雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

芸術の価値

 およそ芸術と呼ばれるものの価値は非常に曖昧なものである。文学にしろ美術にしろ音楽にしろ、定量的にも定性的にも、その作品がいかに優れているかを客観的に分析し証明することは困難である。あるいは不毛ですらある。

 僕がどれほどベートーヴェンの音楽を愛していても、それを他人に伝える試みは大方虚しい失敗に終わる。まず何かを好む理由を論理化するという障壁があり、相手方が論理を再び感性に還元するという障壁がある。ベートーヴェンのピアノ・ソナタはこういうところが素晴らしい、と説明して、それを頭で理解できたからといって、いざ実際に聴いてみて好みに合うかはまた別問題である。

 人によっては、そもそもあらゆる芸術にまったく価値を見出さない場合もあるだろう。文学、美術、音楽よりも、スポーツをしたりあるいは料理をしたりするほうがよっぽど良いという人はたくさんいるだろうし、それは少しも悪いことではない。ただ、だからといって芸術に価値がないということはあり得ない。そうでなければ、100年200年、ともすれば1000年以上も前の人間が作ったものが時間による風化を免れて残り続けるはずはないからだ。異なる時代の、異なる場所の人びとが、それになにがしかの価値を感じて享受し続けてきたからこそ、私たちは今ベートーヴェンの音楽を聴き、ミケランジェロの彫刻を眺め、セルバンテスの小説を読むことができる。

 芸術の価値は、必ずしも「面白さ」だけには限られない。ときには、不快感を呼び起こすような芸術作品がいつまでも人びとに愛され続けるということもある。不快とまではいかないにしろ、不安や恐怖、悲しみや苦しみを感じさせたり、憂うつな気分にさせる小説、絵画、音楽といったものは枚挙にいとまがない。たとえば、カフカの小説を読んで、だれがそこから歓びや勇気を与えられるだろうか。むしろ、それは世界の不条理性を白日のもとに晒すものであり、この世界で生きることの耐え難さが克明に描かれている。にもかかわらず、彼の作品を愛してやまない人は世界中にたくさんいる。

 だから、「面白い」ものだけが、あるいは「美しい」ものだけが素晴らしいわけではない。むしろ芸術にはしばしば、「面白い」どころか「退屈」なもの、「美しい」どころか「醜い」ものがある。だが、それが受け継がれ続けてきたというその事実によって、決して無価値なものではないということは明らかである。そういった「退屈」な小説や、「醜い」絵画のいったいどこに価値があるのだろうか。

 僕は、芸術の価値は「どれだけの人の生きづらさを軽減することができたか」にあると思っている。芸術にそういう力があることを否定する人はいないと思う。しかし「面白い」小説ならともかく、カフカの悪夢のような小説を読んでどうして生きづらさが経験されることがあるだろうか、と疑問に思う人は少なからずいるだろう。だがこれは僕自身とても不思議なことだと思うのだが、生きづらさは「面白い」小説(あるいは映画でもいい)だけによってしか軽減されないというわけではない。まったくもって救いようのない後味の悪い物語を鑑賞することによってすら、ときには生きづらさがスッと軽くなるようなことがある。これを一般的にはカタルシスと言う。が、呼び方は別になんでも良いのだ。重要なのは、内容が明朗であるかあるいは陰鬱であるかと、鑑賞者の生きづらさを軽減させるかどうかとには、あまり関係がないということである。

 思えばブログ記事も同じである。若い人が書いた、とにかく活気に満ちた決意表明の記事によって勇気づけられるときもあるが、そういうものが疎ましく感じられてしまうこともある。そんなときは、ちょっといま人生がうまくいっていなくて、落ち込んだ気分を素直に言葉にしている記事によって心が落ち着くこともある。だから、ブログ記事も、「どれだけの人の生きづらさを軽減することができたか」によって価値が決まると言って良いと思う。

 内容が明るかろうと暗かろうと、そこに救いめいたものの気配があれば、観る人の生きづらさを軽くすることができる。反対に、観る人の生きづらさをさらに耐え難いものにしてしまうような芸術やブログ記事は、価値がないどころか存在してはいけないと思う。だから僕は、ただいたずらに陰鬱なだけの、偽悪的な物語は嫌いなのだ。とにかく人間の醜悪で下劣な部分をクローズアップして描いたらそれがすなわち芸術なのだ、といったような芸術観を僕は受け容れない。人間の良い面しか見ようとしないのが偽善であれば、悪い面しか見ようとしないのは偽悪である。人間の邪悪さを強調する作品は、端的に言って何がしたいのか分からない。作者もやはりひとりの人間以外のなにものであることもできず、また鑑賞者も作品を観たあとひとりひとり等身大の人間としてずっと生きていくのである。だったら、人間として生きることに少しでも価値を見出だせるような、救いを感じられるような作品にするべきではないのだろうか。安易なハッピーエンドを拵えよ、と言っているのではない。たとえ闇を描いていても、とことんまで突き詰めていった先に光芒が降りてくるような、そういう描き方が、どんな人間の闇にもきっとあるはずである。

 僕は創作を通して、闇のうちに光を発見したい。ただその一心である。文学の単なる読者だったころは、文学が生きづらさに対抗するワクチンだった。あるいは音楽もそうである。しかし文学にせよ音楽にせよ、いちおう曲がりなりにも生み出す側にもなったいま、それは僕にとって、生きづらさに対するささやかな抵抗の行為である。単に生きづらさを受け容れることができるようになるためではなく、それをはねっかえして風穴をぶち開けてやるための行為である。そして、その結果として、だれかの生きづらさを軽減することができたのなら、それはどれだけ喜んでも喜びすぎるということはない僥倖である。

 生きていればいろいろと嫌なことはあるし、面倒なこともある。悩んでいる時間のほうが長いかもしれない。身体はどんどん衰えていくし、頭の働きだって悪くなっていく一方である。それらのことから逃げることはできないし、また逃げるべきでもない。だがそれらと、生きづらさとはまた違ったことだ。生きづらさとは、根本的な痛みである。生きることそのものに対する苦痛である。そんなものは、ないほうがいい。たとえ悲しいこと辛いことがあっても、それでも生きていくためには、生きづらさを少しでも和らげなくてはいけない。芸術はそれを助けることができる。だからこそ芸術は人類の歴史上絶えたことがなかったのだし、またこれから先絶対に絶やしてはいけないものなのである。