雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

「誤解を恐れずに言えば……」というとき、誤解するのは誰?

 「誤解を恐れずに言えば……」という表現をたまに見かける。この表現でワンクッション置いた後は、たいてい物事をかなり単純化して述べることが多いので、誤解を恐れずに言った文だけを読めば著者がその本で書きたかったことの半分くらいがわかったりする。

 だから「誤解を恐れずに言えば……」という表現は、けっこう便利な指標となっている。たぶん、著者もそういう狙いでこう書いているのではないかと思う。これを日常会話の言語に置き換えれば、「ぶっちゃけ……だよね~」みたいな感じになるのではないか。著者はこの言い回しを使って、「読者の皆さん、ここが読みどころですよ!」と遠回しに教えてくれているのかもしれない。

 だが僕はふと、「誤解を恐れずに言えば……」と言うときの「誤解」はいったい誰が「誤解」するのだろうか、と疑問に思った。

 誤解を恐れずに言えば、この表現は、「著者である私の言いたいことを読者が歪曲して読んでしまうかもしれない」という読者を見くびっている著者の傲慢さがにじみ出ていると考えられなくもない。「読者の皆さん、あなた方が以下の文章を読んでどのように解釈するかは自由ですが、その正しさの責任は取りませんよ!」と。

 とはいえ、このような見方はいささかひねくれているかもしれない。

 あるいは、次のように考えることもできる。

 「誤解を恐れずに言えば……」の「誤解」は、著者がするものだ、と。つまり、「いまから私が述べる意見は誤解に基づいているかもしれませんのでそのつもりで読んでくださいね」というメッセージなのだ。実際、この「誤解を恐れずに言えば……」は、難解な哲学書を初学者向けにわかりやすく概説するような書籍でよく見かける。だから、「私の解釈は誤解かもしれないから、みなさん自身で原書を読んでみてくださいね」という、読者を次なるステージへと引っ張り上げようと差し伸べられた手なのかもしれない。

 でも、たとえば先ほど僕が「誤解を恐れずに言えば……」と書いた段落では、僕自身の意見が表明されている。この表現は、なにも難解な哲学書を噛み砕いて伝えるときだけでなく、そういう用法もあるわけだ。さて、自分自身の意見を「誤解」してさらに意見を述べるなどという芸当がはたして可能なのだろうか。僕にはそうは思えない。

 というわけで、「誤解を恐れずに言えば……」という表現が出てきたとき、そのあとに著者以外の人物の理論や見解が著者によって咀嚼されてわかりやすくまとめられているのであれば、その解釈が誤解にもとづいているかもしれないという著者の謙虚さの現れなのだと大目に見ても良い。しかし、もし著者自身の意見を開陳する前に「誤解を恐れずに言えば……」などという表現が飛び出してきたら、その著者は読者を自分の説を正しく理解できない蒙昧な奴らだと完全になめきっていて、もし自分の説を根拠としてだれかが間違ったことを言ってもその責任は取りません、というふうに予防線を張っているのだ。

 最後にひとつだけ言いたい。読者が「誤解」することを「恐れる」気持ちがあるのならば、そもそも本など出版するな、と。「誤解(誤読)」することは読者の権利のひとつだ。もし自分の納得のいくかたちでしか自分の説を理解されたくないのであれば、忠誠心に篤い弟子でももつ他はない。読者の自由を奪ってくれるな。