雑感など

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認められる「自分らしさ」、認められない「彼女らしさ」

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 近ごろ、「自分らしさ」という言葉をよく耳にする。たとえば「自分らしく輝く」というように。上昇志向が限りなく皆無に近いブルーな僕に言わせれば、「自分らしく輝かない」というのはだめなのだろうかと思うが、それはともかく、この「自分らしさ」というのは何を意味しているのだろうか。字義通りに考えれば、「いま・ここの自分という存在が持っているすべての性質」ということになるだろう。したがって「自分らしく輝く」ということはつまり、「いま・ここの自分という存在が持っているすべての性質を発揮して生き生きと活躍する」といった程度の意味になるようである。

 ところが、「自分らしく輝く」という言い回しからも分かるように、このときの「自分らしさ」からは実存のマイナス的要素が考慮されていないのではないだろうか。たとえば、怠け者、遅刻ばかりする、忘れ物が多い、仕事ができない、人とうまく関われない、上司に叱られてばかり……そういった要素は、「自分らしさ」に含まれ得ないのである。

 だが、「自分らしさ」が「いま・ここの自分という存在が持っているすべての性質」、平たく言うと「ありのままの自分の姿」であるならば、当然そういった実存のマイナス的要素を切って捨ててしまうことなどできないはずである。そうでなければ、それは「自分らしさ」ではなく「理想の自分」に過ぎない。いや、そもそも世に言う「自分らしさ」とは最初から「理想の自分」のパラフレーズ(言い換え)に過ぎないのだろうか。

 第一、なぜ「自分らしく」あらねばならないのか。考えてみれば、それは社会がそういうふうに求めているからだと言える。と言うと、いや社会は私たちを鋳型にはめて金太郎飴みたいな存在にしようとしているではないか、と反論されるかもしれない。だがそれは現実の一側面しか見ていない意見である。厳密に言えば、社会は私たちにみな完全に同じ顔をしていろとは求めていない。もし私たちから個別差がまったく失われてしまったら、社会から競争が失われ、したがって一直線の成長もなくなるからだ(もちろん競争イコール成長ではないが)。共産主義はそれで挫折した。

 だから社会は私たちに、「自分らしさ」を磨き他人と差をつけられる人間になりなさい、と呼びかける。それがひとまず行き着くところが、就活である。就活においては、あなたの「自分らしさ」をアピールせよ、という問題が突きつけられる。その問題に簡にして要を得た解答をして自分はこんなに使える人間なのだと面接官を納得させることが、就活生のしなければならないことであり、多くの学生はそれに四苦八苦しているのである。無理もない。20歳の人間なんてみな大体同じような人生を歩んできているのである。小学校から大学まで、勉強なり部活なりバイトなりをしてきたとはいえ、それはみんなやっていることなのだ。そんななかで「自分らしさ」を見つけよというのはたしかに酷であるが、それが実情である。(これにはたぶん異論がある。当たり前のことを当たり前にできるということを論理的に説明できれば受かる、という意見である。おそらく正しいのだろうが、少なくとも実際に就活をしている学生たちはそのようには思っていない。)

 就活が終わって働きだしてからも、「自分らしく」あることは常に求められる。他人よりも自分のほうが使える人間であることを証明し続けなければならない。他人と同じくらい使えればまだ切り捨てられることはないが、他人に遅れを取り置いていかれるような人間はそのまま「さようなら」されかねない。それで多くの人が意に沿わないことを神経をすり減らしながら汗水たらして頑張っている。

 就活で求められるのは、いわば「自己紹介」である。いや、就活にかぎらず、社会という場において私たちは常に「自己紹介」を要求されている。人と会っている限り、一挙手一投足、一言半句が自己紹介にほかならない。一瞬でも気を抜いていい加減な言動をすれば、それがあなたなのだと判断されるかもしれない。その危険性を認識しているからこそ、多くの人間はめったなことはしないでおとなしく生きている。ちょっと気に食わないことがあっても顔に出したりはしないし、まして口に出すことはない。

 だがもちろん、社会が私たちに求めているのは「自分らしく」あることだけではない。いや厳密に言うと、一定の範囲内で「自分らしく」あること、つまり、社会が拵えた大文字の「〈自分〉らしさ」から逸脱しないように個性を身に着けていくことを求めている。だから「自分らしさ」という言葉の使われ方も理想的になる。怠け者、遅刻ばかりする、忘れ物が多い、仕事ができない、人とうまく関われない、上司に叱られてばかり……そういった要素は、社会によるレディ・メイドな「〈自分〉らしさ」のオプションにはない。勤勉で、時間に厳格で、常に用意が良く、テキパキと仕事をこなし、社交的で友だちが多く、上司に気に入られている……そういう人間こそが最も「〈自分〉らしい」のである。

 もちろん僕にしたところで、ダメ人間なのが「僕らしさ」なのだからそれを認めてくれよなどという図々しいことを申し上げる気はさらさらない(いや、あるけど黙っている)。しかし僕は言葉というのは厳密に使わなければならないと思う。いまのところ巷で使われている「自分らしさ」という言葉は決して文字通りの意味ではない。それは、社会に認めてもらえる範囲内でどれだけ個性的であることができているか、ということを言い表す言葉になっている。だから「自分らしさ」としてマイナスの要素を挙げることは許されないか、少なくとも褒められたことではない。「自己紹介をしてください」と言われて、「いやー僕はとにかく怠け者でね」なんて大真面目に応える奴がいれば絶対に取り合ってもらえない。

 つまり僕が言いたいのは、「理想的人格」と「自分らしさ」の混同をやめよ、ということである。「自分らしさ」という言葉はあくまでも全人的なものであるべきである。プラスの要素だろうがマイナスの要素だろうが、全部ひっくるめて「自分らしさ」である。もちろんそれを社会の場にまで持ち込むことはできないが、社会で演じているのは「理想的人格(といって悪ければ「社会的人格」)」であり、「自分らしさ」はそれとまた別にあると考える余地があってしかるべきではないか。

 僕がこんなことを言うのは、自分がマイナスの要素ばかりの人間だからというだけではない。学校でこんな経験をしたことがあるからだ。最初の授業で「自己紹介」をするように教師が言った。まず配布されたカードに名前、生年月日、出身地、趣味……といったことを書いて、それを元にして教室の前で話すように。もしどうしてもやりたくないという場合は、やらなくてもよろしい。教師がそう言ったからといって、まさか本当に「自己紹介」すらできない人間がいるとは誰も思わなかったに違いない。

 ところが、順番がある女の子に回ってきたとき、彼女は立ち上がって前に出ようとはせず、ずっと黙って俯いたまま動こうとしなかった。教室の空気が少し乾く。生徒の視線が一点に集る、いやな雰囲気が漂うのが分かる。隣の席の生徒が、その女の子の肩をつついて順番が回ってきたことを知らせる。だが、ちょっと頷いたように見えただけでほとんど反応しない。静かな時間が沈黙によっていたずらに引き伸ばされていく。教師は事情を察して、それじゃあ次の子に……と言った。内心、戸惑っていたのだろう。まさか本当に飛ばす奴がいるとは。僕は長い髪の毛が表情を隠している彼女の横顔が気になってしばらく見ていた。彼女は左手に鉛筆を持っていたが、その手も動かなかった。

 後日、その女の子を軽く揶揄した同級生がいた。適当に頷いておいたが、僕は彼女をほんの僅かでもからかう気にはなれなかった。というよりも、むしろ僕は一連の出来事にいたく心を動かされていた。なぜなら、彼女の「自己紹介をしない」という行動が、他の誰の「自己紹介」よりもはるかに雄弁に彼女自身を物語っているよいうに僕には思えたからだ。大方の人間は自己紹介を求められたとき、名前、年齢、出身地、好きなもの、まれに嫌いなものなどを淡々と口にしてそれで済ませるものである。実際、求められているのもそれなのだから、何も問題はない。だが、僕はどうしても「それがあなたの自己でいいのですね」という思いを拭いきれない。その点、彼女は名前や年齢さえも明かさなかったにもかかわらず、見事なまでに「自己」を「紹介」してくれたし、健康保険証を読み上げるようなつまらない自己紹介に比べてある種誠実であるとすら僕には思えた。

 これまで散々書いてきたように、社会は様々な局面において「自己紹介をせよ」と求める。そのような要求に対しては、彼女のそれはまったくもって返答になっていない。論外である。僕は彼女のその後を知らないが(知ろうともしなかった)、多かれ少なかれ人より苦労して生きているのではないかと思う。苦労して、なんとか人並みの「自己紹介」ができるようになったかもしれない。基本的には、そうであってほしいと思う。しかし僕には、背筋をピンと伸ばして、キラキラ輝く眼を見開かせて、自分の長所ばかりをハキハキと声高にアピールする彼女の姿を想像すると、痛ましさ以外のどんな感情も湧いてこない。そこにはもはや「彼女らしさ」などない、彼女のいちばん彼女らしかった、しかし社会には認められなかった部分がごっそりと欠落してしまっている。そんな彼女の語る「自己」は寒気がするほど空虚ではないか。そんなふうに思えて仕方がないのである。

 「自己紹介をしない」という彼女なりの「自己紹介」が「彼女らしさ」として容認されないのも、結局は社会が認める「〈自分〉らしさ」の範疇にないからである。もちろんそれを簡単に否定してしまうことはできない。人間は社会的動物だからだ。社会を闇雲に否定することは、人間存在そのものを否定することと大差がない、意味のない行為である。とはいえ、彼女のような存在をそのまま包摂できない社会において「自分らしさ」を称揚することはなんという欺瞞だろうかという気がしてならない。潔く、それは社会が掲げる理想的人格にすぎないと認めてしまうべきだ。

 現在の、「理想的人格(社会的人格)」と「自分らしさ」が綯い交ぜになったような理解だと、彼女は「自分らしさ」をまだまだ獲得できていない未熟な存在という評価を受けかねない。だがそれは理には適っているかもしれないが的を外している。彼女は、「理想的人格(社会的人格)」にはなり得ていないし近づこうともしていないかもしれないが、少なくとも限りなく「自分らしさ」を、かげがえがなく貴重な、宝石のような「彼女らしさ」を持っている存在である。

 またしてもナイーブな意見になってしまうが、僕は彼女のような人間でもそれなりに「自分らしく」生きていける社会になればいいのになあ、と素朴に願ってしまう。なぜならば、変な意味ではなく、僕は彼女が好きだからだ。「自己紹介をせよ」と言われた数十人の生徒のうち、それをしない、したくない、できない生徒がいてもおかしくないということを僕に教えてくれたからだ。僕はそんな当たり前のことも想定していなかった。その出来事で、ささやかだけれど、僕の人間観は広がった気がした。あるいは、僕が控え目な人間を好ましく思うからにすぎないのかもしれない。だが、それでもいいやと思う。頼まれたって自分をアピールしたりしない、そんな控え目な自我の持ち主がこの騒々しい世界に存在することが、ただ単に嬉しかったのだ。彼女はまるで、コンクリートの街にひっそりと咲くエーデルワイスのようだった。ただ、生まれる場所を間違えてしまっただけの、それでも綺麗なエーデルワイスだった。