雑感など

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「自意識の揺れを吹き飛ばしてくれるもの」

 作家(経済評論家ではない)の村上龍がラジオでこんなことを語っていた。村上春樹が絶大的な人気を獲得したのは、彼の作品は「自意識の揺れ」を描いていてそれが世界中の人々の共感を呼ぶからだという。僕は村上作品はほとんど読んだことがないのでこの意見の当否は考えるべくもない。僕の気に留まったのはむしろその後の発言である。曰く、村上春樹は「自意識の揺れ」を描いているけれども、自分が好きなのはそういう「自意識の揺れ」を吹き飛ばしてくれるものだそうである。

 「自意識の揺れ」は必ずしも悪いことではない。それは村上龍自身も言っている。そしてそれを文学において描くことも意義深いことだ。世の中の小説家がみな村上龍のような価値観の持ち主だったら、文芸というジャンルから豊かさがなくなってしまう。春樹がいて龍もいるからこそ面白い。それは間違いない。

 そして、実際、多くの若者は多かれ少なかれ「自意識の揺れ」を経験するものである。「自分とは何か?」「自分には何ができるのか?」「どうして自分はこうなのか?」「自分が存在する意味はあるのだろうか?」そんな数多の疑問文が、若者の脳内では渦巻いている。そこから抜け出せないまま大人になったような子どものままのような曖昧な存在になってしまうこともある。それが良いことか悪いことかはともかくとして。

 そういった「自意識の揺れ」は、繰り返すが、悪いことではない。なぜなら、そういった揺れを経験するなかで若者は理想の自己像を描き出していき、また同時にそれを現実のまだ何もできない自己とすり合わせながら少しずつ社会へと着地していくものだからだ。ある者はより理想に近い地点へと着地し、ある者は理想からかけ離れた地点へと着地する。その差は残酷かもしれない。しばらくは理想と現実の歴然とした差に打ちひしがれるかもしれない。しかしいずれは、かつては切実なものに思えていた理想も、まるで遠く霞に包まれた風景のなかの一点のようにしか見えなくなる日がくるのだ。

 とはいえ、いくら成熟のために必要な過程であるとしても、あるいはいずれ過去の一季節に過ぎなくなるとしても、他でもないまさに今、それを経験している者にとっては、「自意識の揺れ」とは実に苦しいものだ。どこを向いても果てしない水平線が見えるばかりの大洋に自分たったひとりで、いまにも転覆してしまいそうな頼りないぼろぼろの木舟を、惨酷な波に絶えず揺さぶられながらか細いオールで漕いでいるようなものなのだから。海が凪いでまったく進まないこともあるし、台風に巻き込まれて海が大荒れに荒れることもあるだろうし、孤独に耐えかねて叫び出したくなることもあるだろうし、船酔いをして不快な吐き気に悩まされることもあるだろう。

 そんなとき、少しでも気持ちを楽にするために、文学を、あるいは映画でもマンガでも音楽でもいいが、私たちは手に取る。そういった場合、二種類の作品が私たちを慰めてくれる。ひとつは村上春樹のように「自意識の揺れを描いた」作品で、私たちはそこに描かれている揺れと自分たちの揺れを重ね合わせ、孤独な苦しみをより大きな苦しみのなかへと溶け込ませ、肩の荷を軽くしてもらうことができる。しかし、時にはそういった「自意識の揺れを描いた」作品によって、より揺れが大きくなってしまうことがある。作品のせいかもしれないし、私たち自身のせいかもしれない。それはわからないが、いずれにせよそういうときは「自意識の揺れを描いた」作品はやめたほうがいい。

 「自意識の揺れを描いた」作品が逆効果になってしまうときには、もう一種類の作品、すなわち「自意識の揺れを吹き飛ばしてくれる」作品に出会わなければならない。凪いだ海に波を起こし、台風を退散させ、叫び声を吸収し、吐き気を発散させてくれる、そんな作品に触れなければならない。村上龍は間違いなくそんなとき味方になってくれる作家のひとりである。彼の作品の多くはそれだけのパワーを漲らせている作品だが、なかでも僕は『コインロッカー・ベイビーズ』をおすすめしたい。これは本当に凄まじい、日本文学の歴史に残る異色の傑作である。あらすじの紹介はしないが、物語の内容にも、それを表現する文体にも、いたるところから火山の噴火のようにエネルギーが溢れ出している。読むと涙を流してしまう小説は世にたくさんあるかもしれないが、僕は『コインロッカー・ベイビーズ』を読んで初めて、小説を読んで鳥肌が立った。それは本当に火山の噴火を目の当たりにしているかのような熱量だった。当時、部屋に引き籠もって窓をカーテンで閉ざしベッドに沈み込んでいた僕は、この小説を読み進むにつれ段々と身体が奮い立ち、最後の一行を読み終わり小説の世界から蹴り出されたときには玉のような汗をかいていた。これは誇張ではない。以来、忘れられない読書体験のひとつとなっている。

 しかし、僕にとって「自意識の揺れを吹き飛ばしてくれた」より大きな存在は、ベートーヴェンである。中学3年生のとき、とにかくいろいろなことが積み重なって塞ぎ込んでいた僕は、ベートーヴェン交響曲第5番を聴いて驚愕した。自分の懊悩や葛藤がどうでもよくなってしまうほどの音楽が、まさかこの世に存在するとは夢にも思っていなかったからだ。そしてベートーヴェンの音楽を片っ端から聞いた。交響曲はすぐにすべて聞き終わったので次はピアノ協奏曲を聞いた、それからピアノ・ソナタも32曲全部聞いたし、弦楽四重奏曲もほとんど聞いた。どの音楽にも信じられないほどのパワーが満ち溢れていた。迫りくる楽音の洪水のなかでベートーヴェンの不滅の魂が躍動していた。何百年の時をも軽々と超越して彼は僕の心を叩きにきた。そしてこう怒鳴られているような気がした。クヨクヨしている時間などない、急げ、と。ベートーヴェンの音楽には、激烈なものもあれば優雅なものもあり、騒々しいものもあれば静謐なものもあった、苦渋に支配されたものもあった。しかし、どんな曲調であっても必ず、常に前に進む意志が、ベートーヴェンの曲にはあった。大波に打たれても、暴風に吹き飛ばされても、大木が倒れ掛かってきても、絶対に立ち止まりはしないという決意が迸っていた。

 ベートーヴェンに出会うまで、僕は芸術のことなどこれっぽっちも信用していなかった。所詮それは作り物にすぎない、と。小説にしても、作り物の人物の作り物の人生に喜んだり悲しんだりするのはばかばかしいとしか思っていなかった。しかし、それはあまりにも大きな間違いだとベートーヴェンに教えられた。芸術自体はたしかに作り物である。虚構である。だが、それを鑑賞する者が大いなる感動とともに芸術を体験するとき、それは単なる現実以上の真実になるのである。ひとりの人間が生み出した虚構が、会ったことも話したこともない他人の心を動かし、現実を打ち倒すのである。それこそが芸術の真価であった。自分の「自意識の揺れ」を芸術によって吹き飛ばされる経験をしたとき、僕はそのことを身にしみて感じた。

 もちろん、「自意識の揺れ」は一度吹き飛ばされたくらいでは完全に去っていてはくれない。ベートーヴェンによって一旦は吹き飛ばされた台風はまたすぐに僕のもとへ戻ってきて、束の間に差し込んでいた陽光を無惨にも遮った。そして僕はまだ「自意識の揺れ」から脱しきれていない。しかし今でも、そう多くはないが、ときに素晴らしい芸術と出会い、ひとときの解放を味わうことがある。だからこそ僕は今では芸術の力を信じて疑うことがない。そして、いずれは自分が、「自意識の揺れを吹き飛ばしてくれるもの」を生み出せるようになりたいと思っている。