雑感など

内容の信頼性はこれを保証しない

小説にしかない魅力はすべてミラン・クンデラが教えてくれた

 最近、小説はどうしてなくならないのだろうという疑問について考えている。自分自身、小説が好きであるにもかかわらず、どうしてそのようなことを疑問に思うのか。それは、物語を伝える他の媒体(映画や演劇、マンガなど)に比べて小説にどのような表現上の利点があるのかさっぱりわからないからだ。

 小説というのは原則として言語のみで物語を伝える。まれに挿絵があるものもあるがそれは例外である。映画は映像と音楽と言語で、マンガは画像(絵)と言語で、小説とほとんど同様のことをする。演劇はちょっと特殊だけど、役者の演技という映像もあるし、当然喋るのだから言語もある。となると、ごく単純に考えても、手段が二つ以上の映画、演劇、マンガと比べて、手段が一つしかない小説は分が悪いに決まっている。

 僕は、とくに映画に比べて小説というのはいかにも非力だと思う。何と言っても映像の力というのは本当にすごいのだ。たとえば、汚い例で大変申し訳ないが、いま僕が言葉で「彼はアスファルトの道路に吐瀉物をぶち撒けた」と書いたとして、いかほどの不快感を読者に与えることができるだろうか。その不快感は、実際の人間が嘔吐している姿と地面に広がる吐瀉物の映像を見せつけられる際に比べれば本当に他愛のないものである。不快感である必要はない。言葉で「彼は彼女の肩口から指先まで隈なく、ゆっくりと口づけをしていった」などと書くぎこちなさに比べれば、映画のベッドシーンの官能性は言うまでもない。

 かてて加えて、映画には音楽(劇伴)という武器がある。これは本当に強力である。ためしに、『2001年宇宙の旅』をミュートにして鑑賞して、それから音声つきに戻してみると良い。あの映画が、「ツァラトゥストラはかく語りき」「美しく青きドナウ」といったクラシック音楽をいかに効果的に用いているか、またそのおかげで名作となり得たということが嫌でも分かるだろう。作家志望が書いたろくでもない小説で、「僕の頭のなかで(曲名)が流れた」などという一文と出くわすことがあるが、それも音楽のあまりにも強い力を拝借したいという願望の現れであろう。

 さらに昨今、映画には、CGというとんでもない技術まで導入されている。この技術によって映像表現の地平は飛躍的に広がった。それは現実には存在し得ない事物をあたかも現実に存在しているものと同じようなリアルさで画面に登場させることを可能にした。たしかにアナログな手法の持つ独特な魅力もあるのだろうが、一度「トランスフォーマー」シリーズの映像に打ちのめされてしまえば、もはやCGという最新技術を毛嫌いする理由などどこにもないことがよく了解できるはずだ。

 演劇、マンガの場合に対しても小説はなんとも頼りない。演劇でいちばん力を持っているのはやはり役者の存在感である。生の人間の生の身体が動いたり声を出したりすることの迫力というのは何ものにも代えがたい。物語が眼の前でまさにいま展開しているという臨場感がある。そして、マンガの強みはCGの場合と同じで、現実には存在し得ない事物を絵画的な説得力によって導入することができる点である。マンガの非現実的な表現はある意味ではCGよりもすごい。CGは結局のところ三次元をどれだけ再現するかにかかっている。しかしマンガはそのしがらみがない。マンガで美少女の表現が発達したのもそのためであろう。CGで美女を生み出してもどことなく嘘くさいが、マンガはそもそも三次元的なリアルを模倣する必然性から解き放たれている。

 映画、演劇、マンガ……これらの媒体に比べて、いったい小説にはどのような強みがあるだろうか。僕にはちょっと思いつかない。想像力を働かせて読むことができるとはよく聞くが、人間の頭のなかで描ける風景などたかが知れているのではないだろうか。「机の上にはリンゴ、バナナ、マンゴーが雑然と置かれている」という一文を読んだら、おおかたの人間は「机」「リンゴ」「バナナ」「マンゴー」を順々に思い浮かべるだけで終わるのではないだろうか。僕の想像力が乏しいだけかもしれない。しかし、映像で見れば一瞬で済む話ではないか。だいたい、想像力を働かせるだけなら何も小説など読む必要はない。小説は他人の想像力に乗っかっているだけだが、僕らはベッドの上でいくらでも自分のお気に召すままに空想の世界に浸れるのだから。

 あとは、文章表現を味わうことができるからというのもよく目にする小説の擁護だ。これはそこそこ的を射ていると思うが、映画、演劇だって活字にはなっていないにせよ言語を用いるのだし、映画の名ゼリフなどをまとめたサイトがたくさんあることを考えれば、多くの人が映画の言語表現をも楽しんでいることは言うまでもない。そしてマンガは言わずもがな活字の言語表現がある。そしてマンガの名ゼリフなどというのも枚挙にいとまがない。小説が文章表現だというのは単なる量の問題に過ぎないのだ。

 そうは言っておきながら、小説に特有の魅力があることはどうしても否定できないのである。なぜなら、もし一切見るところなしの媒体であったのならとっくに衰退してあるいは消滅しているはずだからである(いや、実際かなり衰退はしているのだろうが)。映画やマンガがなかったころに小説が人気だったのは当然であるが、それらの別種の媒体が発達した現在でも年間に膨大な数の小説が生み出され消費されている。その事実だけでも、映画や演劇、マンガさえあれば小説などこの世に必要ないというわけではないことを十分に証明してしまっている。

 ではとどのつまり小説の強みとは何なのか。答えは人によりけりだろうがそんなことを言っても不毛なだけなので、僕なりの考えを書いてみる。この問題に対するには、これは映像化/マンガ化できない(しても同等の出来にはならない)だろうと考えられる小説作品にどのような魅力があるのかを考えれば良いと思う。そうすれば小説でしか味わえない何かの正体が朧げなりともつかめるはずである。

 そう考えたとき、真っ先に僕の頭に浮かんでくるのはミラン・クンデラの小説である。たとえば彼の代表作『存在の耐えられない軽さ』は次のような書き出しで始まる。

永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて! いったいこの狂った神話は何をいおうとしているのであろうか?」(集英社文庫、6ページ)

  いかかだろうか。とてもじゃないが小説の冒頭とは思えない文章である。とはいえ決して哲学書ではなくれっきとした小説であり、さらに言えばいちおう恋愛小説である。世の女性たちは(男性もか)こんな恋愛小説などまっぴらごめんだと考えるかもしれないが、実際この小説は全世界で極めて高く評価され、ミラン・クンデラは20世紀を代表する作家としてノーベル賞の万年候補となっている(万年候補は村上春樹だけではないのだ)。

 さて、この『存在の耐えられない軽さ』は、実は映画化されているのである。しかしこれは僕に言わせれば長ったらしいだけで実につまらない。理由は至極はっきりしていて、上に引用したような小難しい観念的な文章がきれいさっぱりなくなって、単なるラブストーリーと化してしまったからである。当然である。こんな文章をどのように映像化すれば良いというのであろうか。そもそも、なぜこの小説を映画にしようと思ったのか監督に三日三晩かけて問い詰めたいし、なぜ映画化を許可したのかミラン・クンデラに聞いてみたいところである。この小説の筋はそれは大したことがない恋愛小説のそれである。それがなぜ僕の好きな小説ランキングトップ10に入るかといえば、作者クンデラがいちいち顔を出して物語に注釈をつけ思索を披露するのが面白いからである。たとえば次のように。

「だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?

その重々しい荷物はわれわれをこなごなにし、われわれはその下敷になり、地面にと押さえつけられる。しかし、あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えることに憧れる。もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。」(同上、8-9ページ)

  書き写しながらうっとりしてしまうほど独創的な思索である。ふつう小説を読むときには作者の顔がうっすらとでも見え隠れするのを読者は好まない。しかしことクンデラ太宰治に限っては事情はまったく逆である(僕は太宰は読まないがたぶん間違っていないはずである)。僕は別に、100%でっちあげの物語をあたかも現実の出来事であるかのように思い込んで一喜一憂するためにクンデラの小説を読むのではない。僕はクンデラに会いにいき話を聞くために彼の小説を手に取るのである。ちょっと気難しいが頼めば渋々といった様子で次から次へと興味深い話をしてくれるクンデラ先生の家を訪れるように、彼の著書をひもとくのである。だからクンデラの小説は読者をだまくらかす気が一切ない、まったくの虚構であることを隠す気が微塵もないけれども、それで一向に構わないと思うのである。

 クンデラは評論集も四冊出していて、そのうちのひとつ『小説の技法』(岩波文庫、2016)において、小説に残された可能性は4つであると断言している。「遊び」「夢」「思考」「時間」である。このうちクンデラが自作で最も重視しているのがすなわち「思考」ということになる。ここでうんちくを傾けるならば、クンデラが強く影響を受けているのはロベルト・ムージルヘルマン・ブロッホという作家であり、とくにヘルマン・ブロッホクンデラ以前に小説に評論・エッセイを導入した画期的な人物である。そして、クンデラが考える優れた小説とは、まさにそういった読者を思考へと誘う小説なのである。その点、彼はしっかりと有言実行していると言えるだろう。僕は高校生のころクンデラの文学に出会い、心の底から魅了された。以来、クンデラが誘ってくれた思考の世界で僕はいまだに彷徨い続けている。彼の文学は僕の現在の文学観のほぼ9割くらいを形成したし、また人生観の5割くらいは彼の文学によって醸成されたといっても過言ではない。思うに、最も魅力というか魔力のある作家とは、思春期の読者を魅惑しその後の人生観やものの見方考え方に決定的な影響を与えられる作家ではなかろうか。その点、僕にとっての文学的ヒーローは永遠にミラン・クンデラであり続けるだろうと思う。

 小説にしかない強みは何かを考えようとして記事を書いていたら、いつのまにか自分が好きな作家の紹介になってしまっていた。でもそれが僕にとっての答えなのだ。ミラン・クンデラという作家が登場したということだけでも、小説という芸術がこの世界に生まれた意義はあったのだ(というのはさすがに言いすぎかもしれない)。要するに、読者に直接的に思考を促すことができるのが小説にしかない強みのひとつなのだ。映画にも思考を促されるものはあるが、あくまで間接的だから気づかずに素通りしてしまうこともある。なにより考え事をしながら映画なんて見ていられない。その点、小説は立ち止まっても全然問題ない。その鈍臭さこそが実は小説の魅力にほかならないのである。

 ちなみに、僕がいちばん好きなミラン・クンデラ作品は、処女長編である『冗談』(岩波文庫、2014)である(この小説は、好きな小説ランキング暫定1位でもある。今度またじっくり紹介したいと思っている)。その次に好きなのが『不滅』(集英社文庫、1999)と『存在の耐えられない軽さ』(集英社文庫、1998)で、あとの作品はどれもそれなりに面白いが、フランス語で書くようになった『緩やかさ』(集英社、1995)以降はあまりおすすめしない。

冗談 (岩波文庫)

冗談 (岩波文庫)