黒雲のように混沌とした様相を呈しているものだ。

 いくら個性的でブッ飛んだ意見が好まれるとはいえ、それが読解不可能なものであってはならない。あまりにも独自の言葉づかいをしていたり、あまりにも分量が多すぎたりしては良くないのだ(その点、僕の過去の記事は最悪だ)。したがって、ブログ記事の良し悪しというのはさしあたって、オリジナリティ(個性豊かさ)とリーダビリティ(読みやすさ)との境界でいかにバランスをとるかということにかかっているのだと言える。

 「歴史上これまでだれも口にしなかったこと」は、まさにだれも口にしたことがない故に、頼りとする文章なしに自分だけで言葉を手繰り寄せて、混沌とした想念に形を与えていかなければならない。それはまさに暗闇の中の手さぐりに他ならない。しかしながら、それはもし僕やあなたがそれを口にしなければ、二度と再びこの世界に形をとって現れる機会を得ないかもしれない。それほどに価値のあるものなのだ。だから、これはちょっと言葉にするのが難しそうだ、と思ったそのとき、僕やあなたはトンでもない金脈を目の前にしているのかもしれないと認識するようにしよう。根気よくツルハシを振り下ろし続けよう。だが掘り当てた金をしっかり金塊に整形するのも忘れないようにしよう。そして、それを独り占めしないようにも気をつけよう。何と言っても、交換されずに押入れの奥底に放置されている金には、何の価値もないのだから。

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