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芸術は「自己」の表現なのか?

 芸術は「自己表現」だとよく言われる。

 作者の頭や心のなかの思考や想念、イメージといったものが具体化されているものが芸術だという理解がその根底にあるのだろう。それはあるていど真実だと思う。実際、ピカソが描いた絵は「何を」描いていようがピカソ的な表現になっているのだし、三島由紀夫が書いた小説は「何を」物語っていようが三島的な展開になっている。だから、究極的には、ピカソの作品はすべて「ピカソ」その人を描いたものであり、三島の作品はすべて「三島」その人を描いたものだと考えることもできる。

 しかし僕は、芸術が必ず全体的に「自己」を表現したものだとは思わない。というか、芸術が表現しているものの大半は「自己」ではないのではないかとすら思っている。

 では、芸術がなにを表現しているのかと言えば、それは「世界」である。

 これは、まず原理的に、作者も鑑賞者も現実の「世界」の内側で生きているということを考えれば、ごく当たり前の結論になる。いくら作者が存在しても「世界」というものの前提なしに芸術作品は生まれ得ないし(というか、「世界」が存在しなければ作者もまた存在し得ない)、また、「世界」という参照先がなければ芸術作品の鑑賞をすることもできない。

 だから、芸術はまず第一に「世界」を言語や色彩や音によって表現しており、鑑賞者はその作品の向こう側に「世界」を見る。そして多くの鑑賞者が、この作品は現実の「世界」を巧みに活写していると判断した場合、その作品は傑作とされ、後世まで受け継がれていく。

 ただし、もちろん現実の「世界」がありのままに表象されるわけではない。それは作者というフィルターを通って、言語や色彩や音といった特定の形態によって再構築された「世界」である。ここに芸術の面白みがある。なぜなら、もしありのままの「世界」を模写しただけであれば、もはや芸術を鑑賞する目的はなくなり、ただ現実の「世界」を心ゆくまで味わえば良いということになってしまうからだ。

 だからこそ、小説にしろ絵画にしろ、かつては写実主義(リアリズム)に則って表現されていたものが、時代が下るにしたがって、必ずしもリアルではない表現へと変容していったのだろう。カフカの言を借りれば、「本当の現実とは常にリアリスティックではない」から、リアリスティックな表現だけでは現実の「世界」を掬いきれずにこぼしてしまうのだ。

 カフカこそはまさに、そういったリアリスティックな表現だけでは捉えきれない「世界」を掴み取った芸術家のひとりである。ミラン・クンデラは、「ひとが別様に書くことができると理解させてくれたのはカフカだった」というガルシア=マルケスの言葉を回想しながら次のように述べている。「別様にとは、本当らしさの境界を超えてということだ。それは(ロマン主義者のように)現実世界から逃避するためではなく、現実世界をよりよく把握するためなのである」。

 僕らが芸術を鑑賞することの意味も、作者がそれまでとは違った切り口から「世界」を洞察して白紙やキャンバスや五線譜のうえに生き写しにしたからこそ生まれる。それは僕らが「世界」を「別様」に見ることができるということを教えてくれる。リアリズム(本当らしさ)に縛られているあいだは気付かなかった世界の面白さや美しさや悲しさや恐ろしさを目の当たりに突きつけてくる。「世界」といっても必ずしもマクロなものには限られない。小説は往々にして、「人間」というミクロな存在についての新たな地平を、僕らの眼前に広げて見せてくれるのである。僕が小説を読むときに求めているものも、つまりはそれなのだろうと思う。