雑感など

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ショートショート「待合室」

 シェードが降ろされている窓から初夏の活気に満ちた陽光が入り込んで、室内を舞っている埃の数々がキラキラと銀色に輝いている。壁の上方に設置されているテレビの画面はニュース番組を垂れ流している。微かに漂っている薬品のものらしい臭いによって、ここが病院の待合室であることを僕に思い出させる。

 微熱を宿して病院の待合室でぼんやりしていると、段々とここが一体どういう場所なのかを忘れていく。ソファーが横一線に、七列並べられている。皆一様に顔色が悪いが、どこを見ているかは人それぞれで、テレビを漫然と眺めている人もいれば、手もとの雑誌のページを次から次へとめくっている人、あるいは何がそんなに気になるのか右の手、左の手を交互に見つめながらさすっている人や、物思いに耽っている様子でシェードが降りて景色など見えもしない窓に顔を向けている人などがいる。共通しているのは、暇であることだ。ここは、何かをするために集う場所ではない。何もしないために集う場所なのだ。診察室の扉が開いて看護師が顔を覗かせ自分の名前を呼ぶのをじっと待つ、ここで求められるのはそれだけ。後は、何をしていても、何もしていないのと一緒だ。

 僕は自分以外の患者たちを一人ひとり観察している。まず眼についたのは明らかに具合が悪そうな、真っ青な顔であんぐり口を開けたままソファーの背もたれにぐったりと上半身を預けている、髪の毛が随分薄くなった中年のスーツ姿の男である。この男は相当ひどい病気に罹っているのではないかと思う。もちろん地元の中くらいの病院の内科だから、命にかかわるほどではないのだろう。それにしてもあまりにもぐったりとしている。今日は平日だから会社を休んだのだろう。いや、スーツ姿ということは、わざわざ早退して病院に来たということだろう。となると、やはりかなり状態が悪いのに違いない。

 病室の扉が開く音がして、看護師がとてもありきたりな名前を呼んだ。僕が観察していたスーツ姿の中年男がびっくりしたように顔をもたげる。呼ばれるのを待っていたのだからそんなに驚くこともないだろうと思うのだが、きっとウトウトしていたからだろう。呼ばれると分かっていても、ウトウトしているときに自分の名前が呼ばれればやはりそれなりに不意を打たれた思いになるものなのだろう。準備なんて往々にしてそのようなものだ。

 中年男はまるで取り調べに向かう容疑者のように悄然と診察室へ向かう。僕は、あの男の診察にはけっこう時間がかかるだろうなと思う。ひょっとしたら恐怖に怯える声や驚愕した叫び声が聞こえてきてしまうかもしれない、と身構えすらする。テレビ画面の向こうでアナウンサーが淡々と原稿を読む声が、待合室で患者が雑誌のページをめくる音が、妙に気になる。しかし予想は大きく外れて、中年男はものの5分程度で診察室から出てきた。僕は拍子抜けしてつい中年男の顔を凝視してしまい、彼と目が合った。思わず会釈すると、中年男も釈然としない顔で会釈を返してきた。次の患者の名前が呼ばれる。

 すると、あの中年男はそんなに具合は悪くないのだろうか。でも見るからに最悪の体調ではないか。となると初診ではないのかもしれない。今回は以前と同じ症状で薬をもらいに来ただけなのかもしれない。しかし、それが思い違いであることにすぐ気づいた。あの中年男は間違いなく初診だ。彼は僕がこの待合室に入ってきたときちょうど記入した問診票をカウンターに渡していたのだから。まったく当てが外れて僕の思考は停止した。考えられるのは、単に風邪かなにかありきたりの病気の症状がひどく悪化したことだ。それが一番ありそうである。しかし面白くない。なんといっても病院の待合室というのは暇なのだ。ちょっと深読みをするくらいがちょうどよい。だが、僕にはもうそれ以上複雑な想像をすることができなかった。

 そんなことを考えているうちに、診察室から若い女性が出てきた。ショートパンツから白い脚がすらりと伸びている。あんな格好で来られては医師も集中できないのではないだろうかと思う。例の中年男も糸で引っ張られでもしているかのように女性の脚を目で追いかけている。まったく男というものは病気だろうがお構いなしなのだ。中年男の名前が呼ばれる。男はまるで万引きを見咎められた中学生のように挙動不審にカウンターのほうを振り向く。僕は思わず笑いそうになるがこらえる。しかしすぐ隣に座ってきた例の女性の脚を一瞥することはこらえられなかった。僕が見つめた瞬間に彼女は脚を組む。赤いパンプスのつま先が前のソファーの黄緑色の背もたれに刺さる。僕は盛夏のトマト畑の風景のようだと思う。

 ところでこの女性はなぜ病院に来たのだろう。見たところすこぶる健康そうである。白い枕のような大腿を透かして見える血管はとても綺麗な翡翠色をしている。ナイフの鋭い切っ先で肌をなぞれば真っ赤な動脈血が勢いよく吹き出しそうだ。しかしその白い枕のうえに突然大きな顔が横たわる。女性が開いて太腿に置いた雑誌の広告ページだった。僕は少し残念に思った。そのまま目線を上に滑らせていって顔を拝見する。天は二物を与えず、というのはやはり本当だと僕は思った。

 僕の直前に受付を済ませていた大学生風の青年が名前を呼ばれて立ち上がる。彼もまた足の爪先から頭の天辺まで健康そのものといった様子である。病院の待合室にこれほど健康的な若い男女がいても良いものだろうかと僕は疑問を抱く。彼はなぜここに来たのだろうか。ひょっとするとテストに遅刻しそうになって大急ぎで病院に駆け込んで診断書をもらおうとしているのかもしれない。僕は自分の経験からそんな風に想像する。あのときの年配の医師は、どこからどうみても病身ではないにもかかわらず縋りつかんばかりの勢いで頼み込む僕に、訳知り顔で診断書を書いてくれた。きっちりそれなりのお金は取られたけれど、その代金で単位を買ったと思えば安いものだった。

 そんなばかばかしい思い出に浸ったりしているうちに気づいたらけっこう時間が経っていることに気づく。彼が診察室に入っていってから、少なくとも7,8分は経過している。どうしたのだろうか。あんなに不健康そうな中年男がものの数分で出てきて、あんなに健康そうな若い男性がもう10分も診察が続いている。僕は自分の見立ての悪さに呆れ返ってしまった。窓から差し込んでいた陽光が翳る。テレビ画面は番組が変わってドラマが映し出されている。二人の男女がリビングのテーブルに座っている。二人ともテーブルの上に手を出したままじっと俯いている。女がなにかを小声で言ったが、テレビの音量が小さくて聞き取れない。けれど表情や仕草でなにか深刻な話をしているのだろうことが推測できる。

 そのとき診察室の扉が開いて例の若い男性が出てきた。僕は目を見張った。様子が先ほどとあまりに違っていたからだ。青々とした竹のようにピンと伸びていた背筋が柳の枝のようにしだれ、顔はテレビドラマの男性とまったく同じように俯いて床を見つめている。振り子のように元気よく前後に振られていた腕は太腿に接着されて固められたように動かない。しかし依然として血色は良いし髪の毛も黒々と艶めいている。こんなに生気に満ち溢れた青年に一体どんな診断が下ったのか。僕は見当もつかずにただなんとなく申し訳なさを感じながら見つめていた。

 しかしもうほんの少しすれば僕も診察室へと呼ばれる。もうこれで30分と少しは待った。そろそろ待ちくたびれた。診察室の扉が開く。僕は自分の名前が呼ばれるのを待ち構える。え、僕の病状は何なのかって? それは……

 名前が呼ばれた。はい。僕は返事して立ち上がる。ゆっくりと診察室へ歩いて行く。待合室じゅうの患者が僕の背中を多少の興味とともに見つめているのを感じる。僕に見られていたあの患者たちもこのような感触を覚えていたのだな、と僕は気づく。眩い光の向こうにかかりつけ医の仏頂面が見える。僕の背後で診察室の扉が扉が閉まる。